4-3

 夜が明けたとき、私は空の彼方から放たれた幾条もの光の筋が、闇を懐柔して緩慢に空を掌握しょうあくしてゆくさまを放心して眺めていた。

 まさに「彼方の光」だ。

 あのサクソフォーン四重奏の旋律に乗って、私も早くそこへ辿たどりり着きたい、素直にそう思った。この空の向こうの何処かで、志保や、勲や、死んでいった数多あまたの戦友たちが私を待ってくれている、そう感じて、なんとも晴れ晴れとした悟りにも似た感覚を覚えたのだった。




 リビングに降りると、母親が出勤前の準備を終え、椅子に腰掛けて珈琲を飲んでいた。

 二瀬の説のとおり、もし八月九日に大規模な魂の通り道が現れ、それによって都合良く短絡点を移動することができれば、この母親とも明日の夜でお別れということになる。

 そうならない可能性の方がずっと高いのだが、なぜかとても感傷的な心情に支配されつつ、こちらから声を掛けた。

「おはよう、お母さん」

「あら、早いのね。おはよう、悠真」

「珈琲の余りはありますか?」

「あるわ。ちょっと待ってね」

 母親は、私が要望を屈託くったくなく申し向けたのが嬉しかったのか、目を細めて悠真くん用のカップに珈琲を注いでくれた。

 私も母親の対面に腰を下ろし、差し出されたカップを手に取った。

「今日でちょうど四か月ね。あなたがここへ来て」

 その言葉に口に運んだカップが止まる。

「それは、どういう意味ですか」

「別に変な意味じゃないわ。記憶を失う前の悠真と、今の悠真は違う人のように感じるって、いつか話たじゃない?」

「はい」

「親がこんな事を言っちゃだめだと思うけど、お母さんね、たぶんもう悠真の以前の記憶は戻らないんじゃないかって思うの。だから、今のあなたは四月七日まで私たちの子供だった悠真とは違う、新しい悠真」

「お母さん……」

「帰らない息子をずっと待ってもしょうがない。だから、私の子として新たにやって来てくれたあなたを歓迎しなくちゃって、そうしないと今の悠真がかわいそうだって、そう、お父さんと話したの」

「お母さん、私は」

「あなたがどんなに変わっても、横田悠真が私たちの子どもであることは変わらない」

 ゆっくりとカップをテーブルに置き、両手を膝に据えてこうべれた。思いもよらず、瞳からあふれた雫が膝の拳に上に落ちる。

 私の父母は、兵器工廠こうしょうへの空襲に巻き込まれて命を落とした。ここへ来る前の私には、もう家族と呼べる者はひとりもいなかった。

 今、眼前で私に慈愛の眼差しを向けてくれているこの母親は、今の私にとっては本当の母親に等しい。しかしその注がれる想いに素直に応えて、息子としての親愛を返したことはない。

 もう、時間はそれほど残っていないかもしれないが、この母親を本当の母親として大事にしなくてはと、そう思った。

「お母さん、ありがとう。本当にありがとう」

「んん。泣かないのよ? さ、母さんそろそろ仕事に行かなくちゃ。そうそう! 新悠真は知らないわよね。今日、八月七日は結衣ちゃんの誕生日よ?」

「そ、そうですか」

「お母さんは夜にお菓子でも持ってあげようかと思ってるけど、悠真も何かお祝いしてあげたら?」

「はい。そうですね。お母さん、今日は何時ごろ帰りますか?」

「今日はたぶん夕方前かなー」

 そういって母親は立ち上がり、椅子の背に掛けていた肩掛け鞄を取ると、私の背後を通ってリビングを出て行く。玄関で母親が靴を履く音が聞こえると、私は急に形容しがたい寂寥感せきりょうかんに襲われて、母親の後を追った。

