ー 2 ー

1.きみに聴かせたい音は私の中に

 瑠衣は休憩室で、アイスティーを飲み干そうとしていた。何だか今日は室内がやけに暑い。ドアが開く音がして、反射的にそちらを見ると、キャストの──つまり接客担当のミサキが、かったるそうに肩を押さえながら入ってきた。


「お疲れさまでぇーす」


「お疲れさまです。なんだかダルそうね、大丈夫?」


「うー、なんか疲れた。あの客ホントに嫌で……」


「そうなの?」


「だって、あからさまに口説いてくるんですよ? 同伴でなんか買ってくれるだけなら大歓迎だけど、普通に誘ってきますからね。こっちは仕事だっての」


 ドレスの肩部分と下着の紐を直しながら、彼女は愚痴をこぼした。もてなし役にも色々なタイプがいる。お金さえくれれば何でもよいという子もいれば、このミサキのように戸惑う子もいる。


「瑠衣さんはいいなあ、ピアノ弾けて。めんどくなったら『演奏があるんで!』とかって逃げられるじゃないですか! 私も習っとけばよかった……」


「ミサキちゃんみたいにかわいくて、スタイル良かったらピアノなんか弾いてないわよぉ」


 その言葉はお世辞ではなかった。ミサキはすらりと背が高く、すっきりとした目鼻立ちの女の子だ。ぽってりとした唇が色っぽい。

 年がら年中、年齢確認に引っかかっている瑠衣とは違う。


 この店はいわゆる高級クラブに入るのだろう。銀座にあるようなものに比べたら、そこまで高級かは疑問が残るが、ある程度の財力がないと通えないような店である。

 夜の世界に免疫がなかった瑠衣でも馴染めたのは、恐らくそこにあった。


 大学を中退して上京した瑠衣のような若い女が、手っ取り早く稼ぐためには、いわゆる男性客を相手にするような仕事の方が効率がよかった。しかし彼女には、どうしてもそれが出来なかった。

 ティッシュの広告を見て体験入店というものをしてみた瑠衣だが、気の利いたことは言えないし、意味もなく身体を触られる。全ての店でそうとは限らないのだろうが、瑠衣が訪れた店はそれが当たり前のようだった。


 『触らせてお客が取れるなら、それでいいじゃん』


 年下の先輩女子にそう言われて、愕然とした。 "確かにそうかもしれない、そうなんだけど" という言葉を飲み込んで、瑠衣は愛想笑いを浮かべた。

 ああだこうだと奔走した結果、ピアノ演奏と接客補佐で済むこの店を見つけたのだ。小さい頃からピアノを弾いていた瑠衣なら少しの努力できっと求められるものを弾けるようになる。何とか雇って欲しいと面接に現れたママに懇願こんがんした。

 持ち出した資金は家を手に入れるのでほとんど消えていた。働き先が見つかるのがあと一週間先だったら、豆腐で腹を膨らませて生きていた瑠衣は飢え死にしていたかもしれない。


 どこかで昼間のアルバイトで生きることも出来た。だが、この世界でなければ意味がなかった。ここにいなければ。


「瑠衣さん?」


「えっ?」


「ずっとマスターが呼んでますけど」


 顔を上げると、質の良さそうな三つボタンのベストを着た "マスター" が苦笑いでこちらを見ていた。

 まだ三十歳そこそこらしい彼は、ただの雇われバーテンダーだったが、経営者と見間違うような落ち着きっぷりに、店の人間にはマスターと呼ばれていた。本当は何という名前だったか──実は瑠衣も覚えていなかった。


「あっ、はい! なんでしょう?」


「瑠衣にお客さんだよ」


「……私に、ですか?」


 無意識に、心のどこかが期待してしまう。彼が訪ねてきたのだろうか、ついに蜂屋瑠衣を見つけたのだろうか、と。


墨田すみださんがご来店なんだ。ほら、今日ママ休みだからさ。お願いしていいかな?」


 マスターの言葉に、そうだよね――と瑠衣は頷いた。もう "あの子" に会うことはないって諦めてたでしょう──そう思うと、ちくりと胸が痛んだ。


「あれ? 瑠衣? ……大丈夫かな?」


「あぁ、ごめんなさい。はい、大丈夫です! え、でも久々にひとりだけど平気かなあ……」


 ソファから立ち上がりながら、鏡で身だしなみを整える。特に動き回ったわけでもないのに、アップにした髪から後れ毛がバラバラと落ちていた。何年経っても完璧に結えるようにならない。せめて、という気持ちで、言うことをきかない髪を押さえつけ、ついでのように前髪に触れる。

 年齢の割に短すぎる前髪は、手が滑って生まれたものだったが、今となっては瑠衣のトレードマークになっていた。


「大丈夫でしょ、墨田さん、瑠衣のこと気に入ってるじゃない。困ったらなにか弾くといいし、あれなら助け求めてくれてもいいよ。あのひと、俺と話すもの嫌じゃないみたいだし」


