エピローグ

エピローグ

 玄関を出たところで、お母さんが私の背中にちょっと不思議そうに声を掛けた。

「結衣、もう行くの? 新学期早々何かあるの?」

「うん。ちょっと寄りたいところがあるから」

「そうなんだ。悠ちゃんも一緒?」

「うん。じゃあ、行ってき……」

「おはよう、結衣! あ、おはようございます、おばさん」

「あら、悠ちゃんも早いのねー。悠ちゃんの方が迎えにくるなんて初めてね」

「いえ、ちょっと早く目が覚めたもんですから」

「記憶が戻ったのに、そのよそよそしい言葉遣いは変わらないのねー」

「はは、長幼の序です」

「あら、立派。結衣も見習いなさい? 悠ちゃん、いや、悠真くんはもう結衣の何歩も先を行っているみたいよ?」

「そ、そんなの分かってるわよ! 当たり前よ? 悠くんは私を護ってくれる海軍士官なんだから!」

「何ー? それ。さ、もう行くんでしょ? 気をつけてね」

「うん。行ってきまーす」

「おばさん、行ってきます」

「はい。いってらっしゃい」




 あの出来事からもう三週間。

 なんだか、今でもまだ信じられない。秋次郎さんのこと、今年の四月からのことって、本当は夢だったんじゃないかって思ってしまう。

 石段で目を覚ましたとき、優しく私の頬を撫でて名前を呼んでくれた私の幼馴染みは、私が良く知っている本当の悠くんに戻ってくれていた。

 ううん、ちょっと違うね。

 私の知っている悠くんじゃない。記憶も、しゃべり方も、コーヒーが苦手なところも、全部元の悠くんなんだけど、ちょっと違う。

 そして、やっぱり秋次郎さんは居なくなってしまった。

 悠くんが教えてくれた。秋次郎さんが、私に会えてよかったって、私にありがとうって伝えてくれって、そう言っていたって。

 ときどき、悠くんと喋っていると、この悠くんは本当は秋次郎さんなんじゃないかって思ってしまうことがある。とっても大人の、とってもたくましい、とっても私を大切にしてくれるその悠くんが、私と同じ歳に見えないことがある。

