第六十四話 金の波銀の波
ごぼこぼと泡が上がっていくのが見えた。
その泡を必死に追いかけようとしている、幼い小さな両手も見える。
これは誰の腕……?
俺の腕なのだろうか……?
水面が遠ざかっていく。
体がゆっくりと沈んでいく。
すると目の前に白い飛沫が巻き起こり、次の瞬間、俺は何者かに抱きかかえられていた。
その男の人は俺を抱えたままどこかに向かって走り、大きな声で何かを叫んでいる。
いつの間にか俺はどこかに寝かされていて、大勢の大人が俺を取り囲んでいた。
その人の輪を掻き分けて誰かが姿を現した。
ああ、母さん。どうしてそんなに泣いているの?
父さんも何故大人たちに頭を下げて回っているの?
それにしても二人とも若いなあ……
気が付くと、目の前には透き通るような青い空が広がっていた。
ここがどこかはすぐにわかった。グランドホーネットの甲板だ。
今のは夢……なのか?
それとも俺の記憶……?
どうやら海を眺めているうちに居眠りをしてしまっていたようだが、俺はなかなか起き上がる気になれなくて、今見た夢を反芻していた。
夢というにはどこか現実的で、昔の記憶というにはまったく思い当たる節がなく、どこか懐かしくもあり息苦しくもある不思議な感覚を味わったまま、澄み渡る青空を見上げていた。
すると、
「ターイーガ!」
と、愛くるしい声とともに、エマリィの顔が俺を覗き込んだ。
「もう少しで陽が沈むから、こんな所で寝てると風邪を引くよ。うん? どうかしたの……?」
「いや別に。なんか変な夢を見たから、ちょっと考え事してただけ……」
「でも、タイガ泣いてる……」
エマリィにそう指摘されて、初めて自分の頬が涙に濡れていることに気がつく。
その事に自分自身でも動揺してしまい、慌てて起き上がると涙を拭く。
「あ、あれえ!? なんだこれ、ハハ……!」
と、誤魔化してはみるものの、エマリィはどこか思いつめたような表情でじっと俺の顔を覗き込んだ。
「タイガ、もし何か悩みがあるのなら、ちゃんとボクに話して。頼りないかもしれないけど、ボクは力になりたいから……」
「い、いや、本当に悩みとかないから! そうだ! もしかしたらエマリィのお祖父ちゃんを見たからかな!? なんか俺の両親が夢の中に出てきたんだよ。それが二人ともすごく若くてさ。それで俺はすごく幼くてどうやら溺れているみたいで……。とにかく変な夢だったから、ちょっとその……」
それを聞いたエマリィはふと真顔になって体育座りで座ると、少し言い難そうに口を開いた。
「や、やっぱり、元の世界へ帰りたいって思うの……? そりゃそうだよね。家族と離れ離れになってるんだもの。帰りたいのが普通だよね……」
「ホームシックってこと……?」
エマリィにそう聞かれて、俺はしみじみと考えてみる。
今見た夢は、やはり元の世界へ帰りたいという願望が見させたのだろうか?
それにしては何か違うような……
むしろあれは俺が覚えていないだけで、実際の記憶なのではないのか。
覚えていないのは、俺の年齢が幼すぎたとかそんなところではないのか。どうもそんな気がする。
そして波の音を聞いて居眠りしているうちに、忘れていた記憶が甦ったとかそんなところではないのだろうか。
どちらにせよ、身に覚えがない限りは両親に確認するしかないが、二人に会えないのだから確認のしようがない。
しかしそれよりもエマリィに言われるまで、ホームシックという概念も感情も忘れていたってどうなんだ俺。
それはちょっと人として薄情すぎないか俺。
確かに異世界転移という、世界中の宝くじが同時当選するよりもラッキーな現象に遭遇して、更に大好きなゲームのアイテムが具現化して好き放題に使えるなんて、屁をこいたらビッグバンが発生してしまったような天文学的な確率だと思う。
だからと言って、今の今まで両親のことをすっかり忘れていたり、元の世界へ帰りたいとか、学校の皆はどうしてるだろうかと、今まで一ミリも考えなかったって人としてどうなの?