「ん? 悠真、どうしたの?」

 玄関扉の取っ手に手を掛けた母親が、目を丸くして振り返る。

 自分でもなぜそうしたのか分からない。この肉体に残っている横田悠真の意識がそうしたのかもしれない。

 私はがりかまちふちで立ち止まり、母親に向かって両手を広げていた。母親は少し驚いたあと、ちょっと恥ずかしそうに笑いながら、

「小さいとき、よくこうやって『行ってらっしゃい』してくれたよね」

と言って、柔らかく左手で私を抱き寄せて、右手で優しく頭を撫でてくれた。私がとうの昔に忘れていた母親の温もりが、その手を通して胸の中に染み渡る。

「お母さん、行ってらっしゃい」

 また、意思に反して温かな雫が頬を伝った。

「うん。ゆーちゃん、行ってくるね」

 母親はゆっくりと私から離れるとそう言って小さく手を振り、仕事へと向かったのだった。




 母親が出勤したあと、私は自室でベッドに身を投げて、本など読みながらも落ち着かずに居た。

 母親の温もりにとぼしかった軍国の幼少を思い出しつつ、もしかすれば最後になるかも知れない今日と明日の夜のうちに、母親と父親にしてやれることは何かないかと思案を重ねる。

 そうしていると、正午を知らせる音楽が家の外の放送設備で鳴るのが聞こえた。もうこんな時間かと思うと同時にあの悠真くんの最後の笑顔が脳裏を横切り、私はまた漫然と時を無駄にしていると己を恥じたのだった。

 そういえば、母親は今日が結衣さんの誕生日だと言っていた。何かしてあげられることは無いだろうか。

 悠真くんが戻り私があちらの世界へと帰れば、当然に結衣さんとも二度と会う事はない。いずれ私のことは記憶の一部となり、この日常からは消え去る。そして、姿は変わらない横田悠真を眼前にして、川島秋次郎のことはきっと夢ではなかったかと、そう思うことだろう。

 私のとっての結衣さんは、例え私があちらに戻っても夢になることはない、今の私にとって全霊を捧げても護り通したい大切な人だと、そう感じた。

 そうこうしていると、いつもなら午前中の夏季課外授業を済ませた結衣さんが昼を一緒に食べようなどと言って押し掛けてくる時間になったが、今日はまだ何の音沙汰もない。

 スマートフォンを手に取るが、結衣さんからの電子メールも届いていなかった。

 母親の時と同じ、得も言われぬ寂寥感せきりょうかんが背中から覆いかぶさる。

 そう項垂うなだれていると、突然スマートフォンが軽快に着信の音楽を鳴らした。画面には「二瀬遥」とある。何事かと思いながら「通話」の画面表示に指をやった。

「もしもし」

『もしもし、秋次郎さん、二瀬だよ? 今いい? ちょっと話があるんだけど』

「ああ、ハルくんか。どうしたの? ハルくん」

『え? 悠真くん? え? どういうこと? 元に戻ったの?』

「冗談だ。私だ」

『ええ? 何? 何でその呼び方を知ってるの?』

「私も話がある。どこかで会えるか?」

 二瀬はふたつ返事で、今から横田家へ行くと言って電話を切った。




 二瀬が来るというので珈琲でもれてやろうと、勝手ながら台所で濾紙ろしと珈琲を取り出し、いつも結衣さんがやっているのを真似てみる。しばらくすると、ちゃんと受けのガラス容器に思ったとおりの珈琲が香ばしい香りとともに出来上がった。

 程なく玄関の呼び鈴が鳴る。自転車を飛ばしてやって来た二瀬が息荒く扉の外に立っていた。

「いらっしゃい、ハルくん」

「あ、あ、秋次郎さん!」

「何だ、どうした」

「ちょっと、どういうことっ?」

 興奮気味の二瀬をまぁまぁと落ち着かせて、リビングのテーブルに着かせる。そして、初めて自分で淹れた珈琲を来客用のカップに注いで二瀬の前に差し出した。

「実は、横田悠真に会ったのだ」

「ええっ?」

 そう言って、私は今朝の未明に部屋で起こった出来事を包み隠さず二瀬に話した。二瀬は腕組みをしながら私の話に聞き入り、時折あごに手を当てて下唇を噛んでは視線を落として思いをめぐらせていた。

