4-4

 夜が更けて、ひとり部屋で天井を眺める。どうにかして悠真くんに会う方法はないのか。米軍の最新鋭爆撃機Bー29の大編隊は、もう出撃の準備を整えて夜明けを待っていることだろう。

 ふと、二瀬の顔が思い浮かんだ。彼なら何か助言してくれるかもしれない。しかし、既に深夜となったこの時間、易々やすやすと連絡など出来るはずもない。

 深く溜息をつき、そのままベッドに身を投じる。スマートフォンがことりと音を立てて床に落ちた。すると、それと同時に会話機能の着信があった事を知らせる音が鳴った。

 誰だろうと不思議に思いながら、私は身を起こしてその画面を見る。

【まだ起きてる? 柏森さんから聞いたよ。ちょっと電話していい?】

 二瀬だ。もうこんな時間だというのに。しかし今、私が一番頼りたいと思っていた二瀬が、おそらく相当に私を心配して話をしようとしてくれている。ありがたい。

 私はベッドに腰掛け、わらにもすがるような心持ちで二瀬に発信した。

『あ、まだ起きてたんだね』

「すまない。こんな夜更けに」

『いいんだ。僕、あなたと話したかったんだ』

「結衣さんから何か聞いたのか?」

『うん。明日の朝、志保さんの住む街が空襲を受けるって話』

「そうか」

『それで多分、秋次郎さんは独りで行ってしまうって。だから止めてって』

「止めるも何も、短絡の超え方すら分からんのに」

『でも、行きたいんだよね?』

「行かねばならない、と言った方がいいかも知れんが」

『柏森さんのこと、大切じゃないの?』

「大切だとも。大切だからこそ、私は行かなくてはならないのだ。大切な結衣さんだからこそ、幸せになって欲しいのだ。その隣には……」

『うん?』

「その隣には、悠真くんが居なければならないのだ」

『そっか。そういう事なんだね。大切に思うからこそ、本当に幸せになって欲しいんだね。それには悠真くんが必要だと』

「何か、方法は無いのか」

 数秒の無音のあと、かさりと本をめくる音がして、また二瀬が口を開いた。

『理屈から言えば、たぶん、その空襲のときにも魂の通り道が現れると思う。あの神社の近くに居れば』

「しかし、魂の通り道が現れたとして、そこに短絡を見出みいだしてこちらから悠真くんに語り掛けるなど、不可能なのだろう?」

『うーん、でもね? 鏡台、……あの鏡台はどうだろう。鏡の部分だけでも持っていけないかな』

「志保の鏡台か」

『今までの短絡は、覚知できる人を選んでいる。秋次郎さんは、最初から選ばれているんだ。僕や柏森さんは、魂の通り道を見たけど、一度も短絡した先の世界を見ていないもの』

「それを、あの鏡台が導いているというのか?」

『可能性はゼロじゃないと思う』

「二瀬、今から行くぞ」

『柏森さんは? どうするの?』

「勝手に行くなと言われたからな」

『三人で』

「三人で」




 二瀬が自転車で横田家へやってきたとき、もう外は白々しらじらと夜が明けようとしていた。東の空には薄紅色の雲がまだ眠そうに横たわっていたが、昇り来る太陽がこれを忌々いまいましそうに押しのけていた。

 鳥のさえずりが聞こえる。静かな朝だ。

 朝の清涼な空気が満ちる中、私たちはこっそりと家を抜け出した。始発のバスが停留所の転回場で待機している。

 私は志保の鏡台の鏡の部分を外し、鏡覆いごと脇に抱えて家を出た。二瀬はスマートフォンの録画機能で楽しげに撮影をしている。

 寝ているところを起こされた結衣さんは、まるで遠足の朝に寝坊をしたような慌てぶりで、肩から提げたバッグに珈琲入りのポットや菓子などを入れて停留所へやって来てくれた。昨日の夜見せた悲壮な表情は今は無い。何か、からりと吹っ切れたような、もうこれが最後になっても悔いはないといったような、そんな晴々とした顔をしていた。

