第10話 酔った勢い

「もう嫌だもう嫌だもう嫌だ嫌だ嫌だ! どうして僕がこんな目に遭わないといけないんだ!?」

 紫微城の西の離宮で、少年の声が響き渡る。

「どうして猛獣と散歩して鳥につつかれ何だかわからない青い獣に転ばされた挙句、池にまで落ちなきゃならないんだ!? 一体、この国はどうなっている!?」

「少し、落ち着かれませ」

 公子の世話役である者は、混乱状態に陥っている主を低い声で諌めたが、今の瑞其にそんなものは通用しなかった。

「大体、あのお妃はなんなんだ!? 大国淸の公女だというんだから気品ある淑やかな姫のはずだろう!? それがどうして猛獣を手懐けられる!? 恭に来たせいか!? 蛮賊たちの影響か!? どれだけ恐ろしい国なんだここは!」

「落ち着かれませっ」

「落ち着いていられるか! 僕は今日、何度死ぬと思ったことか!」

「みっとものうございまするぞっ、少しはお兄君を見習いなさいませっ」

「っ・・・」

 最後の言葉に、瑞其はぐっと言葉を詰まらせた。

「兄君さまであれば、このように取り乱すことなどありませんでしょう。弟君として亜国の恥となりませぬよう、もっと毅然としてあられませ」

「・・・」

 静かに、拳を握りしめた。一旦落ち着きはしたが、また別のもののせいで心がざわつく。

「・・・少し、予定が狂ったから、戸惑っただけだ。僕――いや、私だって、兄上のようにできる」

 言い放って、瑞其は体を拭った布を投げ捨てた。



 *



「こぉの馬鹿者がぁぁっ!!」

「ごめんなさいぃぃ!」

 縻達に雷を落とされて、星彩は半泣きで謝った。

 夕方の政務室、今日の接待の結果を報告して、案の定、宗麟には笑われ縻達には怒られたのだ。

「客人を池に落とすなど前代未聞である! だから妃殿下に接待などお任せできぬと申したのです!」

「ご、ごめんなさい」

「そう怒ってやるな。ある意味、大成功と言えなくもない」

 宗麟は座ったまま星彩を膝に乗せ、落ち込む小さな頭を優しくなでてやった。

「公子が池に落ちたのは、あちらが持ってきた虎の仕業だ。獣の動きまではこちらの預かり知らぬ所だろう」

 離れて様子を見ていた徐朱や楊佳が言うには、蘭蘭を含め、天祥やたまたま通りがかった鳥たちまでもが、星彩が見ていない隙に面白がって公子をからかっていたらしい。具体的には、蘭蘭が噛み付くふりをしておどかし、悪ノリした天祥がわざと足元を走り回って転ばせ、鳥たちは冠をつついていた。

 それで瑞其は悲鳴を上げたり転んだり散々な目に遭っていたのだ。

「なぜ虎を連れて行ったのですか!」

「蘭蘭が、会いたいって言うから・・・」

「虎が喋りますか!? 戯れも大概になされ!」

「縻達、少し落ちつけ」

 黙してしまう星彩のかわりに、宗麟が激昂する宰相をなだめた。

『ごめんなさい、星彩』

 外に出ていた蘭蘭が、側に寄って来て星彩の手をぺろりと舐めた。

『アタシもちょっと調子に乗り過ぎたわ。腹の立つガキではあるけど、星彩の客でもあったのに、ついつい反応が楽しくて遊んでしまったの。気も済んだし、明日からは何もしないわ』

「ほんと? 蘭蘭、もう怒ってないの?」

『ええ。あれだけ怯えてくれたら十分よ。満足したわ』

『天祥も、満足!』

 獣たちはすっきりした表情だ。本当にやるだけやってしまったということなのだろう。

 星彩は涙を拭って宗麟に向き直った。

「明日ちゃんと瑞其さまに謝るよ。許してもらえるかわかんないけど、仲直りできるようにするから、だから・・・もうちょっとだけ、がんばっていい?」

 上目遣いに見上げれば、宗麟は優しく笑って頭をなでてくれる。

「星彩の好きにしろ。全部任せるから」

「ありがとう宗麟!」

 嬉しくて抱きつく妃のその後ろから、宰相が不満げな視線を送っているのを、しかし宗麟は無視することにした。



 *



 翌日、星彩と瑞其は後宮で庭を眺めながら、昨日飲み損なった茶を味わっていた。

 今日も蘭蘭が付いてきたため、はじめは瑞其も引きつった顔をしていたが、蘭蘭が気を遣って若干距離を置いて大人しく座っているから、幾分安心できたのだろう。話しているうちに笑みも戻った。