「なんとなく分かったよ。もしかしたら戻れるかもしれない」

「本当か?」

「うん。たぶん鍵になっているのは、その鏡台だと思う」

「鏡台? この私が志保に贈った鏡台がか」

「たぶんね、この鏡台が秋次郎さんを呼んだんじゃないかな。捨てられる寸前に秋次郎さんがその旧家に行くことになったのも不思議だし。この鏡台にはなぜか短絡点を固定する力があるようにも見えるし」

「よく分からんが」

「でもこの鏡台に力を貸してもらえば、元の世界に戻れるかも知れないね。具体的な方法はまだ分からないけど。……でも、悠真くんがそんなことを言ったなんて、信じられないな」

 二瀬はそう言いながら、既に冷めてしまった珈琲の残りをこくりと飲み干した。

「あの温和な悠真くんが、軍人としての覚悟を口にするなんて」

「とても話に聞いていた悠真くんとは思えなかった。正直に言って、今の私よりもずっと軍人らしい。その覚悟は、私が昭和二十年に忘れてきたものだ」

「そうなんだ。悠真くんは、志保さんのことを本当に大切に思ったんだね」

「そうだと思う」

「秋次郎さんは?」

「ん? 私が何だ?」

「秋次郎さんは、柏森さんのこと、どう思っているの?」

「私は」

 そう言いかけて、言葉が詰まる。

「大切に思ってるんだね? 志保さんと同じくらい」

 二瀬は柔らかな微笑みをたたえて、私の顔をのぞき込んだ。

「そうだな」

昨日きのう、柏森さんから相談を受けたんだ。サッカー部の先輩から、すごく熱烈な告白を受けてて、断っても断っても迫ってくるんだって。今日、その先輩にもう一度断るために会うって言ってた」

「それが、二瀬くんが私に話があると言っていたことか」

「そう。まだ、帰ってきてないんだよね?」

「ああ」

「行ってあげたら? 川島少尉殿?」

「馬鹿者。『殿』を付けるのは陸軍だ。海軍で『殿』付けすると馬鹿にした言い方になるのだぞ?」

「知ってるよ? そんなこと。行く勇気も無いの? 海軍少尉殿は」

「うるさいぞ? さっさと結衣さん居場所を教えろ。ハルくん」

「あはは」




 二瀬とともに家を出てバス停に向かう。バスが停留所に来ると、自転車のハンドルを左手で押さえながら、二瀬はさっと右手を上げて敬礼した。

「少尉、ご武運を」

「ありがとうございます。二瀬遥陸軍少佐」

 私は二瀬を陸軍の少佐になっていた宮町勲に見立てて、ことさらうやうやしい返礼をする。二瀬はそれに気がついたらしく、少し苦笑いしながら、

「僕は悠真くんの後を受けて、柏森さんを幸せにするなんて出来ないからね!」

と言って、バスに乗り込んだ私を見送ってくれた。

 まさにこれこそ「親友」という言葉の体現たいげんだ。

 この時代に来て、当初は若者がなんと幼稚で無責任なことかと唖然とし、そしてこのような未来を護るために戦友たちは万歳を叫んで死んでいったのかと落胆した。

 しかし、この時代にはこの時代の友情や真心があり、それは私の時代とは違った距離感を以って形成されているのだと知った。夫婦の在り方や、教員と生徒の関係なども同じことだ。私の時代が良くて、この時代が悪い訳ではない。悠真くんに言い返したことも、その理解から出たものだ。

『それは時代における文化と価値観の違いだ。その時代に相応な男女の役割があるだけで、現代の世の男が男らしく無く、女が女らしく無いなんてことはないんだ』

 だから愛情の表現も同じく、この時代にはこの時代の在り方があって、それを世代間で比較することは無意味なのだ。

 しかし、私はこの時代の人間ではない。この時代での在り方にたがうとしても、私にはそれしかできないのだ。そう自分に言いきかせて、私は目的の場所に降り立ったのだった。




 二瀬に教えてもらった場所は、いつか結衣さんと二瀬と三人で来たモノレールの軌道が横に見える巨大駅の喫茶店だった。駅正面の階段を昇ると右手にその喫茶店はあり、見上げると窓際の席に結衣さんの姿が見えた。対面して座っている男は後姿しか見えない。

