第二十五章 無音の暗殺者 -10-
人生の達人とはなにか。
そんな深遠な命題を考察するほど、ぼくの精神は知的ではない。
せいぜい、格好いい大人というと、レオンさんかなあと思う程度だ。
クリングヴァル先生は武術の師としては尊敬しているが、人生の師には不向きだしな。
レオンさんを見習うとしたらどうすればいいのか。
煙草でも吸えばいいのか?
そんな益体もないことを考える程度には、ぼくも混乱していたらしい。
マリーさんの出した課題、ぼくには難易度高そうなんですけれど!
さっさと行けと言いたげにマリーが睨んでくる。
心の準備が欲しいのに。
でも、ぐずぐずしているとマリーの視線がファリニシュの魔法並みの温度になりそうだ。
仕方ない。
出たとこ勝負だ。
事前に策を考えることもできぬとは。
ぼくは無策で戦うの好きじゃないんだけれどね。
席を立って、ジリオーラ先輩のテーブルに向かう。
先輩もちょうど食べ終わって、立ち上がろうとしているところだった。
タイミングとしては悪くないか。
「先輩、ちょっと時間いいですか?」
もちろんやんか。
うちがアラナンに時間割かへんはずないで。
今までなら、こんな返事が返ってきただろう。
ジリオーラ先輩は申し訳なさそうに唇を結ぶと、右手の指に髪の毛をくるくると巻き付けた。
「堪忍な。うちまだ出発の準備が終わってないねん。急ぐからまた今度誘ってや」
まさかの返事に、どう返していいか思い付かない。
ぼくは戦闘技術の英才教育を受けてはきたけれど、女の子との会話術を習ってきたわけじゃない。
マリーさん、やっぱり無茶振りなんですけれど!
「いいじゃないか、ジリオーラ。わたしはお前に男性からの誘いを断るなんて教育をした覚えがないよ。
援護射撃をくれたのは、エスカモトゥール先生だ。
ジリオーラ先輩も、先生にそう言われると反発できないようだ。
流石、女生徒から絶大な人気を誇るエスカモトゥール先生。
ジリオーラ先輩が立ち上がってぼくの方を向くと、その背中越しにウインクをひとつ。
大人の女の所作って感じだな。
先輩と連れ立って向かったのは、宿の中庭だ。
みんなに見られて恥ずかしいが、先輩が言うように出発まで時間がない。
そんなに遠くに行くわけにもいかないのだ。
「で、何の話やねん。うちも時間ないよって手短に済ましてや」
何気ない先輩の一言で挫けそうになる心を、必死に支える。
普段好意を向けられている人からの冷たさは、ちょっとこう心にくるものがあるな。
「大丈夫ですか、ジリオーラ先輩。何処かちょっとおかしいように感じますが。体調もよくなさそうですし」
「別に何処も悪うないで? けったいなこと言わんといてや」
「いや、おかしいですよ。今朝の訓練にも身が入っていなかった。今の先輩の使う
先輩を説得するには、まず感情を揺らすしかない。
いまの先輩は感情が死んでいる状態だろう。
手っ取り早いのは怒り。
先輩は自分の技には自信を持っている。
そこを突いてみるしかない。
「なんぼアラナンでも、言うていいことと悪いことがあるで。うちを舐めるんも大概にしいや」
「おや、試してみないんですか。それとも体調が悪いから自信がない?」
「──おもろいやないか。うちを煽っとるんやね。その喧嘩、
先輩の姿がぶれるかのようにふたつに分かれる。
先輩の得意な分身の術だ。
かっとなって右拳を突き込んでくる。
ウルクパルとの死闘を通して、ぼくのアセナの拳士としての力は明らかに上がっている。
この程度なら、捌くのは余裕だ。
右の先輩の更に右側に回り込んで、突き出された腕を両手で押さえる。
おっと、これは幻影か。
すり抜ける手。
その間に回り込んだもう一人の先輩が、下段に蹴りを放ってくる。
左足で一歩踏み込み、力の乗らない打点で受ける。
同時に飛ばした右の
此処だ。
ちょっとした
がら空きになった先輩の腹に、左手で掌打。
本来なら
「やっぱり動きにキレがないですね、先輩。いつもならこの程度の攻撃に反応できない先輩じゃないでしょう。やっぱり、カサンドラ先輩の件を引きずっているんですか?」
「──そんなん当たり前やっちゅうねん!」
わなわなと震えながら、ジリオーラ先輩が叫んだ。
「うちはあいつといつも喧嘩しとったんや! あいつが死んでまう前の日にも、やっとったんや! 他愛のないことで──無論本気でやっとったわけやない。せやけど、うちはあいつにこのあほは一回死ななきゃ直らへんわ! なんて言うてしまったんやで! まさか、ほんまに死んでまうなんて思わへんやないか……」
感情を昂らせ、目を血走らせたジリオーラ先輩が、不意にぼくの胸を拳で叩いた。
「思わへんや、ないか! なあ、せやろ? せやけど、うちのせいなのかもしれへんねん。うちの言葉を気にしよったのかも──」
「カサンドラ先輩は、そんなこと考えてませんよ」
なおも胸を叩く先輩の腕を掴むと、顔を上げた先輩の瞳を正面から見つめた。
「あの人は、仔犬を助けに飛び込んだだけです。頭の中は、仔犬のことしかなかったでしょう。ジリオーラ先輩のことなど、その瞬間、これっぽっちも考えてなかったはずです。──そういう人だったでしょう?」
先輩の瞳が揺れる。
固く結ばれていた唇が、なにか言いたげに数回動いた。
「先輩が自分を責めることはない。それより、素直に友人を亡くしたことを哀しみ、悼みましょう。友達でしょう?」
揺れていた瞳から、涙が一粒零れて落ちた。
鳶色の瞳がみるみるうちに潤んでいく。
ぼくは先輩の腕を離すと、肩に手を回した。
抱き寄せた腕の中で、先輩は小さく嗚咽をあげていた。
腕の中の温かい先輩の体と、少しだけ冷たくなったシャツを感じながら、ぼくもカサンドラ先輩のために祈った。
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