第六話 それが恋と呼べるものならば
1
彼女に出会ったのは、弘前にある、ある茶道教室のお茶会の席でした。
彼女は、薄桃色の訪問着がとても良く似合う、それはそれは美しい人でした。
私はお茶会の間中、彼女から目が離せなかったことを覚えています。
一目惚れ、とはまさにこのことでした。
お茶会がお開きになると、私は出て行く彼女の後をそっと追いました。
彼女は上下とも黒いスーツを着た大男たちに付き添われて、黒いベンツに乗って帰って行きました。
彼女は、車内から私を見て、頭を軽く下げました。
彼女はどこかの、高貴なご令嬢に違いありません。
戻ると、私のお茶の師匠が言いました。
「あの方に惚れてはいけません。あの方とあなたとでは、あまりにも身分が違い過ぎるのです」
身分だって!
私は憤慨しました。
だってこの平成の世の中に、身分違いで恋ができないなどということが、ありえるものでしょうか。
私は、どうやったら、また彼女に会えるだろうかと考えました。
また出会えることを信じて、次のお茶会にも絶対に出席しようと、私は心に誓ったのでした。
2
その男性に出会ったのは、弘前にある、ある茶道のお教室の、お茶会の席でのことでありました。
その男性は、私の顔をじっと見詰めながら、ぽかんと口を開けておりました。
お手前など、まるで上の空のようです。
私はそれがおかしくて、笑いを堪えるのに必死でありました。
お茶会がお開きとなり、私はいつものようにボディガードたちに付き添われ、車に乗り込みました。
なぜボディガードが必要なのかですって?
だって弘前には、あの男がおりますでしょう。
太刀を常に持ち歩く、恐ろしいあの男が。
車が動き出す前、あのお茶会で見かけた男性が、私を見詰めているのに気が付きました。
私は車の中から、軽く会釈を致しました。
車が走り出します。
一番古株のボディガードが言いました。
「姫様、さしでがましいことを申すようですが……」
「構いません、おっしゃいなさい」
「あんな男などとは、決して恋に落ちませんように。しょせん、ご出自が違うのですから」
私は、笑って、心配は無用です、と答えました。
しかし、あの男性のちょっと愛嬌のあるお顔を、私は忘れることができなかったのです。
3
彼女に再び会えたのは、半年も過ぎてからのことでした。
彼女は、今日は薄紫色の訪問着です。
前回も美しいと思いましたが、今日はその何倍も美しいのでした。
お茶会がお開きになり、彼女は去って行きます。
私は、彼女が車に乗り込むのと同時に、黒服の大男たちの制止を振り切って、彼女の窓の横に飛び出しました。
「この手紙を、読んでください!」
それは半年前から準備していた、彼女へのラブレターだったのです。
すると、黒服の大男の一人が、私の手の中からそれを奪い取りました。
そして目の前で、ラブレターを真っ二つに引き裂いたのです。
呆然とする私を、その男は突き飛ばしました。私は、アスファルトの上に転がります。
「おやめなさい!」
凛とした声でした。
「はっ!」
大男が、これ以上もないくらい、身を縮こませます。
「私の配下の者が、無礼なことを致しました。どうかお許しください」
ベンツから降りると、彼女は私に手を差し出しました。
私は恐れ多くてその手を掴むことが出来ず、自力で立ち上がりました。
彼女が、大男に手を向けます。
すると大男は黙って、破った手紙を彼女に手渡しました。
「必ず目を通させて頂きます。ですから、今日のことは、平にご容赦くださいませ」
深々と頭を下げます。
私はしどろもどろで、はい、とか、ええ、とか言うのが精一杯でした。
4
車が発進すると、私はその手紙を手提げ袋に大事にしまいました。
古株のボディガードが尋ねます。
「まさか姫様、本当に目を通されるつもりではありますまいな?」
「約束は、たがえぬものです」
弘前から遠く離れた我が家に辿り着きますと、私は「疲れました」とだけお手伝いたちに告げ、自室に入りました。
そうして私は文机に向かい、男性からの手紙を読み始めたのです。
それは恋文でありました。
手紙には、私への熱い思いがしたためられてあったのです。
私は何だかおかしくなりました。
たかが一度会っただけなのに、こんなにも思ってくれるなんて。
私は、それにふさわしい女でしょうか?