 私は幅広のその階段を駆け上がり、喫茶店へと駆け込んだ。

 その喫茶店は出入口から店内が一望できる、奥に向かって細長い造り。モノレール軌道と駅正面の階段に面した側はガラス張りで、その窓際に沿うように手前と向こうに相対あいたいする客席が列をなして配置されている。

 その窓際の中央付近、出入口からすぐ見えたのは制服の結衣さんの後ろ姿だった。私は迷わずそこへ向かう。結衣さんの前に座っていたのは、同じくワイシャツ制服姿の男子学生だ。

 どこかで見たことのある顔、私には気づいていない様子だ。ゆっくり近づくと結衣さんと男の声が聞こえた。

「ですから、何度もお断りしましたよね? 私、好きな人が居るんです」

「横田だよね? 記憶喪失なんだろ? 君はあの記憶喪失の世話をずっとするつもりなの?」

「誰も横田くんだとは言ってません。彼は幼馴染みですから、これからもずっと親しくします」

「今日は柏森さんの誕生日だよね? だから、今日どうしても返事をもらいたいんだ。メモリアルにしたいし」

「なんで私の誕生日知ってるんですか? それに、その『返事』というのはもうしましたけど」

「いや、付き合うのOKって返事だよ? それ以外の返事とかないじゃん」

 反吐へどが出るような物言いだ。

 私はそのまま歩を進め、結衣さんの座っている座席の横に立った。男がぎょっとして目を見開き私を見上げた。それを見て結衣さんが振り返る。

「秋……、悠くん」

「結衣、迎えに来たよ」

「え? あの、え?」

「横田、何しにきたんだ? 柏森さん、困ってるじゃん」

「先輩、困らせてるのはあなたでしょう。いい加減にしてください」

「何だと? お前、偉そうだな」

 私はすーっと息を吸ったあと、カッと刮目かつもくして男を凝視した。

「そうですね。許婚いいなずけ不躾ぶしつけな相手から言い寄られて迷惑しているものですから。少々気も立ってますし」

「は? いいなずけって何?」

「悠くん……」

「結衣、帰ろうか」

「え? うん。では、先輩、失礼します」

「ああ? ちょっと待ってよ。おいっ、横田! 邪魔するな!」

「痛い!」

 男から腕を掴まれた結衣さんが顔をしかめるのを見て、私は思わず我を忘れた。

「おいっ!」

 私は咄嗟とっさに男の腕をひしぎ上げて、そして眼前に据えた男の顔に絞り出すように言葉を浴びせた。

「お前も赤坂のようになりたいのか。二度と結衣に手を出すな。俺が一命いちめいを賭けて護ると決めた女だ」

 見ると、店内が静まり返り、他の客が私たちの挙動に目を奪われている。私はゆっくりと周りを見渡し、また男に視線を戻した。

「おい、返事をしろ」

「え? あの、分かった。分かったから離してくれ」

 そう泣きそうな声を上げた男を見てか、店員が駆け寄ってくる。

「あの、お客さま、他のお客さまも居られ……」

「分かっている。迷惑を掛けてすまない。もう終わる」

 私はそう言って男の手を離した。どすんと音がして、男は座席に崩れ落ちた。無様ぶざまだ。

「おい男、お前はその程度の男だ。本当に、本当に心の底から結衣を愛しているのなら、万難ばんなんはいしてでもその想いをまっとうしようと、命すら賭けるものではないのか」

