第15話 折れない心

 脳裏をトトキの言葉が駆け巡り、とうにわかっているはずのその意味を無理矢理に飲み込んだとき。ルナの悲鳴は止み、そのかわりに胃の中身がせりあがってきて、成す術もなく付近の茂みにすべてぶちまけた。

 吐いているあいだにも、そんな都合は知らないとミリヤだった女が歩み寄ってくる。逃げたくても、吐き気が抑えられず、気づけばミリヤはすでに眼前へと迫っていた。さっきまでの優しげだがむすっとした表情ではなく、彼女は本当に表情を知らないようだった。


「ワタシ、キレイ?」


 裂けた口から紡がれる問いとともに突きつけられた返り血のついたナタ。ルナは怯えて動けない。吐くものがなくなってそちらはおさまっても、状況は取り返せない。質問に答えられる言葉が出ないままのルナめがけて、ナタは振り下ろされる。せめて目の前の恐怖から逃れようと目をつむったとき、ナタが空中で止まった。

 口裂け女が首をかしげる。ルナも知らない現象を怪しむ。すると懐に不思議な熱を感じ、その発生源があの珠であると気がついた。おかげで逃げる隙が生まれている。


 ルナが腰がぬけている中でどうにかして立とうとし、やっと成し遂げたときには口裂け女はすでにもう一度ナタを振り下ろそうとしていた。だがその腕の直上には空間の裂け目が生まれ、そこから少女が現れる。トトキだ。制服のタイツには一ヶ所大きな穴が空いているが、傷は見当たらない。着地と同時にナタを奪い取って先ほど通ってきた空間の裂け目へと放り込み、トトキは口裂け女ととっ組み合いになる。


「お前さん、名前は?」


「リップ。ワタシは綺麗?」


「さぁな……おいルナ!なにぼさっと見てやがる!そっちのちっちゃいのはまだ間に合うだろうが!」


 ルナはその声ではっとして、急いでユノのことを連れて逃げ出そうとする。リップのほうはこちらへ向かってくるが、トトキが異界の扉を開いて止めてくれる。

 どうにか血まみれのユノを抱えあげ、ひとどおりの多い場所へ連れ出し、手についた血を地面で強引に拭うとスマートフォンから救急車を要請する。いつ逃げてきた場所からリップが襲ってくるともわからない以上まだ安心はできず、救急車を待つ時間は一秒でさえも一分よりも長いように感じられた。


 やがて到着した救急車に同乗し話を聞かれ、トトキたちとは病院で合流した。ユノの容態はとても悪く、娘の命が危機に晒されていると聞いて仕事から抜け出したらしい彼女の両親には「ほとんど望みはないが手は尽くす」「仮に治っても脳に障害が残る可能性が高い」と告げられていて、ルナはしだいに呼吸が荒くなっているところだった。

 メリーさんとトトキが来てくれて、シグは公共の場には来られないため先に帰った旨が伝えられた。リップはというと、多対一となることを察知したのかトトキのところへメリーさんが合流した時点ですでに撤退していたのだという。


「ねぇ、メリーさん」


「なにかしら」


「都市伝説が身体を乗っ取るって、ほんとの持ち主は」


「消えるわ。精神は塗りつぶされるの」


 ルナにとっては、ユノとミリヤが自分のせいで人生のほとんどを奪われてしまったも同義だとすべてに言われている気がした。ひどく頭痛に襲われる。最後にとどめを刺したのは、続くルナの言葉へのメリーさんの答えであった。


「メリーさんたちも、誰かの身体を奪ったの?」


「えぇ、そう。この身体は、本当は私達のものじゃないわ」


「……人殺し」


 絞り出した声は、メリーさんたちへ対してのものでもあったし、自分へ向けたものでもあった。都市伝説を実現へ導くような行為を提案してしまったのはルナなのだから。リップが、同じようにメリーさんやゲートが身体を奪ったことを殺しとするのなら。ルナだって共犯じゃないか、と。

