第14話二十八歳ー4
新田からの再勧誘、緒方からのスタンプを添えたラインメッセージが、正美の既読スルーから半年経っても受信されることはなかった。正美はいざというときのために二人からのメッセージをブロックしていない。
新田の妻である希利からの連絡の痕跡もない。
三匹のネズミが完全に正美を諦めた証拠だ。
正美がこのとき安堵したのは、皮肉にも過去の記憶が鮮明だからだ。
かつて、新田はネズミだったころの正美に言った。どれほど勧誘しても心が動かない人とは、自ら関係を絶て、と。
新田は、自身に連絡がないことで、正美が完全に人に戻ったことを悟ったのだろう。緒方と希利に、正美との関係を絶つように指示を出したと、正美は推測した。
正美が手にしたハローワークの求人票によると、フロントスタッフの総月収は十二万円から十四万円だった。勤務時間帯は十五時から二十二時までと定時制なので、安定した生活を送ることができると思った。
無事に採用され、新しい生活が始まった。大きな決断を下すための苦しい毎日が。
入社早々、勤務時間が変動した。ハローワークに記載された時間帯に働いたことは、正美が退職するまで一度もなかった。
また、持ち場はフロントだけでなく、食事会場も兼ねた。人員不足が理由だった。兼業に関しては苦ではなかった。ホテルの司令塔であるフロントを務める以上、内部を把握する必要があると考えているからだ。
しかし、この兼業が想像以上に体力を要した。
朝食係として出勤する際、四時に起床し、遅くとも六時に出勤しなければならない。午後十時に一度退社し、十六時に再出社してフロントを務める。正美のメインの働き方はこの二回出勤だった。
ごくまれに十二時からの九時間勤務も務めたが、一年間で片手の指が余るほどだった。当日になって勤務時間が前後五、六時間ずれる、と会社から電話がかかってきた。休日でも、宿泊客によっては休日が取り消され、二時間後に出勤命令が下った。こういった電話が毎日だった。何一つ予定を立てることができなかった。友人との外出予定もキャンセルし、信用の喪失も免れなかった。
公開通りの収入を得ていたら、正美はあと一年だけ耐えていたかもしれない。実際、社会保険などを引かれる前の総支給額は万一桁だった。自分一人の生活さえままならなかった。前職で地道に貯めた蓄えを切り崩す毎日。ささやかな贅沢はスーパーの特売で購入した納豆とごはん。過労と栄養失調で救急車に搬送されたことも、自宅療養で休暇を取ったこともあった。
この地にいては、永遠にまともな生活ができない。疲弊した脳で正美は気付いた。
健康だけで食材を購入し料理する生活、睡眠時間の安定、少額でも毎月貯金ができ、通帳の残高を楽しみにすること。
どれも正美が何年もの間望んできたことだ。
月に何度もハローワークに通い、正社員の求人を見付け、ようやく人らしく生活できると期待していただけに、正美の裏切られた感覚が強い。
安月給のために汗水たらして働き、意見の合わない上司に毎日叱責され、心身ともに疲れて部屋のベッドに倒れ込む。入浴など忘れてしまう。
このサイクルを人らしい、やりがいを感じると思う会社員の気が知れない。これでは人の姿をした家畜である。
それでも、正美は家畜に共感することが一つだけある。客のためにベストを尽くしているという誇示だ。
その矛盾に、正美は自身が家畜予備軍であることを自覚し、吐き気がするほど嫌気をさした。
早くも入社二ヶ月目で退職を考え始めた。それでも一年は在籍したが、その間二、三度正美の脳裏に過去の誘惑が過った。
仕事に縛られなくなる。目覚めた時間が起床時間。洋服を買う際、値札を気にしなくて済む。毎日がパーティ、フリーダム。
かつての正美が引っかかり、ネズミになるきっかけを作った甘言だ。
実際は自由どころか不自由を感じるだけだった。飼い殺しという言葉が最も似合う毎日だった。
甘言が甦るたび、正美は
金銭的にも心身的にもどれほど貧しくとも、家畜に成り下がっても、ネズミにだけは落ちぶれるまい、と。
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