いや弁明させてもらうが、それらについて思いを馳せた夜がなかった訳ではない。決してだ。一ミリくらいは考えた記憶がある。
ただこの異世界での日々が、エマリィが隣にいて、好きなだけ
だから決して元の世界について考えなかった訳ではないのだ。
決してだ。
しかしこの事をバカ正直にエマリィに打ち明けると、人でなしとか鬼畜とかゲーム脳とか散々なことを言われそうなので黙っておくことにしよう。
ただてさえ俺とエマリィは今大事な時期なのだ。
ここは慎重に。
慎重に行くんだ俺!
「ふ、ホームシック……? これがそうなのかな……」
俺は渾身のニヒルな笑みを繰り出してうな垂れた。
しかもいい感じに二つの太陽のうちの一つが水平線に消えかかっているではないか。
ロマンチックなトワイライトタイムが、俺の全身から漏れ出している哀愁を何十倍にも高めてくれているはず。
まるで大自然までもが俺に味方してくれているようなこのグッドタイミングに、きっとエマリィの平らな胸もきゅんきゅん鳴きまくっているに違いない。
しかし、この神通力も大天使様には通じなかったのか、
「――タイガ、初めて会った頃よりも随分と髪が伸びたよね?」
と、斜め方向の発言をするエマリィ。
俺が落胆混じりに困惑していると、エマリィは
「ボクが切ってあげるからじっとしてて――」
「あ、はい……」
何だか照れ臭かったが別に悪い気もしないので、言われるままに大人しく彼女に頭を預けた。
シャッ、シャッ、シャッと小気味よい音とともに、エマリィは手馴れた手つきで俺の髪を二、三センチずつ切り揃えていく。
「そう言えば、この世界って床屋ってあるのかな? ダンドリオンでは見なかった気がするけど」
「床屋? 床屋ってなに?」
「床屋は髪を切るお店のことだよ」
「へえ、タイガの居た世界ではそんなのがあったんだ。こちらの世界では髪は家族が切るんだよ。それが普通で当たり前。昔から髪を切ると運命が変わるから、他人に切らせてはダメと言われているの。だから家族が切ってあげるんだ。不幸なことが起きませんように。運命がいい方向へ変わりますようにって念じながら……」
「じゃあ家族が居ない人とかは……?」
「そういう時は大事な人や友達かな」
「そっか……」
俺はなんだか言葉じゃ言い尽くせない幸せを噛み締めていた。
込み上げてくる感情の塊に戸惑いつつ、必死に揺れる波を見ていた。
夕焼けを浴びて金や銀に輝く波は、この世界の美しさを表していて、俺はこみ上げてくる郷愁だとか愛情だとかのいろんな感情のせいで、柄にもなく本当に泣きそうだった。
そして「はい、終わり」と囁くような声とともに、この至福の時間は過ぎ去り、俺が振り返って礼を言おうとすると、エマリィは切り取った俺の髪を一房掴んで治癒魔法をかけるところだった。
エマリィの手の中にあった二、三センチの髪の集まりだったものが、治癒魔法がかかることによって数十センチの数本の髪の毛へと変わった。
「それ、どうするの……?」
「こうして切った髪の毛を他人が身に着けておけば、その人にに降りかかる筈だった不幸は、道に迷って消えると言い伝えがあるの。だから、ね」
「あ……」
金の波と銀の波を背景に、俺の髪を自分の三つ網に編みこんでいくエマリィ。
そのはにかむ笑顔が美しくて、愛おしくて――
時間よとまれ。
心からそう願った。
前略
父上様母上様。
不肖の息子ではございますが、こちらの世界で元気にやっております。心配はなさらないでください。
もしそちらの世界へ帰ることが出来たなら、その時は小さくて可愛い魔法使いのお嫁さんと子供を十人くらいは見せられそうです。
それではお体に気をつけてください。
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