第八十七話 王子とトカゲの娘
ヤルハは地下道を走っていた。
何度も後ろを振り返っては誰も追いかけてこないことを確認するが、ヤルハの幼い顔は不安で強張っている。
そして曲がり角を曲がろうとすると、その先から誰かが近付いてくる気配を感じたので、忍び足で静かに引き返した。
そのまましばらく通路を戻ると、今度は前方から誰かが歩いてくる姿が見えたので、ヤルハは咄嗟に脇道へ飛び込んだ。
しかしヤルハの小さな両足は、躊躇したようにその場で止まってしまった。
何故なら思わず飛び込んだ通路は、普段父親を始めとする大人たちに、絶対に近づいてはいけないと厳命されていたからだ。
だからヤルハは、この通路がどこに続いているのかを知らない。
それでも背後からは足音が接近するのが聞こえてくるので、仕方なしに先へ進まざるを得なかった。
未知の通路を恐る恐る進んでいくと、やがて両側にウロを栽培するための室が見えてきた。
しかし不思議なことに、どの室を覗いてもウロは栽培されておらずがらんどうになっている。
そしてある室に差し掛かった時に、ヤルハは小さな違和感を見逃さなかった。
幼いヤルハが感じた違和感。
それは匂いであり、空気だった。
地下道の湿ってかび臭い匂いの中に、からりと乾燥した風の流れと、それに乗って運ばれてくる地上の雑多な匂いが微かに含まれていた。
ヤルハは恐る恐る室の中へ足を踏み入れた。
貯光石もかがり火も焚かれていないので中は真っ暗で、物置として使用されているのか、奥には材木やトンネル工事のための道具が雑然と並べられている。
しかし外の匂いが混じった微かな風は、確かに奥から流れてくるので、ヤルハは一つ一つ物をどかして確認することにした。
そして壁に立てかけられていた板の後ろに、僅かに隙間があるのを見つけた。更に壁には大人一人が通れるほどの穴が開いているではないか。
ヤルハは一心に隙間に体をねじ込むと、壁の穴へと頭を突っ込んだ。
穴はなだらかな上り坂になっていて、三メルテほど先が微かに明るくなっているのが見えた。
明るいと言っても何か光が差し込んでいる訳ではなく、地下の闇よりも明るい地上の夜の暗がりと言うだけだ。
ヤルハは引き寄せられるように、その上り坂を上がってみる事にした。
行き止まりのところに丁度蓋をするように板が敷かれていたが、僅かな隙間から地上の夜の暗闇が差し込んでいるのが見える。
そっと板をずらして顔を出してみると、どうやらそこはどこかの倉庫の中らしく、壁の上のほうに設けられている窓から月光が差し込んでいた。
倉庫の中は木箱が幾つも詰れているだけで、人影は見当たらない。
貯光石もかがり火も焚かれていないので、今は完全に無人と思ってよさそうだ。
ヤルハはそっと穴から這い上がると出口を探した。
すぐに荷物を出し入れするための木製の大扉を見つけたが、施錠されていてビクとも動かなかった。
しかし扉の上半分は格子状になっているので、ヤルハはジャンプして格子に指を引っ掛けて外を覗いた。
場所はよくわからなかったが、通りの広さと人通りの少なさからして、どこかの裏通りであることは間違いないようだった。
「どうしよう……」
ヤルハはドアから飛び降りると、途方に暮れたように倉庫の中を歩き回った。
すると、積み上げられた木箱の山に程よい隙間があるのを見つけたので、吸い寄せられるようにしてその隙間に小さな体を押し込んだ。
こうすれば三方が囲まれているので前方だけに注意しておけばいい。
その安心感にヤルハの顔からようやく不安の影が薄らいだ。
そして膝を抱えて、一生懸命に頭の中を整理しようと努めた。
ヤルハは思い出す。
初めて白髪のヒト族の青年を、集落に連れて行った時のことを――
黄金聖竜の使いと名乗る彼が、次々と皆の病気と怪我を治して、広場は歓喜の熱狂に包まれたことを――
父親を始めとする大人たちが青年を取り囲んで、「ほかの集落の仲間たちも助けてほしい」と涙ながらにすがったことを――
そして青年はそれを快諾すると、大人たちと共にほかの集落へと向かった。