「昨日は、ほんとにほんとにごめんなさい。風邪をひいたりしてませんか?」

「ええ。ご心配には及びません。こちらも、みっともない姿をお見せしてしまい申し訳ございませんでした」

「そんなことありませんっ。わたしが悪かったんです。あの、怒っていませんか?」

「怒る? 私がですか? 滅相もございません。仮にも王族たる者が、あの程度で怒りはしませぬよ。はっはっはっ」

 いっそ不自然なくらい爽やかに、瑞其は微笑んでいる。

(気にしてない、のかな?)

 星彩は安堵して、胸をなでおろした。

「よかったあ。瑞其さまは優しいですね」

 結構酷い仕打ちを受けたと思われるのに、笑って許してくれることには素直に感心できた。

「わたしと一コしかちがわないのに、大人ですっ」

「そんなことはございません」

 言いつつも、瑞其はまんざらでもなさそうだ。

「宗麟も、わたしが失敗しても笑って許してくれます。まだがんばっていいって、言ってくれます。瑞其さまも宗麟と同じくらい、優しいですっ」

「恭王、ですか」

 と、瑞其はかすかに眉をひそめた。

「古き伝統のある淸国と、新興国の恭とでは様々なところで異なりましょう? 心中、お察しいたします」

「?」

「慎み深き淸人と、猛々しい恭人とでは噛み合わぬところもあるでしょう」

「?? そんなことないですよ?」

 瑞其の言いたいことがわからなくて、星彩はきょとんとしている。

「淸も恭も、あまり変わらないと思います。みんな優しいし、一生懸命ないい人ばかりです。楊佳なんてわたしを追いかけてまでお世話してくれますし、韓当もよく宗麟を追いかけて仕事を」

 ごほん、と咳払いが二つ聞こえた。

 背後で楊佳と、今日は徐朱と交代に護衛として来ている韓当が、余計な事を喋ろうとする星彩を止めるために鳴らした音である。

 これが聞こえたら、星彩は言い掛けたことを止めて、別のことを話さなければならない。

「・・・ええと、だから、みんないい人なんです、つまり。恭人は蛮賊だっていう悪い噂もあるけど、ぜんぜんちがいます。この前、宗麟と妓楼で遊んだときなんか」

「あらお茶がもうありませんね! 新しいものをお持ちします!」

 楊佳が会話に強引に割って入り、茶器を女官に押し付けるついでに公子に見えない位置からぎろりと星彩を睨んだ。

(今のもダメだったのかな?)

 下手なことは喋るなと、縻達や楊佳には事前に言われているが、何が下手なことなのか、星彩はいまいちわかっていなかった。

「はあ・・・あの、星彩どのは、恭を気に入っておいでというわけですか?」

 瑞其は怪訝そうだ。

「はい、大好きです!」

「・・・は、はあ」

 満面の笑みで答えたのだが、なぜだか困惑されてしまった。

「ええと・・まあ、お幸せなのであれば、ようございました。亜は昔より淸にはお世話になっておりますゆえ、少々心配していたのです」

「心配?」

 淸にいる兄姉や父ならともかく、会ったこともない他国の公子に心配されていたとは思わぬことだった。それほど、亜と淸は近しい関係ということなのだろう。

「亜は、淸とすごく仲良しなんですね?」

「仲良し、と申しますと何やらおかしな気もいたしますが」

 と、瑞其は苦笑する。

「亜と淸は古くからの盟友です。大きな戦の度、協力して参った二国は、義により結ばれております。淸での出来事はすべて我が国のことと思っておりますゆえ、此度の恭との同盟も案じておりました」

「そうなんですか。えへへ、なんだか嬉しいです。やっぱり国どうしでも、友達になれるんですね!」

 にこにこと星彩は笑う。

「わたしは、亜が淸と仲良くしてくれるのが嬉しいですっ。恭とも仲良くしてくれたら、もっともっと嬉しくなりますっ」

「そ、そうですか」

「瑞其さま、もっとお話聞かせてくださいっ。亜はどんな国なんですか? どんな人がいますか?」

「ええと・・・」

 興味津々の星彩に圧倒されつつ、瑞其は少しずつ亜の話をした。

 その間に、女官が新しい茶を入れた器を持ってくる。

 星彩は会話の合間に、喉が渇いて温かい湯飲みを手に取った。

(・・・ん?)