いいえ、私の出自を知ったのなら、この男性も慌てて逃げ出すに決まっているのです。
私はそれをくずかごに入れ、処分しようと思いました。
恋など、もうごめんです。
恋は私を、盲目にしてしまいます。
私は、もう恋などしない、と誓った身の上なのです。
しかし、私はそれを捨てることができなかったのです。
私はその恋文を『セロテープ(世の中には、何と便利なものがあることでしょう!)』というもので繋ぎ合わせると、文机にそっとしまいました。
それからの日々、私はその手紙をときどき取り出しては、丹念に読み返すのが楽しみとなりました。
ああ! 私は下界のものなどに、恋をしてはならぬ身の上なのに!
しかし、こう言っては失礼かも知れませんが、その『ボールペン(これも素晴らしい発明です!)』でしたためられている拙い文字の手紙。
私はそれを読むたびに、胸の奥底で、何かが熱くなるのを覚えるのでした。
5
私のアパートの目の前に、ベンツがやって来たのは、それからまた半年後のことです。
黒服の大男は言いました。
「姫様が、お会いになりたいと申されておる。至急、準備なされよ」
姫様、と聞いて、私には誰のことなのかすぐにわかりました。
姫様!
まさしく彼女は、姫様に違いありません!
私は、あわてて一張羅のスーツに袖を通しました。
ベンツは、特に名を秘しますが、ある料亭に向かいました。
車から降りるとき、大男の一人が言いました。
「決して、粗相のないように」
私はその料亭の奥の奥、私のようなものでは料亭の仕組みも良くわかっていないのですが、おそらく一番上等な部屋で彼女に会いました。
彼女は、赤い振袖を着ていました。何と似合って美しいことでしょう!
そして私は嬉しくなりました。まるでお見合いの席のようだったからです。
「お久しぶりですね、近藤様」
ラブレターに私の名前はしたためてありましたから、私の名前を知っているのは当然です。
しかし彼女のような美しい存在に、私ごときの名前を覚えて貰えていたというだけで、私は胸が熱くなる思いでした。
私は尋ねました。
「あのう、あなたのことは、何とお呼びすればいいのでしょう? どうやら姫様、と呼ばれているようですが」
彼女は、ころころと笑いました。
「姫様などとは呼ばないで下さいまし。私の名は、楓(かえで)と申します」
美しい女性は、名前までも美しかったのです。
見た目にも素晴らしい料理が、運ばれてきました。
しかし、緊張している私には、その味がさっぱりとわからないのです。
緊張してガチガチになっている私に気が付いたのでしょう。
楓さんの方から、私に話しかけてきてくれました。
「近藤様は、何をなされているのですか?」
「SEです」
「えすいー?」
楓さんは可愛らしい首を傾げます。
「システムエンジニアです。まあ、プログラマーの一種だと思ってください」
「まあ。コンピューターをお使いになられるのですね。私、あれが大の苦手」
彼女は、そう言って笑います。
「私、テレビのリモコン以上に、『ボタン』が付いているものは操作できないのです」
本当に、姫様というものが世の中には存在しているのだなあ、と私は思いました。
私は、緊張していましたが、とにかく知っている知識を総動員して会話を続けました。
ひいきの球団(東北楽天イーグルスですが)、から、コンビニで出会ったおかしな店員の話(楓さんはコンビニに行ったことさえありませんでした!)、同僚のビジネス上の大失敗の話(楓さんに会社の仕組みを説明するのは骨でしたが)から、近所の野良猫の話まで。
しばらくして、ふすまの向こうから男の声がしました。
「姫様」
と声がかけられます。
「わかりました」
楓さんは答えました。
「では、本当にお名残りおしいのですが、今宵はこれまでに致したく思います」
「次は、いつ会えますか?」
私は尋ねました。
楓さんは、ちょと寂しげな顔をしてから、
「私、映画館というもので映画を観てみたいのです。だってテレビの画面の何倍も、大きいのでしょう?」
私は楓さんから、電話番号を聞きだしました。
番号でわかります。それは今時、携帯の番号ではないのでした。
「必ず電話しますので」
私は言いました。
「楽しみに、お待ち申しております」
楓さんは頬を染めて、そう答えたのでした。
6
近藤様のお話の、何と面白いこと!
