第十章 春宵に響く鐘 -7-
午後の部は、クリングヴァル先生とボーメンの
シピの欠場で、サン=ジョルジュは不戦勝である。
午前中に先生たちを見掛けなかったから不安だったが、クリングヴァル先生は会場に姿を見せていた。
「東から現れたるは、かの
クリングヴァル先生は、着ている服装なんかに無頓着な人だ。
というか、生活能力は皆無である。
一人でいると、食事もろくに摂らずにひたすら鍛練を続けていたりする。
それは学生時代から変わらないようで、レオンさんやルイーゼさんは変人扱いするくらいだ。
今日のクリングヴァル先生は、黒無地のチュニックに黒の
味も素っ気もないシンプルな装いだが、ほつれや汚れがないだけましであろう。
きっと、直前に誰かが着替えさせたんだ。
先生と対戦するシュヴァルツェンベルク伯は、今日も丈の長い赤いジャケットを着ている。
襟や袖にはレースで縁取りがされているし、素材はシルクのベルベットだ。
あのジャケットだけで、金貨が何枚飛んでいくか想像もできない。
神経質そうに眼鏡の位置を手で直しているのは、やはりヴァイスブルク家を背負っているせいであろうか。
「アラナンの先生よね。あの
「ちょっと、マリーさん! 愚問ってやつですよ!」
マリーが変なこと言うから、思わず叫んじゃったよ。
クリングヴァル先生が、あの程度のやつに負けるはずがないじゃないか。
「だって、あんなに小さいんだもの。大丈夫かしらって思うじゃない」
確かに、クリングヴァル先生は小柄だよ。
五フィート(約百五十センチメートル)もないかもしれん。
女好きでいたずら好きの割りとどうしようもない人だ。
でも、強さだけは本物なんだぜ。
「あの
珍しくアンヴァルがお腹が空いた以外のことを口にした。
ひどい言い種だが、真実だ。
まだ先生の強さを見たことがないみなに、しっかりと見せつけてほしい。
「
「──ふん、先祖は先祖。おれはおれだ」
興味深そうに見つめてくるシュヴァルツェンベルク伯に、クリングヴァル先生は
「お前もイェリネクの名とボーメン王国は捨てたのだろう。おれももう、帝国の
「そうですね。わたしは過去はいらない。未来を掴むために、現在を生きる」
ミヒャエル・フォン・シュヴァルツェンベルクが右手の手首を捻ると、その掌の中に
冷たい銃の感触に落ち着きを取り戻すと、シュヴァルツェンベルク伯はまた眼鏡の位置を直した。
審判が出てくる。
試合が始まるぞ。
「
開始の合図と銃声がほぼ同時だった。
シュヴァルツェンベルク伯の
伯爵は左手でシリンダーを回し、更にもう一発弾丸を放つ。
だが、それはまた先生の眼前で壁にでも当たったかのように弾かれていく。
伯爵は左手の指で眼鏡の縁を摘まむと、信じられなさそうに呻いた。
「
「大したことじゃない。これくらいできなきゃ、今頃おれは
クリングヴァル先生は、何も持っていないように見える。
だが、さっきは確かに金属音がした。
先生の実力に、明らかに警戒レベルを上げた伯爵は、早くも切り札を出してくる。
彼の足許に赤い
「
たちまち、伯爵の姿が霧の中に隠れていく。
そして、次第にクリングヴァル先生に向け、霧がその陣地を広げてきた。
むう、
あの霧に飲み込まれるのは、まずくないか?
赤い霧が先生のすぐ近くまで迫る。
その瞬間、先生は霧の中に身を躍らせた。
ちょっと!
大丈夫なの!
ずしんと、霧の中から異様な音がする。
同時に、先生が飛び込んだ地点から、吹き払われるように赤い霧が散っていく。
そして、右腕を押さえながら伯爵が転がり出てきた。
伯爵の右腕は、変な方向に折れ曲がっている。
「あんなに大きな
だから、踏み込む足に地面を揺らすほどの強い荷重を掛ける。
いわゆる
だが、それは初心者のうちで、先生ほどの使い手になれば大袈裟な
それをあえてやったということは、あの霧の吹き飛び方に理由があるのかな。
「無手だと思っていたが……何か持っているな、貴様」
「おれは、これでもクリングヴァルの男だ。使う武器は、槍以外にはない」
右手をやられた衝撃で、伯爵は
激痛が走っているであろう。
理知的な貴族も、その仮面をかなぐり捨てて目が血走っている。
左手を翻すと、その手に新しく長剣を握った。
「く、しかし油断した。おのれ、この痛み……百倍にして返すぞ、スヴェン・クリングヴァル!」
「仮面が剥がれてきてるぜ、ミヒャエル・フォン・シュヴァルツェンベルク」
クリングヴァル先生が、左足で地面を蹴る。
いつも相手にしているぼくにはわかるが、予備動作がないので感知が遅れるのだ。
そして右手に現れる一本の槍。
ずっと出していないのは、間合いを掴ませないためか。
シュヴァルツェンベルク伯は完全に虚を突かれ──。
槍が刺さったかと思った瞬間、その姿が掻き消えた。
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