「さ、乗ろう。秋次郎さん、柏森さん」

 二瀬の声掛けでバスに乗り込む。始発のバスの乗客は私たち三人だけだった。

 中央よりひとつ後ろの二人掛けに、横に鏡を立て私が腰を下ろすと、すぐ横の通路で結衣さんがじっと私を見て何か言いたげにしていた。

 数秒の後、二瀬が何かに気がついた様子で眉根を下げながら鏡を私の横から取り上げて、そのままひとつ前の一人掛けに座る。すると、寸前まで無表情だった結衣さんが急に満面の微笑みになって、嬉しそうに空きになった私の隣にさっと腰を下ろした。

「川島少尉? お供しますね」

 結衣さんはそう言って片目をつむり、両手で私の左腕をぎゅっと抱き寄せた。

「よ、よろしくお願いします」

 私は照れくさくなって、少々視線を外してそう答える。二瀬はうんうんとうなづいている。

 バスが行くのはいつも通学で通っていた路線。私はなぜか何の根拠もないが、もうこれが見納めか、などと考えながら過ぎ去る風景を眺めていた。

 初めて結衣さんと乗ったバス、初めて横田悠真として登校した高校、ああ、私のそばにはずっと結衣さんが居てくれたのだなと、改めて思った。




 一時間ほどバスに揺られ、私たちは見慣れた学び舎の前に着いた。

 初めてこの高校を見たときは、建物の色彩こそ現代風に鮮やかだが、なんとも病院のような無味な作りで「学び舎」という言葉が似合わないと感じた。

 しかし、結衣さんの隣で学生生活を送る日々が続くと、無味だと感じた校舎も青春を謳歌おうかするに相応ふさわしいおもむきある姿だと感じるようになり、郷愁と共に思い出に刻まれる学び舎に今も昔もないのだと思うようになった。

 昭和二十年に生きていた私なら、おそらくこうは思わなかったろう。

 学び舎はこうあるべきだ、学生にとっての趣ある姿とはこうあるべきだと、伝統と称して形式にこだわり、大儀と称して面子にこだわり、柔軟に事物を評価できずに知るべきを知り得ず、学ぶべきを学び得ずに居ただろう。

 今ならそれが分かる。その結果が、軍国日本だったのだ。無益な精神論を振りかざし、数多あまたの若き命をみすみす大空に散華さんげさせた、大罪を犯した我々の軍国日本だったのだ。

 悠真くんを、その大罪の犠牲者にしてはいけない。

 今の彼を支配してるのは、今の日本人が忘れてしまった真の愛に満ちた勇気だ。愛するものを護るためにその命を捧げることもいとわない、愛の真髄をうたう美学中の美学だ。

 しかし、それは昭和二十年の人間だけで、あの時代を生きた人間だけで充分だ。

 悠真くんの生きるべきこの現代には、現代の愛に満ちた勇気があるのだ。それを彼に伝えなくてはならない。そのために私はここへ来たのだ。

 バスを降りて歩く道すがら、私の脳裏にはそんなことが何度も何度も浮かんでは消え、消えては浮かんでを繰り返していた。

 高校の東にある早朝の幹線道路には、少しずつ自動車の流れが出来始めている。その頭上では二段に重なった巨大な陸橋道路が、生き物のような曲線を描いて建物の間隙をぬって走っている。

「着きましたね、……秋次郎さん」

 立ち止まった結衣さんが、その鳥居を見上げながら独り言のように言った。

 以前三人で来た高校のすぐ南にある神社。

 鬱蒼うっそうと茂る木々の間にのぞくく石段の一番下と中ほどに、二つの鳥居が雄雄しく立っている。道路から段を上がり石畳を進んで最初の鳥居をくぐると、堅牢な急勾配の石段が上へ上へと続き、二つ目の鳥居を過ぎた先はやや左に折れて、石段の一番上は下からは見えなくなっていた。その見えなくなった先には、狛犬こまいぬに護られたやしろがあるはずだ。

