37話 偽りの婦人

 プツリと紐が切れる。腕と尾ビレの拘束が解けた彼女は、水中を登っていく。


 暗い中、女魚人族の姿だけが、妙にはっきりと浮かび上がっていた。まるで彼女自身が発光しているかのように。


「ああ、残念。けれど丁度よかった。まどろっこしい茶番を見なくて済むもの。全く……応用は効かず、決断も遅い。手は早い癖に。困った男ね」


 呆れた様子のマリネラ。それに同意を示すハリ。さんざんな言われようのレヴァン王はというと、顔を伏せたきり、前を見ようとはしなかった。恥辱に耐え兼ねているのか、それとも恐怖に震えているのか、僕には判別つけ難い有様だった。


 その後ろに控えていた兵士達はさっと前へ出てきて、王を囲む。彼等の職務――王の護衛を遂行するべく、未だ静止したままの王共々後退を始めた。


 反対派の若者達も同じだった。漂う女性から距離を取り、各々武器を持ち上げる。


 そんな中、僕の目はマリネラに吸いつけられていた。彼女の様子、そして纏う魔力の調子。それが身近なものと似ていたのだ。


「〈変形の魔術〉か」


「御名答」


 形のよい唇が吊り上がる。


 〈変形の魔術〉――それは文字通り、自らの姿を変形させる魔術である。その性質から、相手の目を欺くための、いわば擬態の術として用いられることが多い。


 たとえば、僕達が始めてマリネラに出会った時、彼女には人間族や僕と変わらない二本の足があった。それを以って地上を歩行していた。それも〈変形の魔術〉の産物である。


 なぜ気付かったのだろうか。マリネラが海底都市への案内を受け持った時点で、彼女が件の魔術を使えることは明白だったのである。


 注意すれば、事が大きくなる前に見破れたかもしれないのに。僕は悔やむばかりだった。


「……まさか、成り代わったの?」


「成り代わった? ……ああ。マリネラはわたくしよ。この身体は最初から最後まで、私が用いていた器。それ以前に『スキュラのマリネラ』は存在しない。それは信用してもらっていいわ」


 うっそうと笑むマリネラ。その笑顔は、これまでの彼女から零れていた儚げなそれとは全くの正反対だった。しかし、美麗の形容は今で尚生きている。美麗は美麗でも、妖艶に近いだろうが。


「なるほどな」


 ふとハリが呟く。


「道理で見たことがない訳だ。親父が連れて来るまで、あんなスキュラがいると噂も聞いたことがなかった。騒ぎになりそうな顔つき、してんのにな」


 以前より「魚人族マリネラ」が存在し、その地位を、どこかの時期に魔術巧みな何者かが乗っ取った――ハリの言葉から推測するに、その可能性は幾分か薄れそうだ。マリネラは事実を口にしていると見てよい。


 ではなぜ、「何者か」は、これまで「魚人族マリネラ」として存在していたのか。


 僕は首に突き付けられたままの短刀を押し退けて、女性を見上げた。


「何が目的なの、マリネラ」


「ふふ、魔力の寵愛を受けし子。わざわざ解説せずとも、分かっているのでしょう」


「買い被り過ぎだよ」


「あら、そう?」


 マリネラはお道化た様子で目を丸めてみせる。


 分からないから訊いたのだ。なぜ彼女は、姿を偽ってまで僕達の前に現れたのか。なぜ今、その正体を明かそうとしているのか。


 そよぐ小麦のごとき髪が、やがて幾つかの束に纏まる。彼女の白肌には、黒い斑点が浮かび始めていた。〈変形の魔術〉が解け始めているのである。


「理解できないなら仕方ないわね。これで分かるんじゃないかしら?」


 なだらかな曲線を描いていた身体は膨れ上がり、装飾品が弾け飛ぶ。


 大地が震え、海が揺れる。


 淀む魔力が、清浄なる気配を穢す。


 その威圧は、立っているだけでやっとの程だった。


「リオ様!」


 聞き慣れた声が背後から聞こえてくる。僕が振り返ったのは、相棒が神殿から飛び出すその時だった。


 彼は以前の僕同様、柱に括り付けられて自由を奪われていた筈だが、どうやら自力で脱出したらしい。僕とカーン、それぞれの武器を握る手には、革紐にも似た縄が絡まっていた。