「気に入ってる……そうなのかな……? って……マスター接客出来るんですっけ?」


「出来るっちゃ出来るし、出来ないっちゃ出来ない」


「それって……どっちなんですか?」


 そのふざけた言い方に、瑠衣は吹き出してしまった。マスターは「ま、相手の気分を損ねなきゃいいんだよ、この仕事は」と肩をすくめる。

 それはそうだ、と頷きながら瑠衣はマスターと一緒に、休憩室からフロアへと繋がる廊下を歩く。

 相変わらず、高いヒールの靴を履いているときは歩くのすら疲れを感じる瑠衣だった。注意を払っていなければ派手に転んで、捻挫のひとつやふたつするだろう。要するに、彼女には向いていないのだ。


 マスターの言う通り、初老の墨田は瑠衣の弾く間に合わせのジャズを好いていてくれているようだった。サラ・ヴォーンのファンだといい、中でも "バードランドの子守歌" がお気に入りのようだった。

 喜んでくれるのならばいくらでも弾くが、瑠衣はそれにさほど意味を感じていなかった。


 瑠衣は別段、ジャズが好きなわけでもない。とはいえ、ずっと弾いてきたクラシックにしてもそうだった。幼い頃、親戚のおばさんの家にあったピアノを何気なしに弾くと、なぜだか大人が褒めてくれた。この子は才能がある、などと言い出した母親が瑠衣をピアノ教室に通わせ始めた。


 ある意味、才能はあったのかもしれない。もし瑠衣に何か特殊な能力があったとするならば、母親を喜ばせる才能だった。

 瑠衣はメキメキと頭角を現した。だがそれは高校生までの話で、田舎ではライバルがあまりいなかったからだったと、今では分かる。全国大会では表彰されたことも名前を呼ばれたことすらなかったからだ。



「じゃあ、よろしく頼むね。俺はカウンターにいるから」


 マスターが顔に似合わず満面の笑みを浮かべた。彼はいつも絵に描いたように、にかっと歯を出して笑う。働き始めの頃は、あまりに彼の表情が変わるものだから、ぎょっとしていたものだ。


「ありがとうございます。大丈夫、どうにかしますから」


 マスターと別れた瑠衣は、壁に向かって両手を着き、目を閉じる。それは客の前に出るときの、ちょっとした決まりごとだった。その脳裏にふと、ライカはどうしているだろうか、という思いがよぎった。


◇◇◇


『なんか弾いてよ』


 ライカを住まわせることに決めた数日後、暇そうにしていた彼からそう言われた。その声は聞こえていたが、瑠衣は雑誌から顔を上げなかった。いつもライカがするように、返事をしなかったのだ。仕返しをしてやりたい彼女のいたずらだった。


 予想に反してうんともすんとも言わない彼が、数秒の沈黙のあとに立ち上がる気配がした。顔を上げると、ピアノの前にかがみこんで、まじまじとそれを見ているライカの後ろ姿があった。

 恐る恐るピアノのふたを開けた彼が鍵盤を押したようだが、電子ピアノは当たり前のように音を出さない。瑠衣は面白くなって、そのまま知らんぷりをした。


 首をひねっていたライカは「あ……」と呟くと、頭を掻きつつ電源ボタンを押した。瑠衣は吹き出すのをこらえながら、ちっともこちらの様子に気付かないライカをクッションに頬杖をついて見守る。改めて彼が押した鍵盤から、ようやっと音が転がった。


『ミのフラット』


 はっと振り返ったライカは、見られていたことに初めて気付いたのか、気まずそうに目をそらす。


『……なんでわかるの?』


『わかるよ、それくらいなら。そのまま "ねこふんじゃった" が弾けるわよ』


『ねこ……』


『ライカらしいね、その音のセレクト』


『別にセレクトしてない。……ねぇ、これで仕事してるんでしょ?』


『うん。一応ね』


『だから……弾いてって』


『えー? しょうがないなぁ……。なにを弾けばいいの?』


『なんでもいい』


『それが一番困るなぁ』


 ピアノの前に座って少し考える。そのまま "ねこふんじゃった" を弾ききってから、にやりとライカを見上げた。


『いや……そういうんじゃなくて』


『じゃあ、私が一番好きなのにしようかな。クラシックだけど』


 すぅ、と息を吸ってから、最初の音を奏でた。バッハ作の "パルティータ第1番のジーグ" は、瑠衣の一番のお気に入りだった。なぜなのかは、彼女にも分からない。ただ、好きだった。楽しくてピアノを弾いていた頃に、いつの間にか戻ったような感覚に瑠衣は捕らわれた。


『へぇ……』


 瑠衣が鍵盤から指を離すと、ライカがひと言だけ呟いた。なるほど、と言いたげな表情で、定位置に戻っていく彼に向かって、思わず声を上げた。


『きみねぇ! わざわざ弾かせといて、反応がそれだけ??』


『……感想、言わないとダメ?』


『普通はなんかしら言うでしょう?!』


 不服な瑠衣が苦笑いを浮かべて言うと、ライカは相変わらずの無表情のまま『うーん』と唸っていたかと思うと、不意に真っ直ぐな目で瑠衣を見上げ、口を開いた。


『おれ、瑠衣のピアノ好きだよ』


 まるで予想もしていなかった発言に、瑠衣は面食らった。

 人前でピアノを弾いたことは何度もあったし、それ対してのおまけのような褒め言葉なら、いくらでももらったことがあった。しかしそれを、好き嫌いというストレートな感情で表現されたことがなかったのだ。