いや、大人たちだけでなく、ヤルハを始めとする子供たちも一緒になってその熱狂の列を追いかけた。
青年が地下の集落を回るたびに奇跡は起きて、熱狂の列は数が増えて距離が伸びた。
感動と興奮の熱気が、地下道全体に大きなうねりとして伝播していく。
同じ姿形をして、同じ心の形をした者同士が、同じ感情を共有して一体になっていく初めて味わう感覚に、ヤルハの幼い胸は雷に打たれたように震えて、頬を流れる涙が止むことがなかった。
これが母親が言っていたことなのだと、ヤルハは強く思った。
この光景を見られなかった母親が可哀相で、その分涙が余計に溢れたが、代わりにこの光景をしっかりと脳裏に焼き付けておこうと胸に刻んだ。
しかし幾つかの集落を回っているうちに、ヤルハは周囲の異変に気がついた。
いつの間にか行列の群集からは興奮した熱気が消え去っていて、ただ焦点のあっていない虚ろな目で前だけを見て、黙々と歩いていたのだ。
最後尾にいた筈の大勢の子供たちも、いつの間にかヤルハを始めとする数人だけに数が減っていた。
ヤルハは厭な胸騒ぎを覚えて、すぐ前を歩く大人の一人に声を掛けようとした。
しかしヤルハの口から言葉が発せられることはなかった。
何故ならばその声を掛けようとした大人が、先ほどまでヤルハの隣を歩いていた筈の、同じ集落の幼馴染のセイブンだと気がついたから。
セイブンはヤルハより三つ下の男の子で、頬には生まれついてのアザがある。
更にそれを消そうとして、自分で火を押し付けてできた火傷もあり、その特徴的な形の痕をヤルハが見間違うわけがなかった。
しかし自分よりも頭半分低い背丈のはずのセイブンは、いま目の前で二メルテ近い筋骨隆々の逞しい肉体を持った青年として歩いている。
それも感情を失くしたガラス玉のような瞳で――
ヤルハの脳裏に、マキナが匿ってくれた家の住民の姿が思い起こされた。
彼らも魂の抜けた人形のようにマキナに服従していた。
もしかして自分は取り返しのつかない、大きな間違いを犯してしまったのではないのか――
その時初めてヤルハは、自分が村へ呼び込んでしまったものの邪悪さに気がついて、その小さな体はバラバラになって崩れ落ちてしまいそうに震えた。
そして気がつけば、地下道を一人で駆けていた。
どこにも行く当てもなく、ただその場から遠ざかりたい一心で……
ヤルハが木箱の間で膝に額を押し付けたまま、これまでのことを頭の中で整理していると、突然大扉が開く音が聞こえてきたので、その小さな体が硬直した。
倉庫に入ってきたのは六、七人の大人たちだった。
彼らは大扉を閉めた後も灯りを点けようともせずに、暗闇を見回しながら何やら話している。
ヤルハは息を殺して、その会話に耳を傾けた。
「……やはり、ここも物資はそのままか……」
「……どの倉庫も物資に手が付けられていないのは、さすがにおかしくはないか……」
「……ヴォルティス側の手が回ったのだろうか……」
「……いや、私たちの行動は向こうに筒抜けだった。だからこそ父上を通じて牽制してきたのだ。その上さらにリザードマンたちにも、直接脅しをかけるとは到底思えない。いや、そこまで非道な男とは思いたくない……」
「……どちらにせよ、我らの援助は今夜をもってしばらく打ち切りになります。そのことを直接彼らの長に謝罪しなければ……」
「……それも大事だが、間者の情報では昨日郊外の古代遺跡で囚われたのは、やはりステラヘイムの第一王女と、その従者たちで間違いないとのこと。王子には今はリザードマンよりもステラヘイムとのパイプを、何としても築いてもらうことを優先してもらわねば。そうすれば我らの革命も……」
いつの間にかヤルハは木箱の隙間から抜け出して、彼らにより近い場所の物陰に潜んで聞き耳を立てていた。
彼らは窓から差し込む月明かりの中でも、ローブのフードを被っているので顔はよく見えなかったが、話の内容からしてリザードマンを支援してくれているらしい。
もしかしたら彼らに助けを求めれば、父親を始めとする皆は正気に戻るのではないのだろうか……
