6.あまいものがお好き
映画を観終えて外に出ると、大通りには誰もいなくなっていた。腕時計を確認してみると、もうとっくに終電車は終わっている。
瑠衣が一番歩きやすい六センチのヒールが、カツカツとアスファルトを叩く音が辺りに響いていた。
「ねぇライカ。……映画どうだった? 面白かった?」
問いかけると、彼はひと唸りしたあとに頭を掻く。
寝てるのだろうか? と観劇中の彼をときおり確認した瑠衣だが、見る限り、ライカは最後まで真っ直ぐスクリーンを観ていた。しかし、この反応からして、つまらなくはないが面白くもなかったのだろう、と察しをつける。
「やっぱ、つまんなかったよねえ」
「んー。つまんないと言うよりは……。なんか……あれ、マシュマロみたいだったね」
ライカの言う『あれ』が、何を指しているのか、瑠衣には分からない。そのまま見つめていると、彼は小首を傾げた。さらりと落ちてきた髪を邪魔そうに掴んで、斜めのまま、ライカは瑠衣に視線を投げる。
「いや……どっちかっていうと、シュークリームか?」
「……ん?」
追加された情報も、何を表しているのか分からない瑠衣は、確かにお菓子はたくさん出て来たけど、そんなものあったっけ? と空を睨んだ。
「ねぇ、どこのシーン話してる?」
「どこっていうか……。あの……色々出てただろ。足とか……ケツとか。その……胸も」
ライカは気まずそうに視線を外すと、苦笑いを浮かべる。劇中では、女性の白い肌が露わになるシーンが多かった。彼の言葉の意味を理解した瑠衣は持っていたカバンをライカのお尻に向けて叩き付ける。
「やだ、スケベ!」
「いてっ! しょうがねぇだろ? あんなバンバン出されてみろよ、気になるのが正常だって!」
平らな部分で殴ったつもりの瑠衣だったが、狙いが逸れてどうやらカバンの角が刺さってしまったらしい。彼はぶつぶつ言いながらずっとお尻をさすり続けている。
「はいはい、そうでした、ライカは青少年でしたね」
「なんだよ、真面目な感想を聞きたいの?」
「最初からそれしか聞いてないわよ、私は」
「うーん……。頑張ってなんか言うとしたら……。じいちゃんの恨み辛みが他人から見ても哀れな話……って思った」
「あぁ……まあ主役は天才の方よね、実際」
映画内で語られる、主人公の過去話は、逆に天才的なライバルを引き立てていた。結果的にライバルの天才は早死にし、主人公は名声を維持した。ストーリー的に主役は "主役" であっても、本当に人々を惹きつけていたのは、、天才の方だったと瑠衣は思ったのだ。
「まあ、私はあのオジサンの気持ちもわかるけどね……。死ぬほど努力したって、凡人は天才には勝てないのよ。映画になっても結局、天才が主役だもの。かわいそうだった」
「かわいそう?」
「……え? かわいそうじゃない?」
「よくわからない。なんかさ……勝った負けたってなにで決まるの? おれから見たらあのおっさん金持ちだし、なんか偉いやつの下で働いてるし、やっぱり人生で勝ってんのは主役じゃん? その……勝ち負けみたいなの、決めるのは周りだし。あんだけ裕福な暮らしをしてて、なにが不満なんだジジイ、まだ欲しいのかよって思う」
想像していたよりも遥かにすらすらと語りきったライカに、瑠衣の口はあんぐりと開いてしまう。あんなにどうでもよさそうな顔でいたくせに、彼はしっかり映画の内容まで観ていたようだった。
「…………本当にライカって……なんか大人ね」
「こう思うの、変?」
「ううん、変ではない。ちょっと……びっくりしただけ」
「……瑠衣はあのオッサンに同情してるみたいだけど、おれは天才に同情する」
「え?」
「あんなの、親が舞い上がっちゃっただけだろ? 天才だ!! ……って。おれには、天才が天才なのは、親が "天才っていう設定" にしたからっていうか。そういう教育システムの中で育つしかなくて、絶対他のとこ見てもらえないから、親に褒められるために必死で頑張っててさ。そのうちに死んじゃった……みたいな、そういう感じがした」
「…………そっか」
瑠衣は生返事をしながらうつむいた。胸の奥がチクリと痛む。 "親が舞い上がってしまった" ――それは、思い返せば、蜂谷家そのものだった。他の所を見ない、というものとは違ったとはいえ、特に母親の方の期待は過度で、それに応えるために、何よりもピアノを優先してきた過去が、瑠衣にはあった。