 悠くんのお母さんも言っていた。記憶が戻って、やっぱりあの悠真はどこかへ行ってしまったって。でも、今の悠真も、なんだかまた別人みたいに感じることがあるんだって。

 その訳を、私は知っている。

 たぶん、誰に話しても信じてもらえないだろうけど、いいの。私と悠くんと、そして二瀬くんの、三人だけの秘密。




「悠真くん、柏森さん、ごめん! 待ったー?」

「あ、二瀬くん、おはよー」

「ハルくん、ごめん。こんなに早く来させちゃって」

「いいよ。あのとき以来だね。この石段」

「そうだね、僕もだ。結衣も」

「私ね、ここに来たら秋次郎さんのことすごく思い出してしまいそうで、……来る勇気がなかったの」

「そうなんだね。僕、夏休みの間に何度か来ようと考えたんだけど、でも、もし来るなら『三人で』って思ってね」

「三人で?」

「うん。三人で」

「三人で、か」

「で、悠真くん、手紙を見つけたって本当?」

「うん。あの鏡台の鏡の板の中にあったんだ」

「悠くんがね、あの割れた鏡を元に戻したいって言って家具屋さんに持っていたの。それで職人さんに見てもらったら、裏の板に小さな継ぎ目があるのが分かって」

「職人さん、ちょっと気持ち悪がってたな」

「あはは。悠くんもちょっとぎょっとしてたけどねー」

「僕、見てもいいの?」

「もちろん、ハルくんに見てもらいたかったんだ。この場所で」

「悠くん、二瀬くん、あのときみたいに座ろ?」

「結衣、ごめん。僕は分かんないから」

「あ、そうだったね。あはは」

 それから私たちは、あの時みたいに三人で石段の途中にある鳥居のところまで行き、さらに上に続く石段に並んで座った。

 一番右に座った悠くんが鞄から手紙を出して、真ん中に座った私に手渡してくれた。

 そして私が開いたその手紙を、私の左側から二瀬くんが覗き込む。

 封筒に入っていたその手紙は元は白い紙だったんだろうけど、ずいぶん時間が経っているせいか、かなり茶色になっていた。

 とっても綺麗な字。とっても女性らしい、優しい、愛らしい字。

 書き出しは「秋次郎さん」ってなってた。





『秋次郎さん

 きっとどこかで聞き及びと思いますが、ご報告いたします。

 このたび、宮町家にとつぐこととなりました。図らずも、あの大空襲と同じ日の今日、宮町のご両親にご挨拶をさせて頂き、正式に決まりました。実は何度も丁重ていちょうにお断りしたのですが、勲さんがこれは男の約束だからどうしてもとおっしゃるので、熟考のうえ承諾いたしました。

 勲さんには、私は幼馴染みの川島秋次郎をいましたっているとお話しました。そして、今もこうしてその帰りを待っていると。しかし、勲さんは笑ってそれで良いのだとおっしゃられ、当然に秋次郎をずっと待っていて良い、帰ってくるまで私がその代役をつとめるだけだと、そのように慰めてくださいました。

 貴方の戦死の報をにわかに信じ得ずに戦後すぐ隊の方を訪ね回り、貴方が私を護ると言って戦闘機を駆り、故郷の空で散華さんげなさったことを聞き及びました。

 貴方は今、何処に居られるのですか。

 私はもう一度貴方に会いたい。会って、きちんとこの気持ちをお伝えしたいのです。

 本当に、本当に、私のことを大切に思ってくれてありがとう。

 もう、私は大丈夫です。

 幼馴染みの川島秋次郎は、きっと今、どこかで私を待ってくれているのでしょう。私も早くその場所を見つけられれば良いのですが。

 この手紙が誰かの目に触れることはきっと無いと思いますが、どうしてもこの気持ちを貴方にお伝えしたくて、ここに書き記しました。

 本当にありがとう。

    もう一人の秋次郎さんへ  昭和二十五年八月八日  志保』




「悠真くん、これって」

「うん。これは僕宛の手紙だ。志保さんが、川島秋次郎少尉ではなく、その肉体の中に居た僕自身に宛てた手紙」

「志保さんは、悠真くんのこと知ってたの?」

「僕は一度も、僕が横田悠真だって志保さんに話したことは無いよ。本当は知っていたのかもね。でも、すごく大切にしてくれた」

「志保さん、悠くんのこと好きだったんだね」

「どうだろう。この時代の好きっていうのは、今とちょっと違うから」

「悠くんも志保さんのこと好きだった?」

「そうだね。本当に大切に思ってた。だから心の底から護りたいって思った」

「そうなんだ。悠くんも……」

「も?」

「え? な、なんでもない」

「でも、そうすると、悠真くんが居たあの昭和二十年は、今の僕らが居る現代と繋がった、同じ時間線上にあったってことだね」

「そういうことになるね」

「調べるとね、あの大空襲で飛来した二〇〇機を超えるB-29のうち、一機だけが撃墜された記録があって」

「少尉だ」

「うん。これを見つけたとき、もしかしてって思ったんだ」

「志保さん、たぶんずっと待ってたんだと思う」

「そうだろうね。だって、志保さんの幼馴染みの秋次郎さんは死んでないもの」

「あ、ごめん。私また良く分からない」

「結衣にはまたゆっくり説明するよ。とりあえず簡単に言うと、川島少尉は練習飛行の途中で魂の通り道に遭遇して僕と入れ替わってしまったから、『志保さんにとっては死んだ事になってない』ってことだよ」

「分かんない」

「あはは。柏森さんは悠真くんが秋次郎さんと入れ替わってしまってどこへ行ったか分からなくなったとき、ずっとまた会いたいって思ってたよね?」

「うん。思ってた」

「だから志保さんも同じように、秋次郎さんの肉体がこの世から消えてしまったあとも、死んでもいない、そしてどこへ行ってしまったかも分からない秋次郎さんを、ずっとまた会いたいと願って待ち続けていたんだ」