それは田舎の山奥で、お手伝いとボディガードたちに囲まれて暮らす私の心に、大きな穴を開けてくれたのでした。
その穴から吹き込む風の、なんと清清しいことでしょう!
はっきりと今ではわかります。
私は、恋に落ちていたのです。
同時に恐ろしくなりました。
私のような身の上のものが、恋をして宜しいのでしょうか?
私の正体を知ったのなら、近藤様は私を嫌いになるでしょう。蔑むかもしれません。
私は、自分の出自を呪いました。
自分が姫様と呼ばれる存在であることを呪いました。
夜中になると私は、はらはらと涙がこぼれ落ちるのを、止めることができないのでした。
7
この前の料亭で会った時のように、黒服の大男たちは、私に敵意をむき出しにしていました。ですが、そんなことは関係ありません。
私は、映画館のカップルシートを予約して、楓さんと映画を観ました。
今日の楓さんは、薄緑色の江戸小紋を着ていました。本当に楓さんは着物が似合う、美しい人です!
観たのは甘い甘い、恋愛映画でした。
楓さんは、初めてポップコーンを食べて、初めてコーラを飲みました。
「まあ! 口の中で、本当にしゅわしゅわと致しますわ!」
そう言って驚く顔の何と可愛らしいこと!
映画が終わると、楓さんは涙をそっと拭ってから言いました。
「素敵な映画でしたわね」
「喜んで貰えて嬉しいです」
「映画館というものは、音量も驚くほど大きいものなのですね。私、知りませんでしたわ」
私は映画館のロビーで、勇気を振り絞って言いました。
「少し歩きませんか?」
「ええ。それは素敵なお申し出です」
しかし映画館の外に出ると、ベンツが目の前に横付けされていたのです。
待っていた大男に、楓さんは言いました。
「少し、散策致します。ここで待っていなさい」
「しかし……」
「大丈夫です。近藤様が守って下さいますから。ね?」
「ええ、任せてください!」
私は、そう答えました。
だって男ならみな、そう答えるに違いないでしょう?
私たちは、夜の公園を散歩しました。
そしてついに、私は告白したのです。
「私と付き合ってください」
楓さんは尋ねます。
「こんな私でも、宜しいのですか?」
「もちろんです」
「あなたは! あなたは、私のことを何もご存知ないから!」
そう言って楓さんは、しくしくと泣き始めました。
私は、楓さんをそっと抱きしめました。
「たとえ身分違いであっても、関係ありません。私は、楓さんを愛しています」
彼女は首を振ります。
「身分? 身分など何の関係がありましょうか! 出自です! 私とあなたでは、出自が違いすぎるのです!」
私は、楓さんの唇を塞ぎました。
長いキスになりました。
彼女は言います。
「もう恋をしてはならぬと思い生きてきたのに! なのに私は、あなたへの思いを、止めることができないのです!」
その時でした。
暗闇から出てくる、一人の細身の影がありました。
その人物は、手に何か長いものを持っています。
その人物が近づいてきて、その手にあるものがやっと何かわかりました。
それは日本刀なのでした。
8
影から出てきた男!
腰まである長い黒髪! 白いソフト帽に、全身白のスーツ! そして手に握られた太刀!
私は、ぞっとしました!
「魔道都市弘前に、一体何の用ですか?」
その美しい男は、涼しげな声で尋ねます。
彼は、太刀を抜きました。そして鞘を投げ捨てます。
ああ! その恐ろしい輝き!
それは遠く東京国立博物館に所蔵されているはずの国宝、城和泉正宗(じょういずみまさむね)、またの名を津軽正宗の輝きであったのです!
「き、君はなんだ!」
近藤様が詰問します。
「僕はレイゼイ。伊吹冷泉と申します」
そう言って、薄く笑うのでした。
「鬼退治を専門にしております」
「鬼? 一体、何のことを言っているんだ? 警察を呼ぶぞ!」
私は、両手をぱんと打ち鳴らしました。
それと同時に、今まで隠れていたボディガードたちが現れます。
そう、配下の者たちが、私と近藤様を二人きりにしておくわけがないのです。
彼は言います。
「いくらでもかかってきなさい。今宵の僕は、ちとばかり凶暴ですよ?」
ボディガードたちが飛びかかりました。
多勢に無勢なのです。
ああ!