「リオ様、あれは――」


「マリネラだよ」


 〈変形の魔術〉を全て解いたマリネラは、長い身体をくねらせる。そして艶やかな息を吐き出した。


 黒く巨大な蛇。一言で表すならば、そのような容姿をしていた。


 口の両端からは、それぞれ一本の長いひげが伸び、艶やかだった唇はぱっくりと裂けている。腹にはムカデのような足が数多と並んでいた。


 その姿は魔物のようであり、同時に神殿の奥で眠る石像を彷彿とさせた。


「はは、うえ……そんな、まさか……!」


 唖然と見上げるスキュラの中で、ただ一人ヨアニスは悲痛の声をあげる。


 怪物となったマリネラはヨアニスに顔を向けると、その瞳――魚人族の姿であった頃と変わらない緑色の瞳を細めた。


「ああ、ヨアニス。可愛い息子。さあ、こちらへいらっしゃい。さもないと、母の術を食らってしまいますよ」


 その声は母そのものだった。それが余計に彼を惑わせる。


 揺れる青年。それを引き戻したのは、他でもない、彼の友人だった。


「騙されるな、ヨアニス。あれは化け物だぞ」


「しかし――あれは母だ。声も目も、母のままじゃないか! それなのに、それなのに……」


「面倒臭ぇ奴だな」


「お前と一緒にしないでくれ! 俺はお前のような不孝者じゃない!」


 二人の間に恐ろしく冷たい静寂が降りる。


 はっと息を飲んだヨアニスの顔は見る見るうちに青くなり、歪んでいく。それをさらに凍り付かせたのは、ハリの舌打ちだった。


「不孝者、ね……」


「あ……ち、違うんだ、ハリ。そういう訳じゃ――」


「何も違くねぇだろ」


 突き放すその言葉は、ヨアニスの狼狽をさらに強くした。


 ハリのそれは、友人を見放すものではなかった。それどころか、彼にとっての事実を受け止める、ただその程度のものだった。だが困惑の最中さなかにあるヨアニスには、それが届かなかったらしい。彼の目元には、じわじわと涙が浮かび上がっていた。


 このままでは友情が壊れる。そう判断した僕は何とか仲を取り持とうとするが、それを遮るかのように、澄んだ声が僕の脳を震わせた。


「リオ様。さあ、我が片割れの解放を。王もそれを望んでおります」


 片割れ。その言葉に、僕ははとする。


「まさかキミが――“黒の母”?」


 王にも若者にもその姿を語り継がせず、ただ一人、今は怪物となった女性のみが知っていた、スキュラのもう一人の母、“黒の母”。安寧を司るとされた彼女は実在していた。“白の母”の対として、確かに存在していた。


 しかし、それがなぜ今になって姿を現したのか。握りしめた拳の中に、じっとりと汗が浮き出た。


「キミが“白の母”を解放したいのは、片割れだから?」


「……半分、そうかしらね。もう半分は語る必要はない。そう、これ以上、姉さんを待たせることはできないもの」


 マリネラの周りに水の渦が生まれ始める。小さなそれがいくつも、大蛇を囲むように出現する。海に漂う者達が、強風に煽られる若木の如く揺れ始めた。


「もう一度言いますよ、魔族。“白の母”を解放しなさい。さもなくば、海に抱かれて死ぬことになるでしょう」


 その声はまるで諭すかのようだった。静かに優しく、それはしんしんと身体の奥底まで染み渡るようだった。魔性とは、まさしくこの事である。


 思わず生唾を飲む僕の視界に、すらりと三又の刃が入り込んできた。


 王の息子、ハリ。カリュブディス解放反対派の第一人者である青年は、厳しい目のまま槍を構え直す。彼の意志は、言葉を交わさずとも伝わって来た。


「やらせるかよ、爛れババア。肉親の解放ごときで、頭白子のクソ親父に取り入るなんて真似、する筈がねぇだろ。何が目的だ。テメェも富が恋しい口か、ええ? スキュラのオカアサマよ」


「富? ……ああ、そういうことになっていたのでしたね。“白の母”は豊饒、“黒の母”は安寧を司る、か。どちらも全てわたくしが授けていたものと知らずに」


「……何?」


「さあ、話は終わりです。どうしても動かないと言うのであれば、わたくしにも考えがあります」


 硬直していた場が動き出す。王は避難し、若者も衛兵も武器を持ち上げる。ある人は囚われの身となっていた魚人族を解放し、障害物を取り除く。


 ピリリと痺れるような空気が辺り一面に広がる。それに混ざって、ひどく淀んだ気配がどこかに芽吹いた。


 神殿の内部、石化した“白の母”のお膝元、そこに新たな敵の出現を確認したのである。


 カーンの手から僕の元へ、馴染んだ剣が渡って来る。僕達は本来、空気の中に生きる物だ。海中戦に手は出せない。ならば自ずと分担も決まってくる。


 僕はちらりと、相棒に目をやった。

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