「いいい、命?」

「お前に結衣の隣に立つ資格はない。去れ。そして二度と現れるな」

 私がそう申し向けると男は小さく舌打ちをし、通学鞄をたずさえてそそくさと立ち去った。

 私は、店員と他の客に向かって

「お騒がせしました。大変申し訳ありませんでした」

と呼び掛け、大きく頭を下げた。そして、そのまま私は結衣さんの手を引いて、おもむろに喫茶店を後にしたのだった。




 バスを待つ間、結衣さんはずっと下を向いて黙っていた。

 駅の正面、ペデストリアンデッキの下のいつもの乗り場のベンチに、二人並んで腰掛けている。結衣さんは両手の指を絡めては、何度もスカートの上でもじもじとさせる。きっと先ほど私が放った言葉が恥ずかしかったのだろう。私自身はとうの昔に開き直っていて、既に意に介していないというのに。

「結衣さん?」

「は、はい」

「お誕生日、おめでとう」

「え? あ、ありがとうございます」

「結局、何にも贈り物を用意できませんでした。ごめんなさい」

「ううん。とっても素敵なプレゼント、もうもらいました」

「何かあげましたか?」

「はい。私のこと許婚いいなずけって言ってくれました」

「ああ、あれは」

「分かってます。でも、嬉しかったんです。だから、それでいいんです」

「そうですか」

 そう言うと、結衣さんは絡めていた両手を離してそっと私の手を取り、私を見上げた。

「最初は、秋次郎さんが悠くんをどこかへやってしまったって、ちょっと恨んでました。ほんと、まったくの筋違いなのに。でも、だんだん秋次郎さんのこと分かってきて、私のことを護ってくれるたびに、すごく頼りにしてしまって」

「悠真くんのことは今でも申し訳なく思っています。でも、もしかしたら悠真くんかまたこの世界に……」

「いえ。もう、……もう帰って来ないって分かってるんです。私、ずっとずっと、悠くんが帰ってくることを願っていました。でも、大丈夫です。今の私には、……秋次郎さんが居てくれますから」

「私は悠真くんの代わりにはなれません」

「代わりじゃありません。私はちゃんと、秋次郎さんを秋次郎さんとして大切に思っています」

「それは光栄です」

「私は志保さんの代わりにはなれませんけどね」

「そんなことありません。……でも、悠真くんが帰ってきたら、ちゃんと大切にしてあげてください」

「そうしたら、秋次郎さんは居なくなってしまうんでしょ? 勝手に居なくなってはだめです。許しません」

「では、その前にちゃんと結衣さんのお許しをもらうようにします」

「いいえ、どんな理由でも許しません」

「これは手厳しい」

「あはは」

 私を年上として意識してのことか、結衣さんの敬語はもう元に戻らないようだ。

 その後どのくらいそうしていただろう。まだが暮れそうもない夏の夕方、多くの人やバスが通り過ぎるその乗り場には、時折涼しげな風が舞っていた。私は、その風に結衣さんの髪が柔らかく揺れるさまを、郷愁とともにうっとりと眺めていたのだった。




「お帰りなさい、悠真、結衣ちゃん」

「おおー、お帰りー、悠ちゃん。ついでに結衣も」

「ついでにってなにぃ? お母さんたら!」

 バスの中で母親からの電子メールが届き、そのまま結衣さんと一緒に横田家へ戻るようにとの言いつけられた。

 何事かと思って帰ってみると、母親と一緒に出迎えてくれたのは結衣さんのお母さん。奥をのぞくとリビングのテーブルには所狭しと料理が並べられ、結衣さんの誕生会を我が家にてもよおす準備がなされていた。

 結衣さんが自分を指差しながら戸惑っている。

「え? え? 私の誕生会?」

「そうよ? 結衣、十七歳おめでとう!」

「ほーんと、あっという間ね。ついこの前まで、悠真と結衣ちゃん、二人でおままごとしてた気がするけど」

「そうねー。悠真くん、結衣といっつもお父さんお母さんごっこしてたもねー」

「お母さん! もう、悠くんは覚えてないんだってば!」

「あっ、そうだった。おばさんうっかりしてた。ごめん悠ちゃん」

「いえいえ、もっと聞かせてください。自分の幼少がどうだったのか知りたいですし」

「もう、秋……悠くん、恥ずかしいからやめて」

「どうしたのー? 結衣、真っ赤になって」

「うるさいの!」

「あはは」

 両手で頬を押さえて地団駄じたんだを踏む結衣さんを、母親二人が目を細めながらからかっている。

 そのあまりにも微笑ましい光景に私も心温まる思いがして、この瞬間が永遠に続けばいいのに、もう魂の通り道の謎解きはやめてこのままずっと結衣さんと暮らせたら、……などと益体やくたいもないことを考えていた。