それなのに!
彼はやすやすと、私のボディガードたちを切り捨ててしまったのです。
彼は言いました。
「僕も伊吹の裔(すえ)です。鬼ごときに負けるわけにはいきません。ねえ、鬼姫様?」
ああ!
近藤様の目の前で、私をその名で呼ぶなんて!
近藤様は驚いた顔をして、私を見ます。
私は、いやいや、と首を振りました。
彼は容赦なく続けます。
「また恋をしましたか。また男を捕まえましたか。何度めですか。あなたは何百年生きてきて、何度めの贄(にえ)を見つけたのですか」
「やめて!」
私はたもとで顔を覆い、その場にしゃがみ込んでしまいました。
9
鬼?
楓さんが鬼だって?
「ばかなことを言うな! そもそも鬼なんて存在するわけがないじゃないか!」
「それが、そうでもないのです。ほら、見てごらんなさい」
私は見ました。
彼が切り倒した大男たちは、灰になって風に吹かれていたのです!
「鬼? 楓さんが鬼?」
「そうです」
楓さんは呟きました。
「私は鬼。長らく生きてきた、鬼の末裔なのです」
楓さんは、顔を覆っていたたもとをどけました。
すると額には、二本の長い、白い角が伸びていたのです!
「わあ!」
私は思わず叫んでしまいました。
10
「わあ!」
近藤様は、私の顔を見て叫びました。
しょうがないことです。
私は醜い、鬼なのですから。
私の中で、伊吹の裔への憎しみがむくむくと湧き上がって来ました。
「私もかつては陸奥(みちのく)を支配した鬼の末裔。ここで先祖の積年の恨み、果たさせて頂きましょう」
私は立ち上がり、両手を広げました。
両爪がみるみると伸びて行きます。
その爪で私は、伊吹の裔の喉を掻き切るつもりでした。
「やっとやる気になりましたか」
伊吹の裔は言います。
「僕は、弘前に足を踏み入れた鬼は、誰であろうと切らねばなりませんのでね」
「やめろ!」
その時、近藤様が叫びました。
11
「やめろ!」
私は思わず叫んでいました。
「彼女が鬼だから、何だって言うんだ? どうして殺す必要があるんだ?」
「愚かな」
彼は言います。
「鬼は、あなたを食い殺します。鬼は、そうやって生きてきたのですから」
「そんなことはない! 私たちは、愛し合ってるんだ!」
彼は、やれやれと首を振りました。
「あなたは、鬼に魅入られているのです。その鬼を切り殺してしまえば、元のあなたに戻り、恋心など霧散してしまうことでしょう」
「いや! そんなはずはない! 私は楓さんを、確かに愛しているんだ!」
彼は、冷たい笑顔を浮かべて言います。
「まあ、そう思っているなら、それはそれでいいでしょう。でも、その鬼姫様は、あなたのことなど愛してはいませんよ?」
「ええっ!?」
「彼女、いや、それは、鬼なのです。心があるように見えるだけ、恋をしているように見えるだけ。実際は、あなたの魂を貪り食らう獣(けだもの)なのです。恐ろしい存在なのですよ」
楓さんが叫びます。
「黙りなさい!」
楓さんは続けます。
「そんなことはありません! 鬼にだって心はあるのです!」
私は二人の間に、両手を広げて立ち塞がりました。
「本当に愚かな」
「彼女が鬼だろうと、私には関係ないのだ!」
「僕には大ありなのです。邪魔をすると」
彼は日本刀を構えました。
「あなたも切りますよ?」
「きっ、切れるものなら切ってみろ!」
私は、その言葉を最後まで言い終えることが出来ませんでした。
彼の日本刀は、私に一直線に振り下ろされていたのです。
12
「近藤様! 近藤様!」
「うう……」
私は近藤様を助け起こしました。
身体のどこからも、血は流れ出ておりません。
「峰打ちですよ。手加減しましたが、骨は確実に折れているでしょう」
伊吹の裔は言い放ちます。
「命拾いしましたね。僕は、もう人は切らぬと誓っているのです」
「近藤様! 近藤様! お気を確かに!」
私は叫びます。
「うう……」
近藤様は、息をするのも苦しそうです。
伊吹の裔とは、何と冷酷非道な男なのでしょうか!