「へー、結衣、そんなに僕のこと待っててくれたんだ」

「え? うーん。どうかな」

「何それ」

「あはは」

「ふふ。柏森さんと一緒。志保さんはずっと秋次郎さんを待ってたんだ。たぶん、自身が亡くなってからもこの地に残って、ずっとずっと」

「え? それって、幽霊になってたってこと?」

「幽霊? あはは。柏森さんらしいね」

「結衣に言わせるとそうなっちゃうんだね。魂の通り道の中で、ずっと呼んでくれるのを待ってたのかもね。その思いがあの短絡を作り出して、秋次郎さんをこの世界に連れてきたのかもしれない」

「何よ。私に言わせるとって」

「でもね悠真くん、短絡を作り出したのは志保さんだけじゃないって思うよ?」

「そうか、……そうだね。たくさんの人たちの、大切な人を思う心」

「うん。秋次郎さんと志保さんが、お互いにお互いを大切に思っていた心だね」

 ちょっと遠くを眺めながら悠くんと二瀬くんが話していた「人を大切に思う心」、それがお互いを引き合わせたって、すごく素敵だって思った。

 私もそんなふうに人を大切に思えたらいいなって、志保さんみたいになれたらいいなって、すごくすごく思った。

「悠くん、志保さんは、……秋次郎さんと会えたかな」

「大丈夫、きっと会えたよ」

「会えたよね、絶対!」

「うん」

「悠真くん、手紙見せてくれてありがとね。さ、二人とも、そろそろ学校行かないと」

「うん。ねえ、悠くん、二瀬くん、今日一緒にお昼食べて帰ろ?」

「いいよ。悠真くんは?」

「ああ、よいぞ。私はコーヒーが旨い店がよいな」

「何それ、似てない。秋次郎さんの方が全然カッコイイ」

「柏森さん、『全然の使い方が間違ってる』って秋次郎さんに叱られるよ?」

「ああー、そうだった。あはは」

 三人一緒に立ち上がって、ぱたぱたとお尻をはたく。

 最初に歩き出したのは二瀬くんだった。そして、続いて歩き出した悠くんが私に手を差し出した。

「え?」

「ほら、危ないだろ?」

「うん」

 悠くんが私の手を取ってゆっくりと石段を降りる。温かい手。すごく安心する。

 そして石段を降りる途中、ふと誰かに呼ばれたような気がして立ち止まって振り返ると、その苔むした鳥居は遠くの空を見つめるように静かに立っていた。

 私は鳥居に向かってちょっとだけ頭を下げて、

「秋次郎さん、志保さん、またいつかね」

って、独り言みたいに言った。

 きっと届かないんだろうけど、きちんとお別れを言ってなかったなって思って。

 悠くんは黙ってずっと私の手を握っていてくれている。

 私が悠くんの方を見ると、一緒に悠くんも私の方を向いた。

 目が合って二人でクスッと笑う。

「またね、だな」

「うん。またね、だね」

 そうして悠くんは私の手を引いて、またゆっくりと石段を下り始めた。

 一番下の鳥居のところまで来ると、なぜか悠くんは突然ぱっと私の手を離して、ぴょんと残りの数段の階段を下の歩道までジャンプした。そして、少し前に居た二瀬くんを引っ張って一緒に学校の方へ駆け出す。

「さー、お嬢さん、あとはお一人で」

「えー? ちょっと待ってよー!」

 突然、一番下の鳥居の前で独り取り残された私。

 それから私はちょっとだけ肩を落として小さな溜息をつきながら、そこから見える幹線道路と都市高速に目をやった。

 目の前の幹線道路には今日もたくさんの車が行き交って、朝の忙しそうな風景を作り出している。都市高速の上、そのずーっと上の空から、飛行機のキーンという音が聞こえた。

「秋次郎さんの飛行機、今ごろどこを飛んでいるのかな」

 そう言いながら、私がちょっと寂しい気分で残りの階段を歩道まで下りると、駆けていったと思った二人はほんのちょっと先でちゃんと私を待っていてくれた。

「結衣、早くおいで」

 悠くんが大人っぽい素敵な笑顔で言う。

 それを見つけた私は、わざと不機嫌そうな顔を作りながら悠くんところへ駆け寄って、んんっと咳払いをしてから、あのとき秋次郎さんに言ったのと同じ言葉を悠くんに投げた。

「突然、勝手に行かないでくださいね。許しませんから」

 ちょっとだけ悠くんとは違う方を向いて、ちょっとだけ緩んだ口元に気づかれないようにして。


                              おわり

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