第二十九章 アローンの杖 -9-
エーストライヒ公の戦死で、事実上戦いは終結した。
報が伝わるや、ポルスカのマゾフシェ公は速やかに撤兵していった。
引き際の鮮やかさは、公の指揮能力の高さを示している。
あのおっさん、油断ならない人だったしな。
次に退却したのが、マジャガリーのニトラ公の軍だ。
マジャガリーもポルスカも、正確には帝国の一部ではない。
別の国である。
帝国のために兵を損耗する気は、元から薄いだろう。
エーストライヒ公国軍と、カランタニア公国軍だけが、まだ残っていた。
特にエーストライヒ公国軍には、シュヴァルツェンベルク伯が指揮していた若手の騎士たちの部隊がある。
彼らは熱烈なエーストライヒ公支持者であり、公を討ち取った我々を許すまいと包囲の輪を作ろうとしていた。
力を使い果たしたぼくらには、その重包囲を突破する余力はもうなかった。
クリングヴァル先生は、まだイシュバラ相手に熾烈な戦いを繰り広げている。
エスカモトゥール先生はもう動けず、隣でストリンドベリ先生が血塗れになりながら斧を振るっていた。
「──学長、どうしますか」
ぼくでは、この状況を打開できない。
何とかしてくれるとしたら、
そう思って学長を見ると、白いひげを撫でながら学長は笑っていた。
「慌てるでない、アラナン。わしらは勝ったのじゃ」
ぼくとしては、そんな言葉よりも具体的な方策を聞きたかったのだが──。
だが、そのとき、ぼくの耳をつんざく軽快な音が響き渡った。
心を沸き立たせるようなラッパの音。
これは──エーストライヒ公国軍のものではない。
何ごとかと視線を巡らすと、北から黒一色の騎士団が突入してくるのが見えた。
あれは──。
帝国最精鋭。
ハンスも、一緒に来ている。
いや、その後ろには──。
ノートゥーン伯ら学院の高等科生も続いていた。
「ハンス! それに、マリーに、ジリオーラ先輩も!」
プラーガに向かったジリオーラ先輩が、此処に到着している。
どれだけ急いだのだろうか。
みな憔悴し、それでも目だけは異様に輝いていた。
「戦闘をやめい! ボーメン王のお出ましじゃ! 次の皇帝陛下が誰になるか、わからぬ者はもうおらぬじゃろう!」
戦場に学長の声が響き渡る。
紛れもなく、ボーメン王家たるリンブルク家の紋章だ。
その声に戦意を挫かれたか、戦場から投降と逃亡が出始めた。
敵せずと見たか、ヴァイスブルクの猛将カランタニア公も遁走した。
そして、この男──。
アセナ・イシュバラも戦いを止めていた。
イフターバ・アティード亡き今、彼が戦いを続ける理由もなかったのだろう。
「しゃーねえだろ。あれでもじじいの息子だからよ」
イシュバラを見逃したクリングヴァル先生は、顎をそびやかしてうそぶいていた。
「勝負はおれさまが勝っていたんだ。
家族は失ったものだと
少なくとも、彼の妻と息子を殺したぼくは、恨まれていそうではあるのだが。
なんにしても、姿をくらませたイシュバラを追うのは難しく、またそんな余裕もなかった。
その間に、
体が重かったので、ぼくは彼らとは離れて座り込んでいた。
戦場はもう静かになっていて、あらかたの敵は逃げ去っていた。
一部の騎士が身代金目当てに追撃していたようだが、ぼくらはそんなことには興味はなかった。
「アラナン、無事だったか」
ノートゥーン伯が、兜をかぶった女性兵士と一緒に歩いてきた。
「偵察任務に行ったきり帰ってこない。大分、あの二人が怒っていたぞ。それに、弟子のことも放置しっぱなしだろう。わたしが面倒見る羽目になったじゃないか」
弟子──?
言われて見上げると、女性兵士が兜を外して小脇に抱え、一礼した。
見覚えのある謹厳そうな顔は、イザベル・ギーガーのものであった。
「イザベルじゃないか。もう着いていたのか」
「それ見ろ。すっかり、弟子のことなど忘れている。薄情な師を持ったものだな、ギーガー」
「いえ、わたしが勝手に追いかけているだけであります、
イザベル・ギーガーからは、戦場帰りの兵士らしい隙のなさが漂っていた。
中等科生の試合を見た頃の甘さが消え、常に八方に気を配っている。
マジャガリーの騎馬隊との戦いに加わったのだろうが、それにしても長足の進歩だ。
実戦こそ人を鍛えるというのは、本当なんだな。
「それより、エーストライヒ公を討ったというのは本当か、アラナン。戦いは、これで終わりなんだろうか?」
「うん。学長と
「そっちも優勢らしい。エーストライヒ公が死んだと知れば、講和になるだろう。ヴァイスブルク家がこのまま大人しく引っ込んでいるとは思えないが、当面ボーメン王の皇帝即位を妨げる者はもういないだろう」
そっか。
それを聞いて、どっと力が抜けた。
思ったより、消耗していたようだ。
なんと言っても、アローンの杖の
並みの人間なら、塵になっているところだ。
「もう、アラナンを見つけたなら連絡をくれてもいいじゃない、
油断したところに、マリーの怒った声が突き刺さった。
いつの間にか、目の前でマリーがぼくを見下ろしている。
最近、マリーの
気を抜いていたとはいえ、ぼくの感知を潜り抜けるんだから。
「また、一人で無茶をしたのね。もう、学長も先生も付いていながらどういうことよ!」
マリーがぼくに手を当てて使ってきたのは、紛れもなくファリニシュの魔法だった。
前から習っていたのは知っていたが、驚くことにかなり上達している。
無論、
それでも、焼けただれた腕の皮膚が綺麗に治りつつあった。
「驚いた。腕を上げたな、マリー」
「もう。誰かがちょっと目を離すとすぐ死にかけているんだから、必死に覚えるしかないでしょ」
マリーの手から温かい感覚が身体中に拡がっていき──。
そして、ぼくはいつの間にかうとうとと眠り込んだ。
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