「近藤様!」
「やめなさい。鬼が人間の身を案じるなど、滑稽なことです」
私は言いました。
「鬼だって、恋を致します!」
「それは贄を求める、本能の仕業なのです。その男性を、あなたに食わせるわけにはいきません」
私は問いかけます。
「惚れたのが、そんなに悪いことなのですか!?」
伊吹の裔は、顔を歪めます。
「お喋りが過ぎたようです。切らせて頂きます」
私は構えました。
目が、闇の中でもはっきりと見えるようになりました。
犬歯が伸び、鋭い牙と成ります。
口の中に、かつて味わった生暖かい血の味が蘇ります。
私は、伊吹の裔を殺すつもりでした。
可能なら、残酷な残酷な方法で、殺すつもりでした。
しかし。
近藤様が、私の着物に縋り付いて、こう仰ったのです。
鬼になっては、いけません。
そう言い残し、近藤様は気を失ってしまいました。
13
鬼になっては、いけません。
何とつらい言葉でしょう!
鬼と鬼との間に生まれた、純粋な鬼子の私に、近藤様は「鬼になるな」と仰る!
私は、自分の姿が、かりそめの姿、人の子の姿に戻って行くのを感じました。
私は泣いておりました。
ほろほろと、泣いておりました。
私は言います。
「お切りなさい」
私は続けます。
「私の首を切り落とし、神棚にでも飾りなさい。好きにするが宜しいでしょう。ただしひとつだけ、お願いがあります」
「……」
「近藤様に、こうお伝えくださいませ。楓は、あなた様のお言葉通り、鬼にならずに死んで行きました、と。それをお願いできますか?」
「わかりました」
伊吹の裔は答えます。
私は、目を瞑りました。
14
太刀が振り下ろされる気配がしました。
あまりの速さに、私には気配しか感じられませんでした。
「鬼を切らずに帰したとあれば、僕も先祖に笑われてしまいますのでね」
左腕が、たもとごと地面に落ちていました。
「弘前に、もう一度足を踏み入れてごらんなさい。その時は、今度こそ容赦なく首を切り落とします。いいですね?」
私は、切られた肘を押さえながら答えます。
「わかりました。二度と、この都市(まち)には、近づきません」
彼は、落ちた左手を掴み上げると言いました。
「よろしい。今日の約束の証拠に、この腕を頂いていきます。では」
彼は背を向けました。
去り際に、こう言い残します。
「そうそう、あなたはしょせん鬼に過ぎないのです。せいぜい、人間との間に恋とかいうものをしてみることです。それが恋と、呼べるものならば、ね」
私は思わず、その背に叫んでいました。
「あなたは! あなたこそ、本物の鬼です!」
15
配下のものたちが、やっと現れました。
近藤様を車に乗せると、私たちは弘前を離れました。
もうこの都市に、戻ってくることもないでしょう。
16
目覚めると、山奥にある、楓さんの屋敷でした。
お医者様が足繁く通ってくれ、私はみるみるうちに回復しました。
そして私たち二人は、小さな結婚式を挙げたのです。
私たち二人は、幸せに暮らしています。
それでも時々、楓さんは、腕が痛むのでしょう、そっと涙を浮かべるのでした。
「腕を取り返して来ましょうか?」
私はそう言います。
ああ、そんなことが出来るはずもないのに!
楓さんは答えます。
「いいのです。あの都市には、あの男には決して近づかないで下さいませ」
楓さんは言います。
「あなたを愛しておりますから、これくらいの痛みは何でもないのです」
私は楓さんを、強く抱きしめます。
「私が恐ろしい鬼で、あなたをたとえ食い殺すとしても、変わらず愛し続けて下さいますか?」
「もちろんですとも。私はあなたを、永遠に愛し続けます」
そうして私たち二人は、山奥でひっそりと、愛し合って暮らしているのです。
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