 楽しい時間はあっという間に過ぎていく。二人の母親が作った料理はとても美味で、この料理で育った結衣さんならばきっと旨い食事をこしらえるよい女房になるだろうと、私は目を細めていた。

 その私の顔に気がついた母親が肘で私を小突く。

「悠真、結衣ちゃんに何かプレゼントした?」

「それが、実は何にも」

「なんだー、出掛けてたみたいだから何かあげたのかと思ったのに」

「おばさん! もらったよ? すごくいい物」

「えー、やっぱそうなんだ。悠真、素直じゃないねー」

「いや、私は本当に何も」

もらったもん。ね、悠くん」

「まぁ、その」

「お母さんたちには教えないけどねー」

 その結衣さんの嬉しそうな愛らしい笑顔は、一生忘れられないと思った。

「私の母さん、結衣のお婆ちゃんね、実は明日あしたが誕生日だったんだよ?」

「八月八日? へー、そうなんだ。お婆ちゃんって、美智子さんだったよね」

「そうそう」

 美智子は、結衣さんの母親の母親で、志保と勲の長女だ。

 短絡した向こう世界ではまだ生まれておらず、この世界では私がやって来る以前に既に他界していたので、私とは一刻ひとときも同じ時間を生きたことがない女性だ。

「母さんいつも言ってたなー、戦争の話。母さん自体は戦後の生まれなんだけど、その生まれた日ってのが、母さんのお母さん、結衣の曾おばあちゃんね? その曾お婆ちゃんが住んでた家が、すごい空襲に遭った日と同じ日付なんだって。そのとき、曾お婆ちゃんと曾お爺ちゃんはまだ結婚する前で、ご近所さんだったって」

 これはきっと志保が宮町家に身を寄せていたときの話だ。

 空襲? あの辺りはまた空襲を受けたのか?

 私がここへ来る前の年の夏、あの辺りは二度の空襲を受けている。標的はもちろん、日本最大の製鉄所だ。あの湾の沿岸は日本有数の工業地帯で、軍艦に使う鋼鉄などはすべてあの製鉄所で作られていた。二度にわたり大きな空襲を受けて鉄の生産量も激減し、他の地区にはまだまだ勇猛に稼動している軍需工場や基地が多数あったから、あの辺りはもう空襲の標的にはそうそうならないだろうと思っていた。

「曾お爺ちゃんは兵隊さんで遠くにいたけど、曾お婆ちゃんはその空襲の中を逃げ回って大変だったんだって。『もしあのときお母さんのお母さんが空襲で亡くなってたら、お前はここに居ないんだよー』って、何回も聞かされてねー」

「へー、運がよかったんだね」

「なーにー? 他人事ひとごとみたいに。曾お婆ちゃんがそのとき亡くなってたら、結衣もここに居ないんだよ?」

「そっか、あはは。でも、今ちゃんとここに居るってことはもう変わらないじゃん」

「まぁ、そうだけどね」

 そう、この現代はもう変わらない。確定した過去の上に成り立っているからだ。しかし、別の時間線上はまだそうではない。今、私が帰ろうとしている昭和二十年の八月八日は、まだ確定していない。

