第2話 ねえ、その女はだれ?
私が好意を寄せている男性は、アパートの隣の部屋に住んでいる。
今年で社会人二年目だ。修士課程に進んでいるので、社会人四年目の私とは同い年。そこそこ名の知れた会社に勤めていて、今年の春に転勤で、私の住むマンションに越してきた。
隣室である私の部屋に、彼が引っ越しの挨拶で訪れたとき、私の恋は始まったのだ。「これ、つまらないものですが。よろしくお願いします」と菓子折りを渡す彼に、思わず「いえ、こちらこそ。ふつつか者ですが、よろしくお願いします」と言ってしまいそうになった。
ゴミ出しのときに何度か言葉を交わし、おかずを作りすぎてしまったのでもらってください大作戦を数回決行した。
休日には何度か二人でデートらしきものをして、いい感じの雰囲気になっている。
今までの男運のなさが嘘のようだった。きっと神様も私に同情したのだろう。
このまま順調にいけば、私の気持ちに応えてもらえると思う。それどころか、彼の方から情熱的な愛の告白なんかされちゃったりなんかしちゃったりしてふひひひひ……。
まあ、なんやかんやあって付き合い始めた私たちは、二年の交際を経てゴールイン。彼からのプロポーズの言葉はどんなのだろう。うん、色々と想像しただけでヤバい。今ならトリプルアクセルできそう。あと、新婚旅行はヨーロッパを希望。
楽しいことを考えていたからか、いつの間にかアパートに到着していた。
さあ、気合入れて肉じゃが作るぞ! 彼の胃袋つかむぞ!
意図的に夕食をたくさん作り過ぎようとしていたために重いビニール袋を両手に、私は鼻歌を歌いながら階段を上る。
アツアツな新婚生活と、第一子の名前に対する意見の相違でプチ喧嘩をした場面まで妄想したところで、私の視界に映った現実が、脳内を絶望色に染め上げた。
やっぱり君の考えた名前にしようか、と折れて、優しく謝りながら機嫌を損ねた私の頭を撫でてくれていたはずの彼が、知らない女と歩いていたのだ。
どさり。私はスーパーの袋を落としてしまった。
音に反応し、彼は振り向く。
「ああ、天乃宮さん」
私に気づいて、笑顔を見せた。爽やかだ。彼の周りだけ気温が一度くらい低くなっているような気がする。
「あっ、どうも」
彼の隣にいた女も倣って、ペコリ、と頭を下げた。
クリっとした目に、サラサラのストレートヘアー。思わず守りたくなってしまうような、小動物的な雰囲気を醸し出している。
「今帰りですか?」
「はい」
その女は誰だ。どんな関係なんだ。私への思わせぶりな態度は何だったんだ。命は惜しくないのか。
聞きたいことはたくさんあったけれど、あえてにっこりと笑い、余裕を見せつける……つもりが、表情が引きつってしまい、自称ぽっちゃり系の職場の先輩(四十二歳独身女性)の「これでも昔はモテたのよ」という破壊力抜群の決め台詞をくらったときに作るような、微妙な笑みになってしまった。
「ねえ暑いよー。早く中入ろうよ、ひとしー」
女はちょんちょんと、須藤さんの服の裾をつまみながら、甘えた声を出す。下の名前を呼び捨て……だと⁉
「ん、ああ。じゃ、そういうことだから。またね、天乃宮さん」
須藤さんが自分の部屋の鍵を回し、ドアを開けると
「お邪魔しまーす」
女はそう言って、彼の家に上がり込む。
何のためらいもなく部屋に⁉ 私だって、玄関までしか上がったことないのに!
「こら、みゆき! ベッドにダイブするな!」
彼がそう言いながら、続いて家に入っていく。
何がみゆきだよ! 深い雪か? 未来の幸せか? いや、お前なんか魑魅魍魎の魅に醤油の油に寄生虫の寄で十分だ!
「わぁ、ふかふかぁー」という魅油寄(仮)の甘ったるい声が聞こえた。
こんちくしょう! 今すぐベッドの反発係数が無限大になって天井突き破って星屑になりやがれ!