 一口啜って、すぐに首を傾げる。

(? 甘いような)

 先程まで飲んでいたのは花茶だ。花の香りがするだけで、味はほとんどない。しかし、このお茶は甘い味がする。その上、なんとも言えない独特な香りもついている。

「これは、美味ですね」

 瑞其は気に入ったようで、早々に一杯飲んでしまい、女官が新たに茶を足した。

「――ええと、何の話でしたか・・・そうだ、亜の王室の話でしたか」

「あ、はい」

「亜には太子と、公女が二人おります。公女の一人は我が姉で、二年前に斉へと嫁ぎました。亜に王妃は一人しかおりませんので、我ら兄弟は皆、真に血が繋がっているのですよ」

 それは少し珍しい。平民と違って、王室は一夫多妻が基本である。実際、星彩の父だとて妻は四人もいた。ちなみに瑛勝と紅淑が、攸恭と芻稟と羅鑑がそれぞれ同じ母を持っている。半分ずつ血の繋がった兄弟がいるというのが、どこの国でも王族は普通なのである。

「もう一人の公女は妹なのですが、まだ十になったばかりです。我儘ばかり申す、どうしようもない奴でして、公女のくせにお転婆で、いつも侍女たちの手を焼かせているのです」

「わ、それは親近感があります」

「ごほんっ」

 楊佳の咳払いが聞こえて、星彩は慌てて口を噤んだ。

「姉の方は淑やかなのに、誰に似たやら。まあ、可愛いと言えば可愛いのですが」

 瑞其はまた一杯飲み干して、女官が更に茶を足す。

 妹に対し多少難を示しているが、最後の言葉が本音であろう。少し朱が差した機嫌の良さそうな笑顔が物語っている。

 星彩もつられて頬が緩んだ。

「兄弟仲がいいんですね」

「そう聞こえましたか」

「はい。わたしも、淸にいる兄さまや姉さまを思い出しちゃいました」

 いつもいつも迷惑をかけて、面倒をみてもらって、一緒に遊んで時に叱られて、たくさんたくさん愛してくれた兄姉たち。しばらく考えていなかった故郷が、急に懐かしくなった。

(瑛勝兄さま、攸恭兄さま、羅鑑兄さま、紅淑姉さま、芻稟姉さま、春麗姉さま・・・父さま、周迂、希忠親分、驢的、郭に遜じいも、みんな元気かなあ?)

 思い出は温かく、ほんの少し、星彩を寂しい気持ちにする。

 しかし今は浸っている時ではないので、切り替えて前を向いた。

 気付けば瑞其は四杯目の茶に突入していた。

「お兄さまはどんな方なんですか?」

 妹、姉、父、母の話を一通り聞き終えた後、当然の流れとして太子について言及すると、瑞其は途端に表情を曇らせた。

「・・・とても立派な、素晴らしい人ですよ」

 言って、一気に茶を飲み干す。

「文武両道、眉目秀麗、冷静沈着・・・絵に描いたような完璧な人間です。私よりたった四つばかり年上なだけですが、とても、同じ血を分けた兄弟とは思えません」

 兄を褒め称える言葉の羅列は、ほとんど棒読みだ。まるで、誰かが考えた台詞を復唱しているだけにも聞こえる。

「? 瑞其さま?」

 様子がおかしい気がして声を掛けたが、瑞其は星彩ではなくどこか別の所を見ているようであり、ぶつぶつと途切れず言葉は続いていた。

「まだ二十にもならぬのに政務に関わり、どんな時も決して怒らず慌てず、常に大局を見据え、不測の事態にも冷静な頭脳をもって対応できる。家臣からの信頼厚く、父上や母上にも将来を期待されております。まさしく、亜は僥倖を得たと、城下でも評判になっておりますよ」