 出ていこうとするルナを誰も止めることはなく、この日これ以上、こちらのメリーさんと言葉を交わすことはなかった。


 ◇


 勢いで病院を飛び出してきて、行くあてもなくふらついて、戻るのも気まずくて。立ち止まっていると心が押し潰されてしまいそうだった。だからただひたすらに歩いた。できるだけ気が逸れるように足元をじっと見ながら。

 気がつくと、自宅の近くに来ていた。いつもならする子供たちの声はしない。皆外に出ないようにと言われているのだろう。そしてこの近くには、ユノがじっと眺めていたあの花が咲いている場所があって。ふと思い出したルナは、無意識のうちに駆け足になってそこへ向かっていた。


「あら、お嬢さん?」


 そこにいたのは、メリーさんだった。病院で別れた彼女ではなくて。球体関節人形の彼女だ。屈んでいる彼女の目線の先、ユノがじっと見ていたあの花は踏まれてしまって花びらが欠けていた。ユノが二度と普通には戻れないほどの怪我を負ってしまったことを示されているようで、ルナは気分が悪くなる。

 メリーさんはルナへ隣に来るよう促し、ルナはそれに従った。彼女といると、どこか懐かしくて安心できる気がした。


「この花ね。車に轢かれちゃったのよ。ここに停めてた車に乗っかられて。でも、この子は立派に生きていようとしているの」


 ほかの誰もがいられない地で花をつけ、踏みつけられようともめげることはない。傷ついたって、すべてを失ったわけではないと。メリーさんの話を聞くと、そう主張しているようにも思えた。


「人間は誰だって、ユノもルナも、こうやって咲けるんだと思うわ。起きたことは取り戻せないけれど、そこからだって立ち直れる。折れない心、ってやつかしら?」


 そよ風が吹き、花が揺れる。残った花びらはもう離すまいとしっかりとついている。土をつけられてもきれいな緑を見せる葉を眺め、はじめてこの種の花を美しいと思ったかもしれない。

 そういえば、さっきのメリーさんの言葉になにかひっかかることがあった。とっても重要なことを忘れてしまっていたのかもしれなくて、ルナはすこし考えて、そして思い出すことができた。


「ねぇ、メリーさん。私、名前は教えてないよね?」


「へ?あぁ、そういえば」


「じゃあなんで、私がルナだって知ってるの?」


 彼女に対しては名乗った記憶はなく、彼女はどこでルナの名前を知ったのかと聞いてみた。だがメリーさんの反応はもっと予想外で、首をかしげてから訂正した。


「あ、えっと、ルナっていうのは、お嬢さんのことじゃなくって。私に名前をくれた大切な人よ。私が、探してる人」


 ルナはこの時点ですでに息を呑んでいた。それから、メリーさんの探している人の名字を尋ねる。メリーさんの答えは、ルナの予想に違わなかった。


「州手ルナ、って子なの。小学校に入る前から、ちょうどお嬢さんみたいに明るい茶髪でね」


 州手なんて名字、一度気になって調べてみたことはあったが親戚以外出てこなかった。同姓同名が存在するとは到底思えない。ルナは確信に至ってこそいないものの、メリーさんに自分も州手ルナというのだと告げた。


「……え?あ、それって、もしかして」


「私、なのかも。あなたの探してる人って」


 ルナに自覚はなくて、あいまいな答えしかしてやれなかった。メリーさんには十分に伝わってくれただろうか。逸らしがちだった視線を彼女に合わせると、彼女は呆然としているようだった。すこしするとルナの顔が彼女の記憶と合致したのか、瞳からひとすじの雫がこぼれた。


「メリーさん、泣いてるの?」


「……あ、ごめんなさい。なんだか、思ってもみないことが起きてて、それで……人形が泣くなんて、気味が悪いわよね」


「ううん。メリーさんのことはよく覚えていないけど、なんかあったかくて、気味が悪くなんてないよ」


 メリーさんの手をとって、ルナは彼女に笑いかけた。人肌のようなやわらかさを備えてはいるが、体温はなく、確かに人形の身体だ。ルナにはそれが、どこか懐かしい感覚に思えた。

