第4話 姫と乙葉


 クローゼットの中で咲山姫さきやまひめは壁にもたれて静かな寝息を立てて死んだように眠っていた。金髪のツインテールをした彼女のその姿は、まるでクローゼットに仕舞われた西洋人形を彷彿とさせる。


 すると微かに聞こえた物音に彼女の体がビクリと弾けて目を覚ます。

 彼女の宝石のような碧眼には戸惑いと焦りの影が見え、暗闇の中で固まったまま息を殺して耳を澄ましていると、また微かに階段の軋む音が聞こえてきた。

 そして姫は確信した。

 どうやら寝ぼけているわけではないらしい。


「乙葉ちゃん起きて……」


 すぐ隣で自分の肩に頭を寄せて静かな寝息を立てていたポニーテールの栗本乙葉くりもとおとははに小声で話しかける。一つ年下で中等部に入学したばかりの乙葉は目を覚ますと、まだあどけない顔に人懐こい笑顔を浮かべた。


「姫先輩、おはようござ――」


 姫は彼女の唇に人差し指を押し当てて言葉を遮った。すぐに事情を察した乙葉の小さな身体がブルブルと震え始めて、姫にもその恐怖と緊張が伝わってくる。


 ――泣きたいのは私もよ。

 そんな弱音をつい口に出しそうになりながらも、足元に置いてあった出刃包丁をすがる様に握り締めた。


 いま自分たちがいるのは民家の二階のクローゼットのなかだ。階段を上がってくる音がすると言うことは、屍人よりも生きた人間というほうが確率が高い。


 何故ならば屍人は高低差が苦手だから。

 それがこの四日間のサバイバルで得た教訓であり知識だった。


 屍人は平坦な場所でも動きが鈍いが、それが階段や坂道になると更に動きは遅くなる。どうも死後硬直している間接や筋肉がうまく動かないらしい。

 だから仮の寝床もこうして二階の目立たないクローゼットの中にしたのだ。


 しかし、問題はあった。いや、もしかしたらより深刻な状況になったのかもしれない。

 階段を上がってくるのが屍人でないとしたならば、必然的に生身の人間ということになる。この民家に潜り込んだときに家の中に人は誰も居ないことは確認している。


 悲しい話だが、玄関のドアは無残に打ち破られていて一階の居間や和室には激しく争った跡と大きな血痕があったので、きっと家族の誰かが屍人になって残りの家族を襲ったのか、屍人の侵入を許してしまったのかのどちらかだろう。


 とにかく姫と乙葉は寝床を求めてこの民家へ辿り着いたときに、部屋中を歩き回って人も屍人も居ないことはチェックしている。

 玄関には壊れたドアの代わりに食卓や食器棚を運んでバリケードを作って、さらに亡くなった祖母から伝え聞いていたドーマンセーマンと呼ばれる星型の印と格子状の印を記した半紙が貼り付けてある。


 屍人がこの印を避けるというのも、この四日間である程度の確証を得ていた。

 勿論念には念を入れて、いま隠れている二階の洋室のドアには鍵もかかっている。

 少なくとも動きの遅い屍人ならば窓から屋根伝いに逃げる余裕は十分に取れる。


 しかし、もし人間だったとしたら……?

 それも男だったらどうする……?

 姫の頬を緊張の汗が伝っていく。

 四日前の出来事が脳裏に甦って、次第に呼吸が荒くなっていく。




 四日前――

 郊外の田園部にある第一さくら寮へ避難することとなり、第二さくら寮に住んでいた姫と乙葉、そして第三寮の高等部の生徒三名に教師の家族を合わせた計九名が、スクールバスで第一寮へと向かっていた。


 第一寮へは二十分足らずで到着するはずだったのに、道路は街から避難する人たちの車で溢れかえっていてどれだけ待っても動く気配を見せなかった。


 そして悲劇は起きた。

 やがて、霧のなかから暴徒と化した暴走族風の少年たちが現れてバットや鉄パイプで車の列に襲い掛かり、運転手や家族を集団でリンチしたり金品を奪い始めたのだ。


 その血と快楽と欲にまみれた狼の群れはすぐにスクールバスの存在に気付いて、下卑た笑みと血走った眼でバスのドアを壊して乗り込んできた。

 運転席に居た教師が鉄パイプで殴られながら、皆に向かって逃げろと言ったのを最後に、姫はそれ以降のことはよく覚えていなかった。


 霧の中を乙葉の腕を掴んで無我夢中になって逃げ回り、気が付くと路地裏に乗り捨てられた配送用のワンボックスカーのなかに居たのだ。

 その時に、寮から持ってきた祖母の形見である習字道具一式が入ったカバンをしっかりと持っていた自分を褒めてやりかった。


 そしてその車内で一晩を過ごしたが、姫はこの世が地獄に滑り落ちたのだと思い知らされた。

 車の中から沢山の屍人が徘徊するのを見かけ、沢山の悲鳴や怒号、泣き声を聞いた。


 時々、屍人は車体に身体をこすり付けるようにしてフラフラと通り過ぎていくことがあり、確実に車内に居る姫と乙葉が目に入っているはずなのに二人を認識出来ていない姿を見て、姫は祖母の話を思い出した。


 幼少時、寝る前の御伽噺として聞かせてくれた祖母の数々の知識。仏教や密教、道教の教えから悉曇文字や仏様の種類。ドーマンセーマンの魔除けの印もその時に教えてもらった。