 何の確証も無く、何の根拠も無い。有るのは、あの貧しくとも心豊かな故郷日本、劣悪で無責任な精神論が支配していた軍国日本、その時代への想いと、結衣さんの元に悠真くんを取り戻してやりたいという願いだけだった。

「秋次郎さん、ここで待とう」

「そうだな。しかし、もし魂の通り道がここに現れたら、君たち二人は早々に石段を駆け下りて、この神社の森から出てくれないか」

「え? 私、お供するって言ったもん」

「柏森さん、秋次郎さんが心配しているのは僕らも魂の通り道の濁流だくりゅうに巻き込まれて、どこか違うところに流されてしまわないかってことなんだ」

「それは分かっているけど、秋次郎さんがもしその流れに捕まってどこかへ行ってしまおうとしたら、私、ずっと腕を掴んでいるつもりなんだけど」

「結衣さん……」

「柏森さん? 流れに捕まってしまうのは心なんだ。腕をどんなに掴んでもだめなんだよ?」

「そんなのよく分かんない。とにかく、私はここから動かないから」

「秋次郎さん、いい? それで」

「良くない、……が、結衣さんはこうなったら誰の意見も聞かないしな」

「そう、私、誰の意見も聞かないの。秋次郎さん? 私、ずっと隣に居ますから」

「分かりました。でも、誰かが結衣さんの名前を呼んだら、必ず振り向いてくださいね」

「はい。そうそう、二人ともコーヒー飲まない?」

「頂きます」

もらうよ、ありがとね」

 二つ目の鳥居の足元は、少し広めの石畳になっていた。私たちは、その石畳からまた石段が上へと登り始めたあたりに三人並んで、ちょうど二つ目の鳥居を後ろから見上げるように腰掛けた。

 私が一番右で真ん中に結衣さん、そして一番左が二瀬だ。志保の鏡は、まるで四人目がそこに座っているかのように私の右横の石段に立て掛けた。

 が少しずつ高くなり、街に喧騒けんそうが広がる。

 記録にあった空襲が始まる時刻までは、まだかなりの時間があった。誰も口を開かず、ただただ、道路を走る自動車の騒音と森の木々のさざめきだけが、私たちを包んでいたのだった。




 次に気がついたのは、まぶたを通した強烈な光を感じた時だった。

 ゆっくりと目を開けると頭上を覆っていた木々は無く、目が覚めるような澄んだ青空が全天に広がっている。横を見ると、結衣さんと二瀬が石段に背を預けて眠っていた。私もいつの間にか眠っていたようだ。

 足元を見ると、石段の石の継ぎ目という継ぎ目から砂金ように輝く光がゆらゆらと舞い上がっており、金色のカーテンが風に棚引たなびくように幻想的に私たちを包んでいたのだった。

 ここは、……魂の通り道の中か。

 無数の浮遊する光の点が、ゆっくりと石段を上へ上へと昇っている。

 しばらくすると、まるで映画の銀幕に映し出されたような開けた風景が、私の眼前に立ち昇った。見覚えのある風景、隊舎の廊下、教場から外へ向かう途中の部隊幹部室の前だ。私はその廊下を歩いている。

 短絡だ。しかし、今までの短絡とは違う。

 私は明らかに短絡点を超えて、昭和二十年の世界に干渉している。しかし、手を見れば体は横田悠真だ。

 そして、なぜが自分の重さを感じない。

 まるで私は幽霊のようだ。

 もしかすると今まで数々の奇怪な現象で「幽霊」と騒がれてきたものは、今の私と同じように時間線の短絡を通して現世に干渉してきた、別の時間線の過去や未来の生身の人間なのかも知れない。

