幕間 姫王子の憂鬱

 私の記憶の中にある、もっとも古い母親の顔は、複雑な笑みを浮かべていた。

 口許は笑っているが、瞳の奥には明らかに落胆の色が見て取れる。

 それを悟られまいと取り繕ったような、仮面のような笑みだ。


 思い返せば、母はいつもそんな笑みで、私を見守っていたように思う。

 誕生日の時、散歩の時、食事の時、お茶会の時、ベッドで眠る時――

 私がその笑みの意味に気付いたのは、いつだっただろうか。


 もし知らないままだったなら、私の人生は違ったものになっただろうか……


 八歳の時に、騎士団を作りたいと父に申し出た。

 父は満面の笑みを浮かべて快く了承してくれて、側室の母を持つ二人の異母兄たちも、指揮官としての心構えや副官の選び方などを助言してくれた。

 そんな中で母だけは、いつもの笑顔を浮かべているだけで何も言わなかった。


 でも、私にはわかっていた。

 母が落胆していたことを。

 私の選択を快く思っていないことを。


 しかし私には、どうすれば母が心から笑ってくれるのかわからかった。

 だからせめて自分の騎士団を強くしようと思った。せっかく作ったのだから、二人の兄の騎士団と肩を並べるくらいの力と名声が欲しかった。

 そうすれば、もしかしたら母も喜んでくれるかもしれない。


 もし、もう少し違ったやり方を思いついていれば、私の人生はもっと違ったものになっただろうか……


 十歳の時、王都の郊外にはぐれ竜が現れたことがあった。

 空竜スカイドラゴンは、普段は季節ごとに大陸を縦断して海を渡っていく。

 滅多に人里には近付かないが、たまに群れからはぐれた個体が人里に近付く。

 これがはぐれ竜と言われる所以だが、どうしてそんな行動を取るのか、その理由まではわかっていない。

 もしかして、ドラゴンでも人恋しくなるのだろうか。


 当時は隣国のロズニアおよびヴォルティス連合王国と紛争中ということもあって、兄たちの騎士団は出兵中だった。

 前線ではまだ戦闘は起きておらず、両国の代表団が解決に向けて交渉中で、いつ戦争に発展するのか予断を許さない状況だったので、その為に私の騎士団がはぐれ竜討伐に赴くことになった。


 突然降って湧いた初陣に、私の胸は熱く高鳴った。

 もし初陣で見事な功績を上げることが出来たなら、母も笑ってくれるかもしれない。

 勿論父の計らいにより前線にいる兄たちの騎士団から、数名の使い手が応援に来てくれていたし、父にも決して無茶はするなと厳命されていたが、私の逸る気持ちは抑えられなかった。


 そして、初めてはぐれ竜と対峙した。

 その空竜スカイドラゴンは全長十五メルテメートルほどで、成獣に成りたてのようだった。

 しかし長い首や、巨大な羽や、全身を覆う土色の鱗は、とても立派なドラゴンそのもので、神々しくもあった。


 私は、初めて目の当たりにしたその威容に言葉を失っていた。

 だけど不思議なことに、恐怖は微塵も感じていなかった。

 そして私が正に号令をかけようとした、その瞬間――

 はぐれ竜は大きな翼をはためかせて、南の空へと飛び立ってしまった。

 一度も私を見ることもなく。

 一度も私の騎士団を振り返ることもなく。

 はぐれ竜は気まぐれに空の向こうへと消え去ってしまったのだ。

 私が振り上げた剣は、飛び去っていく空竜スカイドラゴンの後ろ姿を映していたが、その刃が土色の鱗に触れることは、ついに敵わなかった。


 もし、あの時はぐれ竜を討ち取ることが出来ていたならば、私の人生はもっと違ったものになっていただろうか……


 王都へ戻ってからは噂だけが一人歩きをして、私の虚像を大きく派手に彩った。

 人々は私のことを姫王子と呼び始めて、黄金聖竜様のご加護を受けていると賑やかに喧伝した。

 私にそれらの噂を否定して回る術はなく、日に日に私自身とかけ離れて大きくなっていく虚像に戸惑いながらも受け入れるしかなかった。

 それでも父は相変わらず優しかったし、兄たちも良い手本だった。

 ただ母のため息をつく回数だけが増えていった気がする。


 そして、いつしか私は自ら進んで虚像を演じるようになっていた。

 今思えば、それは女として生まれてしまった自分自身への怒りであると同時に、それでも何とか母の期待に応えたいと思う、出来る限りの悪あがきだったのかもしれない。


 私は王子にはなれない。

 ならばせめて姫王子として生きれば、いつか母は心の底から笑ってくれるのかもしれない。

 そんな祈りにも似た願いから生まれた、歪で、愚直な、振る舞い。

 それでも私は真剣だった。真剣だったのだ。

 姫王子を演じれば、演じ続けていれば、その先には私が求めるものがあると思い込んでいたのだ。

 はぐれ竜を討ち取ることが出来なかった私には、もうそれしか道が残されていなかったのだから。


 もし、私が姫王子という虚像を演じなければ、私の人生はもっと違っていただろう。

 でもそれは同時に、母が心から笑ってくれることを諦めてしまうことを意味していた。

 いや、違う。

 私は本当に母の笑顔を見たかったのだろうか。

 いつからか、母の眉間の皺を見る度に、暗い喜びに胸が疼いていなかっただろうか。

 私は最早姫王子を演じることが止められなくなっていた――


 そして、私はこれまでの価値観が全てひっくり返る体験と出会いをした。

 そう。叫ぶものスクリーマー討伐と、稀人マレビトとの出会いだ。

 稀人マレビトを率いるのは、タイガ・アオヤーマという年下の少年だった。

 黒い髪と黒い瞳を持った、夏の嵐のように荒々しい不思議な魔法を駆使する少年。


 彼が我々ヒト族が長年忌み嫌い、畏れていた魔族を難なく打ち破ったのを見た瞬間、私の中で何かが弾けた。

 稀人マレビトと言う存在を通して見るこの世界は、余りにも大きく広大で、そしてそこに住む自分は余りにもちっぽけで、矮小な存在に過ぎなかった。


 はたして私は何のために生まれてきたのだろうか。

 はたして私は何のために生きていくのだろうか。

 少年の登場と存在は強烈に私の心を揺さぶり、私の心の中に長い間沈殿していて、もう自分でも忘れてしまっていた感情の数々を思い出させてくれた。


 私は母を愛していたが、母の所有物ではない。

 母が心から笑ってくれないのは、私の問題ではなく、彼女の問題にすぎない。

 その問題に翻弄されて、ただ時間を浪費していくことは、私にとっても母にとっても幸せなことでは決してない。

 こんな簡潔な答えに辿り着くまでに随分と遠回りをしてしまったものだが、ここからでも十分やり直せる筈。

 私がこれまで歩んできた道は、余りにも退屈で、窮屈で、抑圧されていたとしても、これから歩む道までもが同じだとは限らない。

 歩いていくのは私自身の足であり、行き先を決めるのは私の心だけなのだから。


 稀人マレビトの少年は夏の嵐そのもだった。

 私の心に一陣の強烈な風を吹き込んだ。

 やがて嵐は何事もなく遠くへと去っていくのだろう。

 きっとあの日の空竜スカイドラゴンのように。

 そして嵐が過ぎれば、またいつもの日常が戻ってくる。

 私はまた手を拱いて嵐が遠ざかっていくのを、ただ見送るだけなのだろうか。

 否。

 だからこそ、私は決心した。

 この決断をしなければ、私の人生はいつまでも変わらないだろうと気がついたから――

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