私も、落とした袋を拾ってすぐに家に入った。
冷房もつけないまま、蒸し暑い部屋に立ちすくむ。
好みのタイプ。気になるアイツ。すでに彼女がいただなんて。
呆然自失。ここは自室。すごく胸が痛む何で? チェケラ。
今の気持ちをラップで表現してみても、心の傷は癒えないし何も面白くない。
そのままたっぷり五分くらい魂が抜けたかのようにボーっとして、それからやっと動けるようになる。
別に、須藤さんは私の彼氏でも何でもないんだけどね! そんな慰めさえも、自分を追い込む痛みになる。
作りすぎるはずだった肉じゃがは、予定通り作りすぎることにしよう。でも食べるのは私一人だ。
先ほどの出来事を思い出しながら野菜を切っていく。包丁を持つ手に力が入った。いつもは固くて切りづらいジャガイモを、いとも容易く一刀両断する。今なら人の四肢くらいは斬れそうだ。
誰だよ。その女は誰なんだ。そして須藤さんは私のことをどう思ってるんだ。この前の「天乃宮さんの旦那さんになる人は幸せなんだろうな」って言った後に見せた意味深な微笑みは何だったんだよ。
そんな感じの独り言を脳内で延々とリピートしながら、須藤さんの部屋がある方向に負の念を送りつつ、材料を入れて火にかけた鍋を見つめる。
ぐつぐつ。ぐつぐつ。これは肉じゃがが煮えている音だろうか。それとも私の心から湧き上がってくる憎しみの音だろうか。
うん、美味しい。とても美味しい。
神様なんかいない。もう彼氏なんていらない。一生独りで生きていく。
結婚式で、幸せな二人が神父さんの前で永遠の愛を誓うように、私は食べ終えた肉じゃがの皿の前で、永遠の孤独を誓った。
ベットに寝転がると、スマホの着信が鳴り響いた。
職場の同僚、
『今週の合コンのことなんだけど――』
そこまで読んで、私はスマホを床に放り投げた。
どうせ人数が足りないから来てくれ、という頼みだ。
望は、私よりもほんのちょっぴり綺麗でお洒落で若い。
いつもそうだ。望がセッティングする合コンは、女性陣の中で彼女が一番スペックが高くなるよう仕組まれている。
ぶっちゃけメイクなしだったら私の方がギリギリ勝ってるわ! 現代の進歩した化粧品たちに感謝しな!
あえて参加して困らせてやろうかとも考えた。合コンに参加して、場を荒らすだけ荒らして帰るシーンを思い浮かべる。
聞いてくださいよ。望、すごく貯金上手なんですよ。ご祝儀貯金っていうのしてるんです。え、どういう貯金かって?
友人に彼氏ができるたび、ご祝儀を用意して、その友人が別れたら用意したご祝儀を貯金に回すらしいんですよ。それで今、いくらだっけ? 二ヶ月前は三十五万とかだったっけ。あれ、もう四十万いった?
あら、もうこんな時間。わたくしはこれから趣味のクラシック鑑賞をしなくてはなりませんの。それではみなさんごきげんよう。おほほほほほほ。
凍りつく雰囲気
ドン引きする男性陣。
失墜する私の信用。
そんな妄想をしたら、少しだけスッキリした。
ちなみにご祝儀貯金の話を聞いて私も始めてみた。今は二十四万円貯まっている。
あと私の好きな音楽は激しめのロックだ。
今ごろ隣の部屋で、須藤さんと魅油寄(仮)は何をしているのだろう。イチャついているのだろうか。それとも、期限が明日までの時給四百円くらいにしかならないシール貼りの内職を必死でしているのだろうか。後者だったらいいのになぁ。
札束の入ったアタッシュケースのように見える天井のシミを見つめながら、無益な想像をする。
深い悲しみのどん底で、私は世界を呪った。
気がつくと翌日になっていた。そのまま寝てしまったようだ。
時計の針は正午を指している。大遅刻だ!
慌てて起き上がるが、今日が休日だったことを思い出す。
同時に昨日のことも思い出し、心が沈む。
今ごろ、壁の向こうでは二人仲良く寝てるのだろう。
ああ、なるほど。週末だから女を連れ込んでたのか。納得だ。
壁ドンしてやろうか。三三七拍子で。
私が太鼓のバチを買ってくることを本気で考えていると、視界の隅に人影が映った。
そこには、白い服を身に付けた少女がいた。
床に体育座りをして、私の方にじっと視線を向けている。
中学生くらいに見える。パッチリした目と、プルプルした唇が可愛らしい。眉の上で切り揃えられた黒い髪は艶を放っていた。
「おはようございます」
少女はそう言って、ニコっと笑った。
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