 それにしてもこの感触は懐かしい。

 砂が散らばる板張りの床、がらがらと音を立てる木の窓枠、そして粗悪で薄いガラス、この昭和二十年は、間違いなく私が生きていた世界だ。

 窓の外には練習機の「白菊」や複座に改造された練習用の零戦が、格納庫の前に整然と並んでいる。

 その背景の抜けるような青空は、私がこの四か月過ごした未来の青空と何も変わらない。

 なのに、ここは「死を覚悟しなければならない世界」なのだ。いつ誰が死んでもおかしくないのだ。

 すると突然、部隊幹部室の扉が勢い良く開き、見覚えのある顔の士官が廊下へ飛び出して駐機場の方へ駆け出した。  

 私だ。海軍少尉川島秋次郎。

 飛行服を着ている。この時間線があの時と同じならば、この私は私ではない。この私は、横田悠真だ。幽霊の声が聞こえるはずも無いと思いながらも、私は急ぎ走り去ろうとする彼の真の名を呼んだ。

「悠真くん!」

 その私の声が届いたのか、飛行服の川島少尉はその場ではたと立ち止まり振り返る。そして大きく目を見開いて、驚愕の表情でゆっくりとこちらへ手を伸ばした。

『少尉、来てくれたのですか』

 夢ではない。私の呼び掛けに悠真くんが返答した。

「行くのか」

『はい。解隊になった三五二空さんごうにくうから回ってきた古参零戦こさんぜろせんを一機、私が使わせてもらえることになりました。もう出撃します』

「志保のためか」

『すぐにもそこへ行きたいのです。洞海湾沿岸はもう火の海になっています』

「私はどうしても君にこちらの世界へ戻って欲しいのだ。それがだめなら、やはり君には戦後を生きて欲しい。志保と共に」

『その志保さんが生きるか死ぬかの瀬戸際であるのに、私はおかで手をこまねいている訳にはいかないのです』

「どうしてもか」

『結衣は、分かってくれると思います。私は帝國軍人です。愛する者をこの手で護ると決めた海軍士官です』

「悠真くん」

『その名は捨てました。今の私は川島秋次郎です』

「そうか」

『少尉、お願いです。結衣を頼みます』

「分かった。しかし、空戦は初めてだろう?」

『自信はありません。飛んで火にいるなんとかと言われるかも知れません。しかし、私は行かなくてはならないのです』

「ならば、……私も共に行こう」

『え?』

「この特異な短絡が繋がっているうちに、私も君と共に戦いに行こう」

『少尉……』

 私は直立してたたずまいを正し、おごそかに海軍式の敬礼をした。

「昭和の今を生きる川島秋次郎少尉、未来の元少尉は貴殿の空戦随伴を希望いたします」

 一瞬放心した悠真くんは、すぐに私と同じように姿勢を正してさっと海軍式敬礼で返礼した。

『はい。未来の元少尉、私の随伴を許可します』

 きりりと右手を挙げた彼の顔は、晴れ晴れとした笑顔だった。私は、私の顔にこんなにもいさぎよい笑顔が出来たのかと思いつつ、その私であって私でない顔を見たのだった。

『よしっ! かかれっ!』

 悠真くんはそう言うと、さっときびすを返してまた走り出した。「かかれ」は海軍の日常的な号令だ。悠真くんは、私よりずっと軍人らしい、本当の海軍士官になっていた。




 エンジンが轟音を立てプロペラが回る零戦の左翼のフラップ後方で、私と入営同期の小林上等整備兵曹じょうとうせいびへいそうが待機していた。

「川島特務少尉! ぼろだが、ちゃんと闘えるようにしてあるからな! しっかり働けよ!」

 この男には本当に世話になった。あの時、魂の通り道に遭遇して不時着した、この男が手塩にかけて整備してくれていた零戦を、五体満足で隊に帰してやれなかったのは本当に申し訳なく思った。

 ぜひびを言いたいが、この男に私の姿は見えていない。

「小林上整曹、本当にお世話になりました。不時着させてしまった零戦のこと、本当に申し訳ありませんでした」

「え? いや、そんな。お前、あのときのこと思い出したのか?」

「いや、よく思い出せてないのですが、零戦のことに留まらず、あなたが私のためにいろいろと手を尽くしてくださったことは知ってましたので……。本当にありがとうございました」