 五杯目を飲み干し、瑞其は湯飲みを投げるように机に置いた。

「兄上は・・本当に、立派な方です。剣もろくに扱えず、馬にすら乗れず、思慮の浅い、物知らずな愚弟がいるとはとても思えない。本当に、立派な、立派な方で・・・」

「は、はあ」

 曖昧に頷いて茶を啜ったとき、くい、と裾を引かれる感覚がした。

 見遣れば、蘭々の頭に乗っていたはずの天祥が、いつ間にか足元にいた。

『星彩、それ、あんまり飲まない、がいい』

 天祥は星彩の触れている湯飲みを示して言う。

『星彩、前、明玉のお店で飲んで、倒れたもん』

「? 明玉のお店で飲んだって・・・」

 歌妓の明玉の店と言えば妓楼だ。そこで出される飲み物と言えば酒だ。確かに星彩は、前に妓楼で酒を一気飲みして倒れたことがある。

 しかし、それを今、天祥が言うのはなぜなのだろう。

「飲まない方がいいって、どういうこと?」

『それ、匂い似てる。星彩、飲んで、倒れた飲み物』

「? それってお酒のことだよね? これはお茶だよ?」

『? お酒、お茶、ちがうもの?』

 天祥と星彩が揃って首を傾げている間も、瑞其の呪詛のような呟きは止まっていない。

「・・・それに比べて僕は・・・運動音痴で、頭も悪いし、浅はかで・・・でも使者の務めは、きっと立派に果たしてみせるって、決めたのに・・・」

 ぐずり、と鼻を啜る音が聞こえて、星彩は天祥から瑞其へと目を移した。

 瑞其は先程よりももっと顔が真っ赤になっており、瞳に涙を溜めている。そうして、しきりにしゃっくりを繰り返す。

「こんなはずじゃあ、ヒック、なかった、のに・・虎を、ヒック、み、見せて、調子に乗った、恭王の鼻を明かして、亜の威厳、を・・・ヒック・・見せつけてやろうって・・ヒック・・色々考えて、計画して・・・なのに、なのにぃ・・ヒック」

「あ、あの」

「僕だって!」

「ひゃっ!」

 ばん、といきなり机を叩いて、瑞其は勢いよく立ち上がった。その反動で椅子まで倒れてしまう。

「僕だって兄上のようにできるはずなんっ・・・だ・・・」

 瑞其はふらりと横へ傾ぐ。

 誰が支える間もなく、鈍い音を立てて地に倒れ、そのまま動かなくなった。

「瑞其さま!?」

 慌てて星彩も駆け寄ろうとした。ところが、席を立った途端に目眩に襲われ、へにゃ、と地面に座り込んでしまう。

「あ、あれ?」

『星彩も、ちょっと飲んだから』

 天祥が心配そうに星彩の頬に鼻を寄せた。

 瑪岱と志季が急いで駆けつけ、瑞其と星彩をそれぞれ診る。

「お顔が上気されていますね」

 志季は星彩の頬に触れてから、中に茶が残った湯飲みを取って嗅いだ。

「これは・・・酒ですね。女官が茶と間違えたのでしょう」

「え、じゃ、じゃあ、わたしも瑞其さまも、お酒を飲んでいたってこと?」

「そのようです」

 答えたのは瑪岱だ。

 地に伏せる瑞其はすやすやと眠っており、派手に倒れはしたものの、目立った怪我はないようだった。

「公子さまは酔っ払っておられるだけです。結構お飲みになっておられましたから、しばらくは目覚めぬでしょう」

 はは、と瑪岱は何でもないことのように笑う。

「星彩さまも公子さまも、お若いですからまだ酒への耐性ができておられぬのでしょうなあ。今日はもうお開きにして、お二方ともお休みになられた方がよろしいかと」

「う、うん。そうするよ。わたしも、くらくらしてきた」

 一杯程度しか飲んでいないのに、自覚するとだんだん目眩がひどくなってきた。

「お部屋までお運びいたします」

 韓当が星彩を抱き上げて、瑞其のことは亜の家来たちが左右から支えて宮へと連れ帰る。

「星彩さま大丈夫ですか!? まったく、ドジな女官はきっちり叱っておきますから!」

 酒のせいで眠くなってきて、ぐったりしたまま運ばれる星彩を、楊佳の憤慨している声が追う。それをなだめようと、星彩は力なく笑いかけた。

「楊佳、あんまり、怒らないであげて? わたしも、ちょっとおかしな味がするって思ったのに、何も言わなかったし。天祥も、知らせてくれたのに、気付かなくて」

「いいえ、今回ばかりは星彩さまの責任ではございませんっ。陛下や縻達さまにもきっちり韓当から報告させますので、ご安心くださいねっ」

「ええ、楊佳の言う通りちゃんとご報告しておきますよ。今は安心してお休みください」

「うん・・・」

 しかし星彩が安心したところで、やらかしてしまったことに変わりはない。

 虎でおどかし、池に突き落とした挙句は慣れぬ酒に酔わせる。

(おもてなし、してるんだよね?)

 改めて思い返し、疑問を持ってしまった。

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