「悠くん、どうしたの? 難しい顔して」

 私は眉根を寄せていたのだろうか、結衣さんが心配そうに私の顔を覗き込む。

「いや、何でもない」

 私はそう言いながら、すぐにスマートフォンで「その日」を検索し始めた。

 そう大した時間もとられずに、その記事はすぐに見つかった。昭和二十年八月八日、あの地区に三度目の大規模な空襲があったことが詳細に記されている。湾の沿岸は壊滅的被害を受けて、その周辺の地域でもかなりの民家が焼けている。そして地域ごとにかなりの数の死者が出たことを示す一覧が、整然と載せられていたのだ。

 真剣にスマートフォンを覗き込む私を変に思ったのか、結衣さんがいよいよ心配そうに眉を寄せて私の膝に手を置いた。

「秋次郎さん、どうしたんですか?」

 母親たちに聞かれないように、結衣さんが小声で私の名を呼ぶ。

「いや、ちょっと気になることが出来たので」

「独りで悩んだらだめです。私でも何か役に立てることがありますか?」

「そうですね。後で話を聞いてください。結衣さんには話しておきたい」

「はい」

 そう言うと、私は見入っていたスマートフォンをしまい、また誕生会の会話に戻ったのだった。




 会がお開きになったときは、もう午後九時を回っていた。

 結衣さんの母親は、共に帰ろうとうながした結衣さんがどうしても私と部屋で話がしたいと食い下がったので、苦笑いして「遅くならないように」と釘を刺して独り帰っていった。

 二階の自室には我が家の母親が淹れてきてくれた珈琲が二つ、盆に置かれて湯気を立てている。

「お母さん、ありがとう。結衣さんは遅くならないようにしますから」

「おばさん、ごめんね?」

「でもまぁ、誕生日だもんねー。ちょっとくらい、いいんじゃない?」

 珈琲を持ってきてくれた母親が、けらけらと笑いながら階段を下りていったあと、結衣さんはベッドに腰掛け、私は学習机の椅子に腰を下ろして話を始めた。

「明日の午前十時、二百機を超えるB-29の大編隊が、宮町の本家付近を襲います」

「それってさっき話した空襲の話ですか? 曾お婆ちゃん、……志保さんが身を寄せている、あのお通夜に行ったお家ですよね」

「はい」

「でも、今、私わたしがこうしてちゃんと居るし、鏡台だってほら、ちゃんと焼けずにここにあるし、大丈夫だったってことですよね?」

「それは、この時間線での話です」

「えっと」

「実は、私は悠真くんに会ったのです」

「え? 会ったって、どういうことですか?」

「この部屋にあの短絡が起きて、私は悠真くんと直接話をしたのです」

「そんなことって」

「悠真くんは、死んでなかったのです。私がこの現代の悠真くんの中に入り込んでしまったのと同じように、悠真くんは昭和二十年の私、川島秋次郎の中に入り込んでしまっていたのです」

「二人が入れ替わっていた、ってことですか?」

「そうです」

「なんでそんな」

「それは私にも分かりません。ただ、以前に二瀬くんが話してくれたように、私と悠真くんは別の時間線上に居ると考えられます。そして、その二つの線の間で短絡が起きている。時間線の短絡の話、この前しましたよね?」

「はい、らせん階段みたいな図を描いてくれて」

「そう。今、私たちが居るこの時間線は私たちの『現在』ですが、悠真くんが居る昭和二十年も、その時間線上では彼らの『現在』なのです。つまり、未来はまったく確定していないのです」

「確定していない……」

「悠真くんは、海軍少尉川島秋次郎として、その『現在』を全うすると言っていました。志保を絶対に護る、と」

「志保さんを?」

「はい。大切な人だと、命の恩人だと言っていました。そして、その目は覚悟を決めた目でした」

「悠くん、志保さんのこと、……きっと好きになったんですね」

「そんな安直なことではないと思います。彼は帝國軍人として、愛するものをその手で護ると、覚悟を決めたのです」

「どういうことですか?」

「悠真くんはこの四か月、漫然と過ごしてきた私とは違い、毎日毎日、置かれた環境の委細いさいを掌握しようと努め、社会と文化を学び、軍隊と軍人としてのようを学び、そして、護るべきものを護るためにどうすべきかという、自らの在り方を見定めたのだと思います」