「最後の最後にそんなしおらしいこと言うな。まぁ、狐憑きつねつき扱いは大変だったな。この零戦はお前にやるから、思う存分やってこい! 絶対俺も後から行くからな。靖国で会おう!」

「はい!」

 私が言いたかったことを、代わりに悠真くんが言ってくれた。小林上整曹に敬礼した悠真くんは搭乗用の引き出し棒に手を掛け、「フムナ」と書かれたフラップの横に慎重に足を乗せて操縦席に乗り込んだ。

 その零戦は、二瀬の父親に連れて行ってもらった資料館で見た、あの翼の端が切り落とされたように角ばった三二型だった。三五二空、大村にあった第三五二海軍航空隊に配備されて雑用に使われていた、いわば余剰機だ。隊が解体されたときに残っていたこの機は、特攻隊員の即席養成のための練習機として、つい一昨日おととい、岩国へと移送されてきたばかりとのことだった。

 操縦席で、いつの間にか私の視界は悠真くんのそれと重なっていた。手に感覚が戻る。右手は操縦桿を握っている。足は方向舵を踏んでいる。間違いなく、私は今、この零戦の操縦席に搭乗している。

 そして感じるのだ。暑さも、匂いも、重さも、そして風も。それは悠真くんも感じているはずだ。今、私たち二人は、この昭和二十年の空の下で、同じ体を共有し、ともに戦地へ赴こうとしている。

 愛する者を護るために。

 左手でエンジンのスロットルレバーをゆっくりと押した。車輪のブレーキを外すと、零戦はゆっくりと地面を滑走し始める。そして滑走路の端まで行き、進路を見定めた。

「悠真くん、共に行こう」

「はい、少尉」

 聞こえたのは互いの肉声だった。

 零戦は砂埃を巻き上げながら疾走する。出来の悪い滑走から伝わる車輪のごつごつという振動が、機体の速度がどんどん増しているのを私に知らせた。そして、ゆっくりと操縦桿を手前に引くと、その振動がすーっと消えて機体がふわりと宙に浮く。

 踊るように大空へ舞い上がる零戦。目指すのは、今まさにB-29の大編隊から爆撃を受けている、志保が住む街だ。そこへは到達するには十五分もかからない。

 聞けば、陸軍の基地からも数多くの迎撃隊が舞い上がったようだ。午前九時過ぎには、もう爆撃が始まっていて、敵は二〇〇機を超えるB-29、そしてその護衛に就いているずんぐりとした戦闘爆撃機のP-47が多数。

 気がはやる。

「志保さん……」

 悠真くんが、だれに言うでもなく、喉の奥でつぶやいたのが私の耳にも届いた。

 

 見えた。

 太陽の光を受けて、きらきらと銀色の機体が幾つも浮いているのが分かる。ここから見れば小さいが、近付けば生唾を飲むような巨大な爆撃機だ。その下で、護衛についているP-47に、陸軍、海軍の混成迎撃隊が果敢に戦いを挑んでいるのが見える。

 下は火の海だ。湾の手前の工場地帯からは濛々もうもうと真っ黒い煙が立ち昇り、地上の至るところで真っ赤な炎が上がっているのが、こんな遠くの空からでも視認できた。

 あの湾を渡った先の田舎町には宮町の本家があり、そのすぐ近くには志保とその両親が住んでいる。そして、この空襲を知らなかった志保はまだ、あの濛々もうもうたる煙の下で降り注ぐ爆弾の雨から逃れようと、必死で走り回っているはずだ。

 許せん。

「許せません。僕は行きます」

 悠真くんがスロットルレバーを全開まで押した。私もしっかりと操縦桿を握り、照準器の向こうに見える空に目を凝らす。

 その瞬間、ばりばりばりと左後方から機関銃の音が聞こえた。私は無意識に操縦桿を右に倒し、方向舵を蹴り飛ばして機体を右によじる。それと同時に、左の翼の下を黄色い曳光弾の軌跡が鋭く通り過ぎるのが見えた。撃たれた弾が翼の下をかすめて、前方の雲の中に消える。

 私がさらに機体を捻って左前方に舵をとって水平を取り戻すと、右後ろにP-47が一機、至極いやらしく食らい付いていた。

 志保の住む街はもうすぐそこだ。こんな奴を相手にしている暇はない。回避運動を繰り返し、馬力では絶対にかなわないP-47をひっぺがそうとまっすぐ縦に上昇し、その頂点で逆舵を切って機体をひねった。何度も何度も練習した左捻りこみが、見事にこの古参零戦を回転させる。

「少尉、すごいです」

「私は教官だぞ」

 そして、捻られた機体は、上空でふわりと速度を落とし、あっという間にP-47の後方につけた。まっすく逃げられればもう追いつけない。その瞬間、私ではなく悠真くんが、左手で二〇ミリ機銃の引き金を引いた。

 世界で類を見なかった強力な機関銃の戦闘機への搭載。零戦に搭載された二〇ミリ機銃の弾丸は、一発でも当たれば戦闘機が粉々になる化け物のような機関銃であった。今、まさに火を吹いた二〇ミリ機銃が、前方のP-47を捉える。

 バンっ! と乾いた音がして、P-47は翼の根元から黒煙を吐き出した。通常なら、撃墜を見届けて隊にモールス信号で報告するが、今の私たちにはそのP-47がどうなったかはどうでもよかった。すぐに機首を起こして、前方上空で悠々と爆弾を落としているB-29に意識を集中する。

 見える。見えるぞ。

 全天を覆うかのごとく我が物顔で空を蹂躙じゅうりんするB-29の大編隊の中で、その一機だけが私の目にはまったく違う機体に見えた。

 機体の周りに蝶の鱗粉りんぷんのような鮮やかな光の帯をまとい、さらにその光の帯は天女の羽衣のごとく長く長く機体の後ろに尾を引いている。私には分かるのだ。この機体が、志保の命を奪うと。

「悠真くん、見えるか」

「はい。少尉の目を通して、僕にもあの機体の異様な姿が見えます」

「私はあの機体を落としに行く。しかし、この零戦に積まれている機銃で撃ち落すことは不可能だ」

「はい。私も同じことを考えていました」

「この時間線における私の肉体が消え去れば、私も悠真くんもここでの居場所を失う。しかし、君の本当の肉体は、今、高校の南にある神社の石段であるじの帰りを待っている」

あるじとはあなたの事でしょう? 少尉」

「私は今、魂の通り道に出来た短絡の中から、この昭和の川島秋次郎に乗り移っているのだ。この肉体の現在の『あるじ』である、君の意に反して」

「意に反してなどいません。ここにあなたが居るのは私も望んだことです」

「今の君なら、結衣さんを一生護って幸せにすることができる」

「志保さんはどうなるのです」

「志保は強い女だ。ここで君が護ったあと、戦争が終わればちゃんと幸せになる」

「それでも、僕は志保さんを放ってこの時代を離れる訳にはいきません」

「違うのだ。私が頼みたいのだ」 

「どういうことですか?」

「私が、結衣さんを君に頼みたいのだ」

「結衣を?」

「いいか? 私が、この海軍少尉川島秋次郎が、心の底から護りたいと願った女だ」

「……少尉」

「現代の世で、現代のむすめらしい天真爛漫てんしんらんまんさで人を思いやり、いつくしみ、そして心を尽くすことができる、私が本当に心から護りたいと願った大輪たいりんはなだ」

「ならばあなたが、……あなたではいけないのですか?」

「君に頼みたい。彼女も君が隣に居ることを望んでいる。私が大事に思っていた志保を、こんなにも大切にしてくれてありがとう。志保は大丈夫だ」

「少尉、あなたは」

「いいか? 呼ばれたら振り向くのだ。必ず君の名が呼ばれる。そうしたら迷わず振り向け。軍人のつまらぬ面子を気にするな」

「面子など気にしていません」

「死ぬも勇気、退しりぞいて生きる事は更なる勇気だ。その勇気で、結衣さんを護ってくれ」

「少尉!」

 既に眼前に迫るB-29の大編隊が、私に向かって一斉に機銃を放った。何発も何発も、私の零戦に機銃の弾丸が命中している。エンジンはまだ回っていた。麟粉りんぷんのような衣をまとったその一機は、未だ悠然と腹から爆弾を垂らしている。

