101話 今と昔
ニーナとオルティラと別れた僕は、ある場所へと向かっていた。この学校のことを最もよく知る人物、ヘル・エンゲルス校長のもとだ。
昨日潜ったばかりの扉を三度叩く。何やら話し声が聞こえたが、取り込み中なら出直せばよいだけだ。どうやら教員と話していたようで、僕と入れ替わるように教員が出て行く。
少し緊張した面持ちで僕を迎えた校長は、腰を浮かせてソファーに座るよう促した。
「今日は、あの助手殿と一緒ではないのですね」
「ええ、彼には
働き詰めは身体によくないと冗談めかして言えば、ヘルは「重々承知しています」と何やら覚えがあるようだ。
校長室の隅に備え付けられた台所でお茶の準備を始める校長。子供を育てたことがあるというだけあって手慣れていた。
「校長室からは校庭が見えるんですね」
背を伸ばして窓の外を覗く。
無難な話題を選んだつもりであったが、存外それに引っ掛かったようで、校長は目元を緩めてから、
「今日は生憎の雨天ですが、天気のよい日は生徒たちが並んで体操をするのです。圧巻の光景ですよ」
「本当に珍しい校風ですね、この学校は。僕もいろいろな魔術系の学校を見てきたつもりでしたが、これほど『肉体』に重きを置いている学校はありませんでした」
「そうでしょうとも」
健全な精神は健全な肉体に宿る――聞けばその言葉は、ここ、ツィンクス魔術特育校の祖によって魔術と結びつけられたのだとか。
既存の思想が新規の思想と結びつく、あるいはその逆は珍しくない。それが魔術研究機関として世界に名を馳せるまで成長するとは、目を見張るものがあった。
正誤の問題ではない、考え方の問題なのだ。魔術一つ使うだけでも苦労をする人間界ならではの成長と言えよう。
なるほど、と相槌を打てば、ようやく机に
「ブドウ?」
「ええ。近頃の都会で人気のようで、取り寄せてみたのです」
「道理で。グラナトで嗅いだことがあると思いました」
ブドウ酒にも似た華やかな香りに甘さが混じる。香りが売りなのか、香り袋に詰めて売られていた覚えがある。
紅茶と、茶
「この学校には神族が出入りしているのですね。見かけましたよ、つい先程」
「……驚かないのですか」
「ええ、薄々勘づいていましたから」
『薄々』程度ではない、半ば確信めいていた。
というのもこの学校には、人間界を『中世界』と称する書物が多すぎる。一冊二冊程度ならば物好きが輸入したと見逃すところだが、十冊もあれば何者かの支援があったと推測するに安い。
「『中世界の魔力』、でしたっけ。蔵書にありましたが、あれは神族が書いたものですよね」
「…………」
「『中世界』は神界でよく用いられる呼称だったはずです。僕の記憶が正しければ。あの本は神界から輸入したものですよね」
「……ええ、そうです」
ヘル校長の相貌に、微かな緊張が走る。警戒心が強いことはよいことだが、随分と素直な人であるようだ。
別に責めるつもりはないのだが――と少し同情しつつも、言及を続ける。
「神界は閉鎖的だと聞きましたが、この国では交易が出来るんですね」
「人神戦争以前からこの国、エルツ共和国は神界と交流がありました。盛んであった頃に取引されたものでしょう。……今となっては、属国のような立場ではありますが」
かつては手と手を取り合っていたのです。そう語るヘル校長は、少し寂しそうだった。
魔術の分野において遥かに劣る人間界は、しばしば脅威にさらされた。神話の時代、つまりは世界が三つに分かたれていなかった頃のことである。
当時から人間界は、神界と魔界にとって不可侵の領域であり、同時に守護の対象だ。多分、ヒトがネコやイヌをかわいがるような感覚だったのだろう。
仲が良かった。支え合う関係だった。それゆえに今の関係は――傲慢の末に誇張した隷属は歪である。
「あなた方魔族と神族様との関係は存じております。偶然なのです、全て。ですから、リオ殿。どうぞご助力願います。もう少しだけ、我が校に滞在していただけませんでしょうか」
「その件について、僕も話そうと思っていました。ええ、話しましょう。ですから包み隠さず話してください。神族についてはこの際結構。代わりにこの学校、そして生徒たちについて」
■ ■
何も珍しいことではない。
〈変形の魔術〉で姿形を変え、窓の外から主人を見守るカーンの胸中は、ひどく静かだった。
久方ぶりに牙を剥いたあの瞬間こそ腸が煮えくり返るほどであったが、今となってはその激情すら恥ずかしい。己は――己だけは、彼の方の静を務めるべきなのに。
リオ。そう呼んで久しい少年は、何かと首を突っ込みたがる。俗っぽく言えば「おせっかい焼き」なのだ。それゆえに尊敬された時期もあるが、今この時だけは、それを利用されているに過ぎない。
神族。魔族にとって天敵とも言える、忌々しい種族。あれが姿を見せるだけでも
許し難い愚行であった。
――しばらく側仕えの任を解く。
――頭を冷やせ。
どちらがと吐き捨てたかった。人間恋しさに処刑台に身を委ねる馬鹿がどこにいる。捨て置けばいい、あんなもの。だが、それができないのも主人であった。
彼がどれだけ人間族を愛しているか、それはカーン自身がよく知っている。博愛なんて気色悪い代物ではない、ただ利己的に愛しているのだ。
はたり、と折り畳んだ翼に雫が落ちる。どうやら雨が降ってきたらしい。主人もそれに気づいたらしく、琥珀色の瞳がこちらを向く。
魔族と人間族の間を取り持ったのが彼だった。
人神戦争に介入すると言い出したのも彼だった。
英雄にひどく肩入れしたのも彼だった。
何も今に始まったことではない。だからこそ、カーンは納得がいかなかったのだ。
あの悲劇を、もう一度繰り返すつもりかと。己の努力を全て無に返すつもりかと。
ふと視線を感じて足元を見遣る。カーンが止まる木の麓に青年が立っていた。眼鏡を掛けた、薄汚れたな青年だ。
「失せろ」
黒い
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