劇中で英才教育を施される天才や、彼の父親の言動は、瑠衣にとっては見慣れたものだった。しかし、ライカの言葉を聞いて瑠衣は改めて思う。あれは普通ではなかった、どこか異常だったのだと。
『瑠衣はピアノが上手だから、大丈夫』
それが母親の口癖だった。しかし、一体それのどこが "大丈夫" だったのだろうか。実際は、何も大丈夫ではなかった。過去の家庭内の揉めごとはそのほとんどが、ピアノに関連したことだった。
確かに瑠衣は今、ピアノが弾けるおかげで給料を貰い、家賃やら光熱費を払い生きている。
だが、なぜ今こんな風に生きているのか、それを考えると、必然的に自分がピアノさえ弾けなければ、こんなことにはならなかった、そう思ってしまうのだった。しかし、それが分かったところで、ここで漠然と待ち続けること以外、瑠衣には出来ないのだ。
「瑠衣……? 聞いてる?」
ライカに腕をつつかれ、ハッと顔を上げる。一瞬、何を言われているのか分からなかった瑠衣は「ごめん、なに?」と問い返す。
「あの……当たり前のようにねだるのは申し訳ないんだけど、なんか飲みたいです。さっき映画館でいらないって言い張ったけど、喉渇いた。コンビニあるし」
ぼうっと立ち尽くす瑠衣に向かって、ライカはひたすら明るく輝く店内を指差した。それでも動かない瑠衣を見て、慌ててポケットを探り、手持ちの硬貨を数え始める。
「こないだもらったの、残ってたから自分で買える」
「あぁ……。そういう意味ね。そういえば、私もなんか飲みたいわ」
「こっちの金使う?」
「ううん、持ってなよ。なにかに使うでしょ」
「使わない。返す」
硬貨を突き返してくるライカに、瑠衣は首を振る。大胆な態度を取るわりに、彼は真面目なのだ。
それは半月、一緒に過ごしてきた瑠衣には分かりきったことだった。
「そんなに気を遣わなくてもいいのよ? さっきのもそうだけど」
「……さっき? ……って?」
「ほら、膝掛け」
「……あぁ。そんなの忘れてた」
「あと、謝りたいんだけど。ごめんね、『ろくでもない』なんて言っちゃって」
「……別に、普通じゃない? ろくでもないよ、ひとの家に転がり込んどいて、偉そうに金よこせとか、飲み物を買え、なんて言うやつ」
「ライカ、一回も『金よこせ』なんて言ってないじゃない」
「そうだけど。借りた金、
彼は微かに笑みを浮かべると、スイっと手を出して、先に入れと言わんばかりのジェスチャーをする。不思議な少年だと、瑠衣は思う。
恐らく年齢的に子供であることは間違いないのだが、ときおり見せる行動が、彼を大人に見せたりするのだった。
「ライカがろくでもないなら、私もろくでもないよ。ひとのこと言えない」
「……どうしたの、急に」
「急かしら?」
「なんか……変だけど」
「長く生きてると、色々あるのよ」
「……長くといっても、二十……いくつだっけ?」
「二十五歳」
「……ふぅん」
「聞いといて『ふぅん』ってなによ、もう」
その素っ気ない返答にムッとしながら、陳列されたペットボトルを眺める。とにかく水分が欲しい、そんな感覚を覚えた瑠衣は、扉を開くと無糖の紅茶を取り出した。
「それ貸して、買ってくる」
店内の広告を見ながら立ち尽くしていたライカの手から缶コーヒーを奪うと、レジに足早に向かう。
しかし、お茶では足りない気がして、道すがら栄養ドリンクの瓶を取って会計を済ませる。瑠衣はその甘い香りが好きで、意味もなくそういった栄養ドリンクを飲むのだった。
外に出て、据え付けられたゴミ箱の前で瓶の蓋を開けて飲み始めると、隣でライカが「オッサンみたい」と笑う。瓶を煽ったまま、肘で背中を小突こうと腕を動かすと、すんでのところで彼はそれを交わし、瑠衣の左手にぶら下がっていた袋を取り上げた。
「このあと、どうすんの? なんかすんの?」
がさごそと袋を探り、缶コーヒーを取り出して、プルタブを引きながらライカは呟く。缶に亀裂が入るサクッという音を、ほとんど缶コーヒーを飲まない瑠衣は久しぶりに聞いた。
「んー、考えてない。したいこと……ある?」
瓶をゴミ箱に投げ入れて、彼を振り返る。エアコンの冷えた空気の中にいたせいだろうか、どうも疲れているらしい怠い身体が、何だか邪魔に思えた。