 まだだ。まだ落ちる訳にはいかない。

 そのとき、声が聞こえた。

『秋次郎さん!』

 結衣さんが私の名を呼んでいる。その愛らしい声音こわねを忘れるはずがない。

 私は振り向かない。

 大きく旋回した私の零戦が、魂の通り道と同じ、砂金のようなきらきらした光を帯び始め、ふと見ると、翼の上にたくさんの光の点が踊っていた。

 戦友たちか。そうか。私と一緒に行ってくれるか。

 そのB-29が、私の視界いっぱいになる。その瞬間、ぴしっ! っと薄いガラスがひび割れるような音がして、私の耳には何の音も聞こえなくなった。




 気がつくと、きらきらと光る水面みなものような背景がゆっくりと流れていた。私の体は得も言われぬ浮遊感に包まれて、その背景のなかをゆらゆらと漂っている。

 足元に、石段に座っている結衣さんと二瀬が見えた。

 結衣さんが、気を失ったように倒れている悠真の体を揺さぶって、何かを叫んでいる。

 志保の鏡が割れている。粉々に割れて、きらきらとみぎわの砂のような輝きを放ちながら、結衣さんの周りに散らばっている。

 遠くから、愛着のある音色が聞こえた。

 サクソフォーンだ。あの四重奏が聞こえる。

 あの四本のサクソフォーンの清楚せいそ荘厳そうごんな音色が、魂を天に導く「彼方の光」を奏でている。

 その旋律に乗って、私は行くのだ。

 志保や、勲や、戦友たちが待つ、彼方の光のその向こうへ。


『結衣さん、名前を呼んであげてください』


 声は聞こえない。

 結衣さんと二瀬がこちらを見上げた。

 私の姿が見えるのだろうか。

 ならば、もう一度問おう。


『あなたが呼ぶべき名は誰のものか、あなたはちゃんと分かっているはずです。さあ』


 私のその言葉を聞いてか、結衣さんが愛らしい瞳を大きく見開いて放心している。

 そして、その瞳から小さな雫がゆっくりとこぼれ落ちた瞬間……、音もなくぱっと突然周囲が明るくなり、きらきらと金色に光る無数の粒が、砂時計の砂のようにさらさらと背景を流れ出した。