ヤルハが物陰で葛藤に揺れていると、いつの間にか背後に一つの人影が回りこんでいて「動くな!」と、迫力のある声で凄まれた。
「――子供でした。しかもリザードマンです」
と、男はヤルハを仲間たちの元へと引っ張っていく。
ヤルハは突然のことで恐怖で体が硬直して動かない。
そんなヤルハを見て、仲間たちのうちの一人がフードを巡り上げると満面の笑みで駆け寄ってきた。
「おおっ、リザードマンの――!? しかも女の子か! 可哀相にこんなに怯えているではないか! ハイネス、すぐに離してあげなさい!」
そう言って怯えるヤルハに近付いてきたのは、イヌミミの青年だった。
長い耳が両側に垂れ下がっていて、顔や体の一部を覆っている体毛は真っ白でさらさらとしていて、窓から差し込む月の光を受けて淡く輝いていた。
その見るからに清潔で高貴な身なりをした青年は、まだ恐怖と不安で固まっているヤルハの両手を掴んだ。
そして小さくて細く薄汚れたヤルハの両手を見て、ぼろぼろと大粒の涙を流した。
「私がルード家の王子アトレオンだ……。本当にすまぬ……! 私と父上が不甲斐ないばかりに、お前たちリザードマンだけにこんなにもひもじい思いをさせて本当に申し訳ない……! どうか、こんなに頼りない王家でも許してほしい……!」
「王子……? アトレオン王子……様……?」
ヤルハがその名前の響きに、希望を感じたのはいつだったろうか。
あれは確か幼少の頃。
いつもヤルハが眠りにつくまで、毎夜母親が聞かせてくれた夜伽話の数々。
その中に登場する獣人族のアトレオン王子は世界中を旅していて、氷の国で悪い
そして物語は、いつもこの言葉とともに結ぶ。
「アトレオン王子が冒険から帰ってきたら、次は私たちリザードマンを地上へ戻してくれるのよ。だから今はどんなに苦しくても挫けてはだめなの。だって私たちは、みな黄金聖竜様の産子。姿形がどんなに違っても心の形が同じなのだから、いつか誤解は解けて、ヤルハも地上で暮らせるようになるのよ」と――
ヤルハはアトレオンの顔をまじまじと見上げながら、母親が嘘を言っていなかったことを知って、胸に温かいものがこみ上げてくるのを感じた。
いつの間にかヤルハの両目からも、大粒の涙が止めどもなく流れ落ちていた。
「アトレオン王子様が冒険の旅から戻ってきてくれて嬉しいのです……! お母さんの言葉は本当だったのです……! お母さんはずっと…希望を捨ててはだめと言っていたのです! だから……!」
ヤルハの言葉に、アトレオンと仲間たちが困惑した複雑な表情を浮かべていると、突然大扉が轟音とともに吹き飛んで、
「――アトレオン王子とその一派よ! 貴公たちはステラヘイム王家と共謀し国家転覆を企てたとして、ヴォルティス王より捕縛命令が出ている! 大人しく従うのならば良し! 抵抗するならばこの場で斬り殺されることになるがよろしいか!?」
「よろしいわけあるかボケ!」
そう吐き捨てて兵士たちに向かって
ハイネスは剣を振り上げながら、次々と仲間たちに指示を出した。
「カーファとネスは俺と残れ! 後は王子を連れて隠し扉から外へ逃げろ! ヴォルティスの動きが予想よりも早い! 王子、今夜が分水嶺ですよ! 今夜の動き次第で、後の歴史の流れは決まる……!」
「わかってる! ハイネス、必ず生きて戻ってくれ! 隠れ家で待っているぞ……!」
従者たちに連れられていくアトレオンは、残されたままのヤルハに気がついて何やら叫んでいたが、その姿はあっという間に、木箱の山の向こうへと消えてしまった。
ヤルハもすぐにその後を追いかけようとしたが、鎧姿の兵士たちが追いかけていく後ろ姿を見て、思わず進路を変えた。
そして無我夢中で木箱の山の間をすり抜けていくと、大扉の前へと躍り出た。
傍らではハイネスたちと兵士たちが剣を交えていて、誰もこちらを気にしていない。
ヤルハは思い切って外へ飛び出すと、闇夜に紛れて石畳の道をあてもなく駆け出した――
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます