2.偶然の呪い(1)
「何時だと思ってるの?? 朝よ、朝! 心配するでしょう!!」
ライカは瑠衣に怒られている。瑠衣が仕事から帰ってきているのは予測が出来たライカだが、自分は瑠衣にとっては他人なのだから、別に怒られることもないだろうと思っていた。
だから、こんなに強い口調で問い詰められるつもりはなかったのだ。
「どこ行ってたの!?」
「えっと……なんか、クラブ……? に」
「クラブ??」
「なんだろ? なんか……成り行きで……」
「どこ? それ」
「ええと……。チェシャ……なんとかかんとか」
場所を特定されるのが面倒で、適当に誤魔化して言うと、彼女は「えぇ??」と大きな声を出した。
「まさか、チェシャーズ……なんちゃらパーティってところ??」
「あぁ……多分それ」
なんだ、知ってるんじゃないか、とライカは一段上にいる瑠衣を見上げ、口を真一文字に結ぶ。やはりこの土地長いこと住んでいる人間は違う。とはいえ、彼女は店名をきちんと覚えていないようだったが。
「なんであんなとこに?」
「なんでって……。だから成り行きで」
「あそこ危ないって店でよく聞くんだけど。なんかされなかった? 絡まれたり」
「……別に、大丈夫」
一瞬、ユイにされたキスを思い出してしまい、ライカはパチパチと目を瞬かせる。何かされたか、と問われれば、されたうちに入るだろうが、そんな報告はしたくもなかった。結局、昨晩はあのままユイに引きずり回され、こんな時間まで離してもらえなかったのだ。
「確かにね『外に行けば?』……とは言ったわよ。だけど、唐突に夜遊びとか、どうしてなの、本当に!」
「いや、おれもそんなつもりはなかったんだけど。なんか流れで」
「私ね、ライカのお母さんから、きみを預かってるつもりでいるんだからね?」
「お母さん……」
「なによ。ママの方がよかった?」
瑠衣は不満げに言うが、そういう話ではなかった。彼女の言う "お母さん" の顔を、ライカはほとんど覚えていない。
それは、たとえるならば、もやっとした影のようなものだった。顔は分かるのだが、一枚の写真を刷り込んだような、曖昧な記憶でしかない。まるで彼女が生きていた実感がなかった。確かに生きていたし、側にいたはずなのに。
「どうしたの、急に黙っちゃって」
「別に。なんでもない」
そう伝えたところで急に、ライカは眠気に襲われる。夜中に働く瑠衣と違って彼は、明るくなれば起き、暗くなればそこそこの夜更かしで眠る生活をしていた。昨晩は一睡もしていない。
「眠いなと……思って」
ライカのその言葉を聞いた部屋着の瑠衣は、イラついたようにため息をつき、立ちはだかっていた玄関から一歩下がる。
「洗面所、借りる」
「いつも勝手に使ってるじゃないの」
「たまには、ちゃんと言おうかなって」
「ふぅん、それはどうも!」
その突っけんどんな言い方はユイとよく似ていた。よく考えたら名前まで似ている。ユイが大人になると、瑠衣のようになるのだろうか――などと、ぼんやりと考えを巡らせながら歯磨きをしていると、瑠衣がぶつぶつと呟くのが聞こえた。
「私だって眠いんだからね。誰のせいで起きてたと思ってるのよ」
心配してくれ、なんて一度たりとも頼んだことはなかったが、そんなことを言ったら火に油を注ぐ事態になることは、想像するまでもなかった。正直、これ以上の口論は面倒くさいライカだった。
手のひらですくった水道水を口に含むと、夏の匂いがした。
それは決していい風味ではない。去年初めて東京の水を口に入れた時は、あまりの不味さに飲んではいけないものなのでは、と身構えた彼だったが、今では顔色も変えずにこうしてうがいをしていられるのだから、人の適応能力には感動すら覚える。
そんなことを考えていたら、ふと鏡の中の自分と目が合ってしばらく見つめてしまった。途端に悪寒を感じてすぐに水を吐き出した。
一度だけ、"先生" に自分の顔が嫌いで仕方がないことを教えたことがあった。彼女は不思議そうな面持ちで、理由を聞いてきた。答えはひとつしかなかったが、その他人にとって必要な、理由を口に出すことすら嫌だったライカは黙ってしまった。
それ以来、誰にもその話をしたことはない。なぜなのか? そう聞かれることが分かってしまったから。
人間は魔法なんか使えない。いくら仲良くなったとしても、思っていることはいちいち伝えなくてはならない。もちろん自分だって、話を促さなければ相手のことは分からないのだから。他人を知るためには、交換条件のように、自分の情報も出さなくてはいけない。だったら要らないのだ、他人なんて。
「ちょっとライカ、聞いてる??」
はっと顔を上げると、布団の上で膝を崩した瑠衣が、妙な角度に斜めになってライカを見ていた。
「もう。私、ずっとひとりで喋ってたわけ?」
「ごめん、もっかい言って」
「寝る、おやすみ」
「……ずっと喋ってたって、それを言ってたの?」
「違うよ、アホ。おやすみ!!」
「はぁ、おやすみ……」
やはりライカには、他人がよく分からない。
無駄に鏡を見ないように、注意を払いながら歯ブラシを戻すと、定位置に座り込む。ここは用事がないときと眠るときに戻る場所だった。夏場に毛布の上なんて、とても暑いが、硬い床の上よりはまだよかった。贅沢は言っていられないのだ。
「諦めてエアコン買おうかなあ。最近の暑さハンパない」
ふぉあ、とあくびをしながら、瑠衣は枕に顔をうずめる。そこまで現実味のない言い方に、曖昧に答えてライカも横になる。色々と考えたいことはあったが、とにかく疲れていた。昨晩は久々に瑠衣以外の人間と会話をしたし、何よりまだ酔いが残っているようだった。
目を閉じると、彼はすぐにまどろみに飲み込まれていった。
◇◇◇
ライカのみる夢はときどき、なぜか "これは夢だ" と自覚出来ることがあった。そんな風に夢を夢と思いながら、通り過ぎる景色を眺めていたら、誰かに話しかけられる。
誰だか知らないが、向こうは当たり前のようにこちらを知っているようだった。何を言われているかは分からない。相手の口ばかりが目について、言葉が頭に入って来ないのだ。
聞き取れたのは "木" という単語だけだ。気付くと話していたはずの人物がいなくなって、代わりに目の前に大木が立っていた。
それは子どもの頃、よく登った近所の木にどこか似ていた。思い切って手をかけると、身体は空気のように軽く、あっという間にてっぺんまで登り切っていた。
遮るものがない開けた土地が眼下いっぱいに広がり、緑と土の匂いがする。幼いライカは、頑丈な枝を見つけては座り込み、足をブラブラさせながら、よくこの景色を日がな眺めていた。ふと見下ろすと、いつものように首からミノルタ製の一眼レフカメラをぶら下げていた。
ライカは本当は知っていた。 "ライカ"が何を表すかを。どこかで聞いたような気はしていたが忘れていた。というよりは、忘れていたかった。思い出したくなかった。
自分には大きすぎるカメラを抱えて走り回り、夢中でシャッターを切ったこと。撫でてくれる大きくて優しい手と静かな声を。
◇◇◇
ふわりと身体が浮く感覚に襲われて、反射的に起き上がったライカは本当に目が覚めたのか分からなかった。
これも夢の続きなのではないかと疑わしい気持ちのまま、ライカは辺りを見回す。部屋には誰もいないようで、ますます疑いが強くなる。
だが、どうやら夢の中にいるわけではなさそうだった。心臓がどくどくと脈打っていたし、指先が痺れて感覚がないのになぜか痛い。
震える指が気持ち悪くて、ぎゅうと握りしめた。試しに拳を開くと、手のひらにくっきりと爪の痕が残っていた。
風呂場のドアが開いたことに気付き視線を移すと、ガシガシと音が聞こえそうな勢いで髪を拭きながら、瑠衣が出てきたところだった。その姿から察するに、ライカは思っていたより長く眠っていたようだった。
「あ、おはよー」
呑気な声で呟いた彼女に向かってライカは、淡々と「……なんで "ライカ" なの」問いかけた。
「ん?」
「なんで "ライカ" なんだよ」
「え、だから、うちの猫――」
「なんでだって聞いてんだよ!」
感情的になったライカが怒鳴る。それに驚いたのか瑠衣は髪を拭うのを止め、バスタオルを肩にかけると、しばらく黙った。彼女の黒々とした瞳が彼を見つめる。
それに気付いたライカは大きな声を出したことを後悔した。起き抜けだったからか油断していたのかもしれない。避けてきた、わざわざ情報を差し出す行為をしてしまったのだ。
「ライカは……カメラメーカーの名前だったはずよ。なんで? というより……なんで怒ってるの?」
「怒ってんじゃ、ない」
「だって……私、さっき怒鳴られたよね」
自らを指差し小首を傾げた瑠衣は、すたすたとこちらに歩いてくる。慌てて目を逸らすが、視線に入り込むように「ねぇ、なんで?」と言いながら覗き込んでくる。
屈んでいるせいか、Tシャツの首元から胸元が覗きかけて、慌てて腕で瑠衣を押し退けた。
「服、ちゃんと着ろって言ってんじゃん」
「え?? 着てるじゃない! 前に言われたから着てるよ? この暑いのにTシャツを!」
「あーもー! なんでもいいよ」
「納得いかないわ! 私、なにも悪いことしてないよね? え、そうよね? 変なこと言ってないよ??」
横でぎゃんぎゃん言う瑠衣を無視して、ライカは膝を抱えた。
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