7.夜を駆ける(2)
「なんで最近のライカって……いちいち質問に全部答えようとするの? 最初の頃みたいに黙ってればいいじゃない」
「なんか……無視するのって悪いじゃん。気まずいし」
「意外だわ。悪いとか、思ってるんだ?」
「思うよ、多少は」
「多少、か」
無視され続けるよりはマシになったんだな、と苦笑いを浮かべていた瑠衣は、シャツの首元をバサバサと引っ張っていたライカが突然、微動だにしなくなったことに気付いた。彼は凍り付いたように自分の胸元を見ている。
「なに? なに、どうしたの?」
「うっ……わぁ」
呻くと、そのまま後ろに倒れて「くっくっく……」と小さく笑い始める。子供らしくしなさいよ、などと彼に言ったくせに瑠衣は、ライカから感情が見えると少し不安になる。
見慣れないからだろうと思うけれど、本当は彼にどうして欲しいのか、瑠衣にも分からなかった。
「ちょ……。怖いんだけど。え……怖いわよ」
「ちょい、こっち来て」
「……なに?」
「いいから」
彼のその言葉と態度を怪しみながら、しゃがみ込んだままずるずる靴底を引きずって彼に近付くと、胸のポケットをまさぐった彼から何か手渡される。そっと手の中を覗き込むと、小さなシルバーの指輪があった。
「……あぁ!! 探してたの、これじゃないの!!」
「ずっとここにあったみたい――ははは! 気づかなかった!」
「ははは……って、こらぁ!」
「あはは! ごめん! あは……笑える……」
「笑えない!! アホなの?? そこはまず最初に見なさいよ!!」
「おれ……やっぱバカだよね。いっつも大嘘ついて生きてるけど、やっぱ全然ダメだわ。……すっげぇ時間の無駄した」
寝転んだまま、タガが外れたように笑うライカにつられて、瑠衣も笑い始める。何がおかしいのか分からないまま、ふたりは笑い続けた。ちゃんと笑えるんじゃないの、と少し嬉しく思いながら目に滲んだ涙を拭った瑠衣の人差し指にアイラインが剥がれてこびりつく。
きっと汗でぐちゃぐちゃになっているであろう自分の顔を想像したが、疲れすぎてそんなことは気にならなかった。
束ねていた髪をほどいて、空気に晒す。髪を結わえるのが得意でない瑠衣は、仕事のときと邪魔なとき以外、その髪をまとめることはない。いっそのこと切ってしまえばいいのに、どうしても髪を肩より上にするのには抵抗があった。
「ちょっとこれ……この指輪さ、私が持ってるね? ライカ、また落としそうだし」
「うん。失くすから持ってて」
「そんな偉そうに言わないで!」
「――ねぇ、瑠衣」
それをカバンにしまい込みながら、「まったくもう」などと、ぶつぶつ呟いていると、不意に名前を呼ばれる。
視線を上げると、彼の顔から笑顔は消えていて、ただ、どこともいえない空中を見ている。
「ありがとうございました」
「……え? なによさっきから……怖いからやめて」
「こんな探し物に……付き合ってくれるの、瑠衣くらいじゃないかなって。本当に、ごめん」
そう言われて、瑠衣は手の中にあった指輪を思い返す。あれは何号なのだろうか、本当に小さな指輪だった。瑠衣が何となく口を開こうとした瞬間、遮断機がカンカンと大きな警告音を鳴らす。
「始発! まずい、轢かれるわ! 行くよ、ライカ!!」
叫んだ瑠衣が立ち上がり、降りてきたポールをくぐってから、ふっと振り返る。何だか嫌な予感がしたからだ。それが的中していることを確認する前に、彼女の身体は動いた。鳴り響く警笛の中、再び踏切の中に飛び込むと、ぼうっと座り込んでいたライカの腕を掴んで無理やりにポールの外に引きずり出した。
はぁはぁと肩で息をしていると、通過した電車が起こした風圧が、びゅうと髪を持ち上げた。間一髪だった。あと少し気付くのが遅かったのなら、ライカは電車に撥ねられていたに違いなかった。さあっと瑠衣の顔が青ざめる。
「なにやっとんっ?! 死ぬ気なんっ?!」
「……なに?」
虚ろな瞳で自分を見上げる少年のシャツをわし掴んだ瑠衣は、その頭を力一杯殴りつける。
「こん、アホが!!」