 そうして手を握っていると、ある時いきなりメリーさんが抱きついてきた。彼女の息がはっきりと聴こえてくる距離にきて、メリーさんはこちらもまた懐かしげなにおいがした。


「ねぇ、メリーさん」


「なにかしら?ルナ」


「ひとつ、お願いしてもいいかな?」


 ルナにはどうしようもない不安があった。過去のことは正直わからないけれど、ひとつだけわかる気がするのは、過去の自分はきっと悪夢のことはメリーさんに相談していたということだ。

 メリーさんという響きは、ルナにとって不安な夜を共に過ごしてくれる象徴だと、かすかにだがそんなふうに聞こえる。



 だから、ルナはメリーさんを事件の現場へと連れていった。血痕が多量に残されているためすでに警察が封鎖していると思ったのに、伝わっていないのか彼女が追い払ったのかはわからないが立ち入り禁止もなにもなくただリップが佇むだけだった。いつの間にかミリヤの着ていた警官服ではなく、あのとき襲ってきた口裂け女の格好にいくつかアレンジを加えた格好に変わっていた。


「あいつ、なのね?」


「うん……ごめんね、巻き込もうとしちゃって」


 ゲートやあちらのメリーさんにはもう頼めないけれど、ルナは戦えないし、これ以上リップを放っておきたくない。だから、彼女を巻き込むしかなかった。

 いいのよ、と言ってくれるメリーさんはいまだにナタを手にしているリップのほうへ近寄り、拳を構える。交戦の意思があると踏んでリップもまたマスクをはずす。


「ワタシ、キレイ?」


「私メリーさん。そうね、なかなか綺麗なんじゃないかしら」


 互いに言葉を紡ぎ、一拍おいてリップから飛び出してくる。ナタが深々とメリーさんの胸に突き刺さるが、人形の身体では血は流れない。自分の身体を用いてナタを止めたメリーさんはリップの腕を掴んでひねり、固めにかかる。するとリップは自分の服の内側へ自由なほうの手を突っ込み、メスを引っつかんで振るった。さすがにメスでは威力が足りずドレスの袖がすこし破けた程度だった。

 メリーさんは自分に突き刺さっていたナタを引き抜いて、今度はリップに向けて振るう。腕が割れ、メスが地面に落ちて金属音を響かせた。これで片腕は使えなくなる、と考えていたメリーさんだったが、このあとに予想外のことが起こる。


「……これでも、キレイ?」


 なんと、ナタの刃を受けてぱっくりと割れたはずの腕には傷痕ではなく新たに裂けた口・・・・が現れていたのだ。手首によってもかみつくことが可能になったリップは当然不意をつくように腕を持っていき、メリーさんは咄嗟に屈んで逃げ、手首の口は空気だけを取り入れてぴったりと閉じた。

 恐らく、刃物での攻撃は通用しないのだろう。そう判断したメリーさんがナタを投げ捨てると、リップのほうは受け止める道具をひとつ捨ててしまった彼女へ懐から鎌を取り出し突きつけた。即座に片膝と片肘で挟んでへし折り、そのままの勢いでリップの腹部に拳を繰り出し、こちらはまともに衝撃を受けたらしくよろめいた。


「一気に決めるわ」


 メリーさんが繰り出したままの拳をそっと開く。てのひらの中央には穴があいていた。リップは危険を察知したのか、よろめきながら離脱を試みる。が、運悪くメリーさんが投げ捨てていたナタにひっかかり、転びかけてしまった。結果間に合うことはなく、メリーさんのてのひらに集まっていく光はリップに襲いかかり、小規模な爆発を起こしたのだった。


 爆風が晴れたころにはすでにリップの姿はなく、彼女が扱った刃物はそのまま残っていた。しかし爆発のおかげでユノの血痕はめちゃくちゃになっていて、隠蔽に失敗したようにも見える。


「……ねぇ、メリーさん」


「なにかしら?」


「どうしてビームが出るの?」


「あら。ビームはフランス淑女のたしなみよ?」


 明らかなジョークで理屈は教えてくれなかったけれど、あの光はリップごとルナの心の重圧をいくらか吹き飛ばしてくれたらしい。いまのルナは、メリーさんのジョークを笑うだけの余裕があるのだった。

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