第13話 おわりに
2005年3月、わたしが、高知の麗子さんに話した物語はこれが全てです。よってこれでこのお話は終わりです。最後までお読み頂いてありがとうございました。さて、私はその後、紬叔母さんのところでチラッと見た大阪の会社でいじめにあって退社し、帰郷していた女性と交際を深め、あっけなく大学院進学を諦めて就職し、6ヵ月後にはその女性と生活し翌年には結婚した。これによって私の人生は幼年期、青年期を過ぎ人生の第三期に突入することになり私の第一の青春は終わった。
さて、皆さんはこの物語に登場した人々がその後、どの様な人生を歩まれたか興味をお持ちかと思いますので、私が知っている範囲で情報をお知らせしたいと思います。
元ヤクザで観光会社社長の山越 真一さんは残念ながら75歳で亡くなり、妻の洋子さんは娘さんと大阪で元気に暮らされています。
鳩叔父さんの岩田 勇三さんも53歳で肝臓炎にて亡くなられましたが、この時導入した鳩の子孫が、優秀な飛翔成績を残して奄美の有名系統“奄美海渡系”を打ち立てられ奄美名人と称されました。奥さんは3人の娘さんを立派に育て上げ、今でも紬の織手として活躍されています。
喫茶ニュへブンは残念ながら港が新港に移ったことにより閉店となり、若夫婦もこの物語の5年後に離婚されました。奥さんの美紀さんはその後、再婚され2人の子供さんを育てられました。今でもスレンダーで綺麗です。
千恵子さんは、用安海岸リゾートオーナー一族の池大地さんと結婚し、二人の子供を育て、今でもリゾートを切盛りしています。私がリゾートを訪問した時には、オリオンビールの生を一杯サービスしてくれる仲です。
喫茶店を切り盛りしていた信二は、名瀬市内でスナックを経営者していましたが、バブルを旨く乗り切れずに店を閉めて今は、東京に住んでいます。譲二は、大学の歯学部を卒業し名瀬市内で開業し地元の名士として活躍しています。
薫さんは子供に恵まれず、其の分事業意欲を成就させ、奄美をあれほど嫌がっていた叔父夫妻に任せ、島を離れて鹿児島で観光事業を展開し成功させ、奄美出身の大学生に奨学金を出す財団の理事長に納まっています。
私と玲子が大島を案内した礼子さん夫妻は、大阪で息子さん夫婦と一緒に会社を切盛りしています。
玲子の友人の大学生、町田信吾さんは5年後、枝手久島を離れられ東京で雑誌の記者をされていて、時たま署名記事を見ると懐かしさがこみ上げてきます。
三島栄太郎さんのお父さん栄太さんは10年前に亡くなられました。息子さん夫妻は名瀬市内で暮らされています。紬叔母さんのご主人栄蔵さんも13年前に亡くなられましたが、叔母さんは90歳を越えた今でも、肝っ玉母さんぶりを発揮し都会の子供に活を入れています。
そして皆さんが一番関心をお持ちの玲子、いや玲子さんは故郷高知県で銀行員と結婚し、3人の男の子をもうけ立派に育て上げ、今は民生委員会の副会長をしながらボランティア活動に励んでおられます。あれ以後、玲子さんとは一度逢っただけで、最近では年賀状のやり取りのみが消息を知る手段となってしまいました。
このように、それぞれの人生を必死に生きた33年をこの姿に見ることが出来ます。ここ数年で多くが60歳の還暦を迎える歳となり、同窓会でもと言う話があります。一番時間のありそうな私と千恵子さんに任されていますが、開いて逢うのが怖いと言う思いもあります。が、少し汗を流して見たいと思っている今日この頃です。
翌日、2015年5月21日 6時に目を覚まし、果樹園で農作業に励んでいると、玲子が近寄って来た。
「手伝ってくれるのか」
「いいけど。でもちょっと話し聞いてくれる」
そして、夫のことを話し出した。
夫が、出社拒否症気味になったことは知っていたが、その原因について聞いて来たので私の経験の範囲で男の立場から語った。
「夫は新婚時代から、喧嘩すると自分の殻に閉じ篭って部屋から出てこないこともあったんです。勉強熱心で知識も豊富で尊敬できる人なんですが、ギャップが大きくてネ」
「そう、それでどう対応したの」
「当然だけれど話しかけたり、手紙も書いたけど効果なかった。子供と時間が解決してくれた」
私も心あたることが有った。妻と喧嘩した時、無口になって一人になることが多かった。少し時間があれば気持ちの切り替えが出来るのに、妻からこれ見よがしに手紙なんかをもらうと余計に反発して、心に思っていないことも言ってしまう。自分が思う以上に。
と語ると、玲子は、
「そうなんだ。男はシャイなんだね。でも待てなかった」
「優等生には難しいな。昔から変わってないな・・・。そんなの家では日常茶飯事だよ。もう諦めてる」
「それも寂しいな。それで良いの真は」
玲子に言われてしました。
それでも2週間もすると機嫌が直って、理想的な夫に戻ったが、65歳になって民間企業に出向になってから、性格が更に暗く心が頑なになった。もう完全な家庭内別居状態だと言った。
そんなこともあって、最近は一番下の子供との関係も更に悪化した。就職が巧く行かなくて家でゴロゴロしている。それが気に障るのか強い言葉で当たるようになった。お互いがバットを持って構えたこともあった。
玲子が、夫に『それは、あなたが間違っているよ』と言ってから二人の会話は全く無くなった。勿論、挨拶もなく目を合わすこともなくなった。下の子から『俺のために喧嘩しないで欲しいな』と言われたので修復を試みたが『俺のことはほっといてくれ。俺は俺の道をいくから、貴方とは目指すものが違う』と拒否された。40年以上一緒に居て夫が何を考えているか分からなくなってしまた。と言う。