「あの悠くんが、そんな」

「二瀬くんも、同じことを言っていました。元の悠真くんからは考えられないと」

「そんなこと、あの温和な悠くんが考えるなんて」

「悠真くんは言っていました。『こんなにも男が男らしく、女が女らしい時代があったとは知らなかった。この時代の人は皆、男も女も、誰かを護るために自分が傷つくことを恐れない、本当の勇気を持っている。だから、自分も勇気を持ってこの時代の自分をまっとうする』……と」

「それって」

「彼はもしかすると、このままでは特攻に行ってしまうかもしれません」

「飛行機なんて乗れないでしょ?」

「元々は教官をしていた私の肉体です。肉体は飛行の感覚を覚えているのでしょう。彼は既に上がって降りれる程度に操れるようになったと」

「そんな」

「明日の朝の空襲を聞きつければ、彼はきっと飛行機に乗って志保さんを護ろうとするでしょう。しかし、八月九日の大きな魂の通り道こそが、私と悠真くんが元に戻る好機だと二瀬くんは言っていました。なんとしても、向こうの時間線に居る悠真くんに、八月九日を迎えてもらいたいのです」

「秋次郎さん、……やっぱり向こうの時間線に帰りたいのですね」

「帰りたいのではありません。帰らなければならないのです」

「どうして? どうしてですか?」

「私が向こうへ戻らなければ、悠真くんはこちらへ帰って来られないからです。悠真くんは結衣さんの隣で、ずっと結衣さんを護らなくてはいけません」

 突然、がたん! とベッドの足が床に打ちつけられる音が響いた。

 見ると、私の言葉を聞いた結衣さんが立ち上がって、雫をいっぱいに溜めた瞳をゆらゆらとさせて頬を両手で押さえている。そして彼女は、まるで道に迷った小さな子どもが母親を捜しているかの如く、ひどくひどく狼狽ろうばいしたのだ。

「私、わたしっ、どうしたらいいのっ?」

「どうしたのですか?」

「私は、悠くんに戻ってきてもらいたい。でも、秋次郎さんには向こうに行って欲しくないんですっ!」

「結衣さん……」

「わたしっ、秋次郎さんにどこにも行って欲しくないんですっ! わたし、……どうしたら、……どうしたら」

 結衣さんは、拳にした両手をぎゅっと握って体側に下ろし、かすかな嗚咽おえつを漏らしていた。小さな肩が震えている。私にはどうにも出来ない。ちょうどあの駅で、私が結衣さんの慕っていた悠真くんではないことを告白したときと同じ、結衣さんの姿であった。

「秋次郎さん……」

「結衣さん、もう少し私もいろいろと考えてみます。家まで送ります」

 そう言って、私が立ち上がって結衣さんの肩に手を掛けると、結衣さんは私の胸に飛び込むようにして、ひしと私を抱き締めた。息も出来ないほどに、あらん限りの力で私を抱き締める結衣さんに、私はこの上ないいつくしみを感じた。

 しかし、その気持ちを私は受け止めることができない。私ではだめなのだ。

 私は行かなければならない。志保や勲や数多あまたの戦友たちが待っている、彼方の光を目指して。そして、なんとしても悠真くんをここへ連れ戻さなければならない。この小さな肩をずっと抱いて護り続けてもらうために。

 私はそれから結衣さんをしっかりと抱き返し、その嗚咽おえつが治まるまでずっとそうしていた。ずいぶんと時間が経って、結衣さんが平静を取り戻したのは、もう夜半前だった。

「ごめんなさい、秋次郎さん。困らせてしまって」

「いえ。……もう大丈夫ですか?」

「全然、大丈夫じゃないです」

 そう言って結衣さんはおもむろに顔を上げて、濡れた頬のまま微笑んだ。

「突然、勝手に行かないでくださいね。許しませんから」

「はい」

 それから私は、結衣さんが闇に惑わされて道に迷ってしまわないようにしっかりと結衣さんの手を引いて、その家の前まで送り届けたのだった。

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