 その中でも印象的だったのが、恨みながらこの世を去った人間が怨念の力で甦るという中国の妖怪キョンシーの話だった。

 動き回る死体を想像すると夜中に布団の中で丸まって震えることもあったが、キョンシーは人の吐く息の匂いに引き寄せられるので、キョンシーに出会った時には呼吸を止めてじっとしていればどこかへ行ってしまうという教えを思い出すと不思議と落ち着いた。


 得体の知れぬ化け物でも対処の仕方がある――

 その人の知恵というものの素晴らしさが恐怖を上回り、温かい安心感に包まれた。


 ドーマンセーマンも同じだ。

 人は化け物や妖怪と対峙しても決して無力ではない。

 ワンボックスの車内でそのことを思い出した姫は、祖母の形見の習字道具でドーマンセーマンの印を書いてワンボックスに貼り付けた。


 それからは不思議と屍人は車に近づくことはなかった。まるで見えない壁でもあるかのように、車から一メートルくらい離れたところを通り過ぎていく。


 そして朝を迎えると、霧の中を建物の壁伝いに第一寮を目指した。姫も乙葉も寮がある方角をなんとなく知っている程度で正確な場所は知らなかったが、今の二人には第一寮を目指すしか道はなかった。


 しかし霧の中を屍人を警戒して前に進むのにはかなり時間を要し、神経をすり切らせる行為だった。突如として目の前の霧から屍人がふらりと現れても、慌てずに呼吸を止めてじっとしていればやり過ごすことは出来たし、もしそれが間に合わなくて屍人が襲い掛かってきても、階段や坂道を使って逃げることで危機を脱することができたが、時間ばかりが経過してなかなか前へ進めなかった。


 それでも家人の居なくなった民家を見つけると仮の寝床として入り込み、鋭気と体力を養って少しずつ前へと進んだ。

 食料は民家に残されていたカップ麺やスナック菓子でなんとか賄えていたが、張り詰めた緊張感のためかそれほど空腹は感じなかった。

 もっともそれは姫個人に限った話で、一つ下の後輩は日に日に憔悴していくのが手に取るようにわかった。


 霧に紛れて道路の端を壁伝いにゆっくりと歩き、なるべく人気のない路地を選び、時には畑の中を横切り、側溝に降りて膝まで水に浸かりながら先を急いだ。


 姫と乙葉が無事に生き延びられたのは運もあるが、その運を引き寄せたのは祖母の遺してくれた知識であり、その知識を使うことが出来た姫の機転であり、自分たちがただのか弱い中学二年生と一年生の女の子であるという自覚からくる警戒心のおかげだった。


 白く蠢く不気味な霧は屍人を生み出したが、同時にか弱き二匹の子羊の姿を血に飢えた狼たちから隠してくれるという一面もあった。

 姫はそのことにいち早く気付いて、最大限に利用した

 それがここまで無事でいられた理由だ。

 そして、姫は理解した。

 血に飢えた狼は屍人ではなく、人間であると。

 人間の、それも男こそが狼だ。


 第二寮を避難することになったのも、寮内にイタズラや食料を求めて入り込んできた男たちが原因だったし、スクールバスが襲われたのも同じだ。

 姫はあの時の少年たちのギラギラした目を思い出してぞっとした。女の子をただの快楽のはけ口としてしか見ていない、ねっとりとした暗い目つき。


 そして今、階段をゆっくりと上がってくる足音は恐らく人間で間違いない。

 男か、女か。

 一人か、複数か。

 足音は階段を上りきって、隣の部屋へと入っていく。しばらく部屋の中を歩き回る音が聞こえたが、やがてまた廊下を出ると、姫たちのいる部屋へと向かってくる。


 ドアノブが動く音がするが、鍵がかかっていると知ってか一切の音がピタリと止んだ。

 ドアの向こうで何者かが息を呑んでいるのが、クローゼットの中に居ても手に取るようにわかった。


 乙葉がぎゅっと姫にしがみついてくる。

 姫も出刃包丁をきつく握り締めながら、このままどこかへ行ってくれと願っていた。


 しかし。

 突然ガチャガチャガチャガチャガチャと狂ったようにドアノブが回される音が鳴り響いたかと思うと、すぐさま激しくドアを叩きながら、


「おい、誰か居るのか、居るんだろ! カギ開けて出て来いやっ!」


 と、男の野太い怒声が聞こえてきた。


 その声が聞こえた瞬間、姫は弾かれたようにクローゼットから転がり出た。


「ここから逃げるよ、早く!」


 乙葉の手を引っ張ってクローゼットから引きずり出すと一目散に窓際へと駆け出す。


「――おい、ここに女が居るぞ! ビンゴだぜえっ!」


 ドアの向こうで男の興奮した声が叫ぶと、階下から歓声や口笛が聞こえてきた。どうやら仲間が居るらしい。

 弾むように階段を駆け上がってくるいくつもの足音と、ドアを狂ったように蹴り上げる音を背中に、姫と乙葉は屋根へと飛び出した。


 逃走経路はあらかじめ確認してある。

 二人は幼くか弱そうな外見とは別に、冷静沈着にそして素早い身のこなしで軒先の下に止まっている車の屋根へと飛び降りると、手を取り合って霧の中へと姿を消していく。

 それはまさに生存本能に突き動かされて平原を疾走する草食動物のような身のこなしだった。

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