 私はあまりのそのきらびやかさに、思わず右手をかざして目をつむり、左手で襟元をぎゅっと握る。

 そして程なく、閉じた瞼を通して次第に光が弱まるのが分かった。

 風を感じる。

 頬に暖かい風を感じて、ゆっくりと目を開けると、いつの間にか私は飛行服を着ていて、……そして、私の前には制服姿の横田悠真が立っていた。

 今朝まで鏡で眺めていたその顔が、いま私の眼前で私に微笑んでいる。

 まだあどけない十七歳の少年。

 この優しい少年が見せた覚悟は、遥かに私の想像を超えていた。今のこの子なら、結衣さんをしっかり護れるだろう。

 悠真くんは、まっすぐ私を見つめている。

 その曇りない瞳は、その温和な姿からは容易にうかがい知れない、闘う男の覚悟を宿していた。

 私は大きく息を吸って両手を開き、唇を震わせてなにかに精一杯耐えている悠真くんを思い切り引き寄せて、あらん限りの力で抱きしめた。

 私ではなく私であった私。

 充分に闘った。さあ、君は帰るのだ。


『少尉、僕は、志保さんを護れたでしょうか』

『護れたとも。君は軍人として、男として立派に志保を護ったのだ』

『よかった。では少尉、共に靖国に参りましょう』

『それはできない相談だ。聞こえないか? あの、愛らしい声音こわねが』

『何も聞こえません』

『呼ばれているぞ? しっかり心を凝らすのだ』


 音は聞こえない。

 眼下の結衣さんは、口を大きく開けてその名を呼んでいる。

 悠真くんが、聞こえないその声を聞き取ろうとゆっくりと目を閉じた。

 本当は、私にも聞こえていない。しかし、結衣さんは呼んでいるのだ。間違いない。悠真くん、君の名前だ。


『少尉、……聞こえます。僕にも聞こえます。結衣の声が、……結衣が僕の名前を呼ぶ声が』

『悠真くん、行ってあげてくれ。振り向くのだ。結衣さんを護るのは君しかしない』

『少尉』

『もう、私の声は彼女には届かない。伝えてくれ、本当にありがとうと。そして、結衣さんに出会えて本当によかったと』

『……少尉、分かりました。必ず伝えます』

『さようなら。……川島秋次郎であった、横田悠真くん』

『さようなら。……横田悠真であられた、川島秋次郎海軍少尉』


 私から離れた悠真くんは再びゆっくりと敬礼をして、それから後ろを振り返った。

 その瞬間、私の周りを舞っていた無数の光の点が一斉に私に集まり、目を開けられないほどのまばゆい光の金幕となって、緩慢に私を包み込む温かな安寧あんねいとなった。


 訪れたのは、一瞬のようであり、数十年でもあるような、なんとも形容し難い無音。

 背景を流れる光の粒は、いよいよ速度を増して渓流の如く私の足元を流れていく。

 光の帯が、幾重にも重なって私の周りに乱舞する。

 光の隧道ずいどう

 抜けるように真っ青な空を背景に、どこまでもどこまでも、その光の帯が造る隧道ずいどうが、私にそこへ行けと呼び掛ける。

 そして、……そして、私は会ったのだ。いや、感じたのだ。私をここへ呼んでくれた、彼女がそこに居ることを。


『……秋次郎さん』

「……結衣さん? いや、……志保? 志保なのか?」

『はい。……やっと会えました』

「なぜここに居る。まさか、この空襲で死んでしまったのか?」

『いいえ。私はずっとあなたを待っていたの。あなたがこの空で居なくなってしまってからから、……ずっと』

「私を? ……待っていたのか?」

『はい。あなたを、……ずっと』

「ああ、そうか、そういうことか。私をここへ呼んだのは、……お前だったんだな」

『いいえ。あなたが、……あなたが私を呼んでくれたんですよ?』

「そうなのか?」

『はい。私、……あなたの声が聞こえましたから』

「……そうか」

『そうそう、あなたと同じ、私を本当に大切に思ってくれたもう一人の秋次郎さんは、……大切な人のところへ帰れたかしら?』

「彼が私の肉体の中に居たことを知っていたのか? そう、彼は、……ようやく結衣さんのところへ帰った。ちゃんと結衣さんが呼んでくれたから、きっと大丈夫だ」

『そう。良かった。ありがとう。……結衣さんを大切にしてくれて』

「お前の忘れ形見だぞ? 大事でないはずがない」

『結衣さんがこの世に命を受けられたのは、あの時、私を護ってくれたあなたたちのおかげ。本当にありがとう』

「私は、……私は、ちゃんと護れただろうか」

『はい。ちゃんと』

「そうか」

『さあ、……それでは、……私たちも行きましょうか』

「ああ、そうだな、彼方の光を目指して」

『彼方の光? 素敵な言い方ね』

「みんな、待ってくれているのだろう? その向こうで」

『はい。その光の向こうで、みんなみんな』

「……やっとみんなのところへ行ける」

『私もです。……やっと』


 私が志保の手を取ると、足元から湧き上がっていた柔らかな光がゆっくりと私たちの体を覆い、そしてまたあのサクソフォーンの音色が艶やかに聞こえ始めた。

 その美しい「彼方の光」の旋律が、屹立きつりつする光の柱の中で私と志保を高く高く昇らせてくれたのだ。

 目の覚めるような青空、そして、その遥か遠い彼方で輝く光の門。

 その旋律が、私たちをそこへ導いたのだ。

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