 妙に照れ臭くなった瑠衣は、誤魔化すようにピアノの電源を落としてふたを静かに閉めた。


『なんか……どうかと思う、そういう適当なの』


 言い捨てると、瑠衣は彼に背を向けた。年甲斐もなく、正面からライカを見ることが出来なかった。



◇◇◇


「こんばんはぁ、お待たせしました」


 席に着きながら声をかけると、墨田はそっと微笑んだ。シルクハットを被っていても違和感がなさそうな白髪混じりの彼は、初老にも見えた。彼の年齢を瑠衣は知らないが、客でプライベートを積極的に語る者などいない。


「やぁやぁ、お久しぶりだね」


「本当にー。前に来てくださったの、三月じゃないですか? 嬉しいです」


 瑠衣の場合、ママとセットで接客しているせいか、彼女を指名するお客は落ち着いた常連さんが多い。それでも、出来るだけひとりになりたくない、とママにはお願いしてあった。それほど知識が深いわけでもないし、勢いで乗り切る初々しさも器用さも、瑠衣にはなかったからだ。

 いつものように上手く笑えているか分からないような顔で、ウィスキーの水割りを作りながら彼の世間話を聞く。相づち程度しか出来ない瑠衣なのだが、墨田はそれでいいと言う。


「瑠衣ちゃん、早速だけど、何か弾いてくれないかい? 曲はお任せするよ」


「えぇ。だけど……ご希望のものが弾けるでしょうか」


「大丈夫だよ。瑠衣ちゃんのピアノに不満を感じたことはないからね」


 休憩前にも演奏していた瑠衣は何だかピアノに触りたくない気がして苦笑いを浮かべるが、彼は柔らかく笑う。そう言われてしまってはもう弾くしかなかった。


「じゃあ、弾きますね」


 ピアノの前に座って目を閉じていると、ライカのあの "ピアノ、好きだよ" という声が耳に甦る。今までの瑠衣ならば、能動的に他人にピアノを聴かせたいと思わなかった。それなのに、またライカに何か弾いてやりたいと、気が付けば考えている。

 演奏を好きだと言われることで、こんな気持ちになるなんて、瑠衣は知りもしなかった。彼は他意なくお世辞でもなく、自分が奏でるピアノの音を好きだと言ったのだろう。照れ臭くはあったが、彼女もそのつもりで受け止めた。


 弾くひとと、聴くひと。そんな単純な間柄だ。だが、間違いなく瑠衣の指が作った旋律を、彼は真剣に聴いていた。瑠衣にとって、ライカは本当の意味での初めての観客だった。そんな関係が存在することに、瑠衣は初めて気が付いたのだ。


 目を開くと、小さく息を吐いた。墨田が好きな "バードランドの子守歌" を弾こうと思っていた彼女だが、指が勝手に別の曲を弾き始める。


 それは、ガーシュウィンの "サムワン・トゥ・ウォッチ・オーヴァー・ミー" だった。瑠衣はなぜだか今、そんな気分になっている。


 この店で働くにあたって、ジャズや古いポピュラーミュージック類の音源を借りて楽曲を覚えたのが、最近になってやっと活きてきた、と瑠衣は感じている。スタンダードと言われるものの中では、瑠衣はガーシュウィンのものが好きだった。歌詞まで聞く余裕がなかったため、完全に理解してはいないが、これは誰かに見つけてほしいと歌っているようだ、ということくらは瑠衣にも分かった。


 瑠衣は、見つけて欲しくて、この街に住んでいる。探し回っても見つからなかった、あの子に。だから、この曲が好きなのかもしれない、ぼんやりとそう思う。そんなことはもう、忘れかけていた。人生を変えてしまうほどの衝撃から、四年も経ってしまった。しかし、最近は前ほど虚しさを感じなくなっている。

 単純に時が経過したからかもしれない。瑠衣はただ過ぎる時間の中でそう思うことで、自分を納得させてきた。

 だが、ライカを家に招き入れてから、何かが変わった。彼が何でもない顔でそこにいてくれるだけで、瑠衣は救われているのだ。それに気付かないようにしているだけで。自分が彼を助けているのではなく、彼に助けられているのではないか、何となく、そんな気がしている。


 ──またあの子にせがまれたとして、なにか弾くなら、ガーシュウィンメドレーだな──


 演奏を終えた瑠衣は、立ち上がると一礼をした。それに気付いた客が何人かが拍手をしてくれる。たとえその拍手が、自分に向けられていると分かっていても、瑠衣の心が満たされることはなかった。疎らな拍手の中で、彼女はそれを噛み締めた。

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