「したいこと、ねぇ。……なんもないかな」
「そうだと思った」
「したいこと……そうだな」
そう呟くが、彼はなかなか次の言葉を発しなかった。瑠衣は前髪を直しながら「うーん」と唸る彼を何となく見つめる。
いつまで続くのだろうか、と貼り付いたような笑みを浮かべた瑠衣が「もう帰ろう」と言いかけたとき、ライカが口を開いた。
「ねぇ。踏切ない? この辺」
「踏切って、電車の? あったと思うけど……。線路歩くの、ダメよ?」
「あぁ、そういうんじゃなくて、ちょっと試したいことが。夜中じゃないと出来ないし」
「……なにするのよ」
「いや、見るだけ」
「見るだけ? ……線路を?」
何のことやら分からず、不安げな瑠衣の瞳を察したようにライカは 「大したことしない。どっち行けばいい?」 と促す。
瑠衣の記憶が正しければ、家への裏道の途中に踏切があったはずだった。特に急いでもいない。だから、適当に歩くことにする。
歩きながらライカの顔を見ると、彼はつまらなそうに地面の小石を蹴っている。先に転げた石に追いつく度に、彼は真っ直ぐ前に石を蹴り出すのだった。
「……本当、ライカって毎日退屈そうよね」
「そう言われても……。おれ、普通にしてるだけなんだけど」
「退屈そう、とかもそうだけど……もうちょっと子供らしくしなさいよ、ちょっと怖いっていうか。言うことも全然子供っぽくないし。どこで覚えてきたのよ、ああいうの」
「なにが?」
「さっきの親の教育がどうとか……。今までも他に色々あったじゃん、ほらあれ……。忘れたけど」
「あぁ……。めちゃくちゃ本読んだからかな。日本語が真剣すぎるってたまに言われる」
「本か……。読書、好きなの?」
考えてみれば、部屋にいるときのライカはいつも読書中だった。
話しかけてもときどき気付かないこともあるくらい、集中して読んでいる。
「……いや、好きではない」
「好きじゃないの? 好きじゃないのに、読むの?」
「……他にすることなかったから。子供と遊ぶのも、めんどくさかったし」
「子供? 下に兄弟いるの?」
「あー。……あ! あった、踏切!」
問いかけた瑠衣から逃げるように、ライカは走り出す。彼の行き先には、オレンジ色の光で照らされた小さい踏切があった。
「ちょ……っと! 言いかけたら最後まで言ってよ、気になるじゃないの!」
「どうでもいいでしょ、おれの読書の話なんか」
振り返りもせずに、ライカは声を上げた。ふと、瑠衣の頭に疑問が浮かぶ。どうせ本心を言わないくせに、彼はなぜいちいち瑠衣の質問に答えるのだろうか。
近頃のライカの受け答えは、正直に話そうとしたことを、自ら打ち消しているかのようだった。
何が変わったのかは分からないが、彼は少しずつこちらを向き始めている。
以前『ひとり暮らしを始めると、誰とも話さなくなる』と店のママが言っていたが、瑠衣もひとりで生活をし始めてから、当たり前に家で話すことはなくなった。休みの日はひと言も、言葉を発さないのが通常運行だった。
しかしライカが来てからは、話をするだけではなく、自炊も増えてひとりのときは決して作らなかった味噌汁などを作るようになっていた。
それどころか、簡単なものではあるが、ケーキまで焼いたりするのだ。
ライカは甘いものが好きらしく、パウンドケーキを出すと無言のままパクパクと食べた。
彼が顔も上げずに食べ続けるものだから、『感想はないの?』と問いかける。しばらく考えた彼が『美味いから食ってる』と返してきて笑ったことを、瑠衣はぼんやりと思い出した。
「……助けられてる、とか……なんでなの」
そう呟くと、何だかおかしく思えてくる。先日、ピアノの前で感じたあの感覚は、日ごと増すばかりだった。上京前に思っていたより、東京での暮らしは孤独だった。
瑠衣はずっと、寂しいと誰にも言えずに暮らしてきたのだ。
視線の先のライカは、踏切の真ん中でしゃがみ込んで目を凝らしている。
昼間より涼しいとはいえやはり外は暑い。早いところ終わらせて帰った方がよさそうだ。手に持ったままだったペットボトルをカバンに押し込むと、ライカに声をかけるべく、瑠衣は静かに歩み寄った。
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