怒鳴りながら、目の奥に蘇ったライカの姿を思い出す。彼は放心したように点滅する赤い光を凝視していた。まるで、ねじが切れたゼンマイ式の人形のように動くことを忘れていたように――瑠衣には見えた。
「……痛い」
薄笑いすら浮かべて言うライカの顔に腹が立ち、瑠衣は勢い余って、そのまま彼を突き飛ばす。電車とライカがぶつかる様子がどうしても目の前に浮かんできてしまう瑠衣は、顔の前で手を振って要らない考えを振り払おうとする。しかし、それはなかなか消えてくれない。
「痛いって? 当たり前でしょ、殴ったんだから! ……轢かれたらこんなのより、もっと痛いわよ!」
「……どうだろ、痛くないんじゃないかな。だって……ぐちゃぐちゃになるっしょ」
「あぁもう……。本当、気持ち悪い、ライカって!!」
言い放ってしまうと、少しだけ頭が冷静になってくる。とっさとはいえ、遮断機の閉まった踏切に飛び込んでしまったことは、考えれば考えるほど恐ろしい。身体中の力が抜けてしまった瑠衣は、地面に転がっているライカの側に座り込んだ。
だんだん実感が増して寒気がしてきた肩をさすっても、震えは止まらない。不意に髪の毛が引っ張られた気がしてそちらを見ると、ぼんやりした顔のまま上半身だけ起こしたライカがそっと髪の毛先を
「なんか……絡まっちゃったね」
「あのね?! どうでもいいじゃないの、そんなこと!!」
「……どうでもよくないよ」
なぜか食い下がるライカの指が、微かに震えていることに気付く。何が何だか分からない瑠衣だが、ライカの様子が今までにないほどおかしいことは分かった。
「……ねぇ、変だよ? いつも変だけど……」
「なんか見えて……」
頬に伝ってきた汗をシャツの肩で拭った彼は、呆然と呟く。確かに暑いが、だらだら汗を流すライカは普通には見えなかった。カバンからハンドタオルを取り出し差し出すと、彼はちらりと瑠衣を見てからそれを受け取る。
タオルを握りしめたまま、上手く言葉に出来ない様子の彼は、そのまま顔を覆う。
「わかんない……なんか突然……なんか……夢みたいな」
「なんか? 夢……?」
理解が出来ない瑠衣は、そっと首を傾げた。遮断機が鳴る直前まで何ともなく会話していたのに、何の話なのだろうかと、不思議になる。
瑠衣が困惑し続けていると、彼は怠そうに頭を抱えた。ぶつぶつと口の中でライカは呟く。首筋をさすりながら、うなだれた彼は目をきつくつぶって考えているようだった。
「なんか死ね、みたいな」
「……しね?」
「いつ……? いや……」
反芻した瑠衣の言葉には答えず、しばらく何かを自問自答したあと、彼は黙り込んでしまう。瑠衣が見る限りの彼は、とても大丈夫そうには見えなかったが「本当に大丈夫?」と声をかける以外に思い付かなかった。
話すことも動くこともしなくなり、黙ってじっとしているライカの正面で、目を瞬かせていた瑠衣もついには視線を落とした。
ゴミ捨て場で、燃えるゴミになることを望んでいた少年が、普通ではないことくらい、分かっていたつもりだった。しかし、それは "つもりだった" に過ぎないのだろう。だが、怖くはなかった。ライカの様子に不安にはなっているが、彼の存在に恐怖は浮かばないのだ。彼と出会ってから、一体何度 "不思議だ" と思っているのか、瑠衣には分からない。
不意にゆらりと目の前を影が横切ったことに気付き、顔を上げると、ライカが中腰で膝に両手をついたまま、前方を見据えている。
「……帰る」
「ど……どこに帰る?」
「わかんない……。けど、帰りたい」
もちろん、瑠衣だって帰りたいに決まっている。身体が鉛のように重い彼女は、返事をする気力すら湧かずに黙って立ち上がり、ライカに歩くことを促す。まさか、こんなことになるなんて思っていなかった。気晴らしに映画でも観ようと思っただけだったのに。
あっという間に、夜は駆け抜けていった。
瑠衣がすっかり昇った陽を見上げると、嫌がらせのように晴れた空は、どこまでも青く美しかった。
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