最近は下の子が玲子に手を上げる様になり、全てのバットを処分した。
私も思い当たるところがあり身につまされたが、自分でも良い回答は見出せなかった。自分がその回答を欲しかった。
「それで離婚したいの」
「そこまでは思ってない。これまで一緒にやってきたし、世間体もあるし生活も苦しくなるし」
「そうか今のポジションを失いたくないんだ」
「失いたく無い」
自分の気持ちを素直に語った。
ここまで聞いて私は、
「俺の家庭も概ね同じ状態。それが自然になってる」
少し時間を取って、自分も妻の誕生日に『おめでとう』の言葉も出ないし、会話と言っても『うん』、『そう』、『それで良いと思う』、『まかせる』、『だめ』、『あなたが考えて』位しか言わない。家のことは妻に任していると思っているから。
「でもそれでは気持は伝わらないね。まだうちの方がましかな。女の気持ち分かってない」
「玲子のことだからきっとそうだと思うね」
「ありがとう」
それから冷静に、私たち二人はこれまで波長はあっていたと思う。でも出向してから性格が一段と悪くなって、家族との関係も悪化した。更に息子が引き篭もりに進むんではないか心配している。
不安げに言ったのを受けて自分への自戒を込めて、
「今まで聞いたけど、夫婦関係はお互いだから、どちらかが意識を変えて真剣に関係改善したいと思わないと、変わらないと思う。今は会社が替わって企業風土が違うんで苦労していると思うんで、妻の役割大きいと思うよ。変われるチャンスだよ。また公私とも変わらないと自分の立場作れないから。新しい関係を作ったら、ピンチはチャンスって言うだろう」
「巧いこと言うね」
「自分にも言い聞かせてる。自分に自信がなから」
「そうだね。人には色んなところがあるから、良いところを見つけないと長く続かないからね。夫が自信失くしているのかな。異常に威張るのは」
「そうかもしれない。環境も変わったから」
ここまで話が進んでから暫く、会話を休憩してお互いに鎌で草を刈った。
「汗が気持ち良いね」
「本当に。気持ち、チエンジ出来る」
一息ついて、
「帰ったら夫の細かな言動にいらつくのやめて聞き役に徹するは」
「それが良いと思う、優しく受け止めるのは。そしていいところを見て欲しいな」
「自分に言ってる」
「そう自分に言ってる」
ポツリと言ってから、また草を刈り出した。もうかれこれ2時間が過ぎていた。
「真、1973年の二人がここに居てくれたら良いのにね」
「そうだね玲子、でもそれは無いね。時代が変わって人に関心持たなくなったから。自分のことは自分で解決しないと」
「真、でも二人は信じて良いんでしょうね」
「そうだね玲子。信じてるよ」
二人は空の太陽と畑の砂糖キビを見て笑った。
ここで突然、
「帰ったら素になって話してみる。ここで真と話したように」
「そうだね。当たり前だけど、それが中々難しい。奄美の太陽に力を貰って頑張って下さい」
「人に言えたことじゃなでしょう。貴方も話し合って下さいね」
玲子にお灸をすえられてしまった。
「分かった約束する。玲子」
一段落した時に、
「玲子お姉さん。山田さん、お話し終りました」
二人を呼ぶ画家さんの声が聞こえて手を止めて、自宅に帰った。
朝食を食べ、来年度の再会を約束して、二人は高知と東京に帰っていった。奄美の太陽で心を充電して。
これで本当にこの物語は終わりですが、最後にもう一度、この話は物語だということを断っておきたいと思います。今、振り返ると、このような物語を経験でき、多くの可能性が実現できた1970年代は本当に素晴らしい時代だったと思えるのです。
私達は団塊の世代の淵で生まれましたが、団塊の世代に引きずられて、影の薄い世代だったと思いますが、経済的には恵まれました。幸い、苦労も余りしていませんので体力、気力とも残っています。
手元に有る厚生労働省の簡易生命表に寄れば、まだ20年前後の平均余命が残されており、この期間に得ることが出来る余暇時間は、私達が会社で働いた時間に相当すると言われています。
この大きな時間を有効に利用することを考えていかなくてはならないと思う、今日この頃です。自分の人生を自らの足で歩き、良かったと思える人生を終わるために。
そして最後に素晴らしい詩を捧げたいと思います。
青 春 サムエル・ウルマン
青春とは人生のある期間ではなく、心の持ちかたを言う。薔薇の面差し、紅の唇、しなやかな肢体ではなく、たくましい意志、ゆたかな想像力、炎える情熱をさす。青春とは人生の深い泉の清新さを言う。
青春とは前例を退ける勇気、安易をかなぐり捨てる冒険心を意味する。時には、20歳の青年よりも60歳の人に青春がある。年輪を重ねただけで人は老いない。理想を失うとき初めて老いる。
年月は皮膚にしわを増し、情熱を失えば心は萎む。苦悩・恐怖・失望は気力を地に這せ、精神は塵になる。
60歳であろうと16歳であろうと人の胸には、驚異に魅かれる心、幼児のような未知への探求心、人生への興味と歓喜がある。君にも吾にも見えざる道標が心にある。人から神から美・希望・喜悦・勇気・力の霊感を受ける限り人は若いと言える。
霊感が絶え、精神が皮膚の雪におおわれ、非難の氷にとざされる時、20歳であろうと人は老いる。頭を高く上げ希望の波をとらえる限り、80歳であろうと人は青春に有る。
サムエル・ウルマン:1840年4月13日生まれのドイツ人。この詩は1920年4月、80歳の誕生日に当たって家族がウルマンの詩集「80年の歳月の項から」を出版、その中の一つとして収録されている。
完
喫茶「ニューヘブン」 @takagi1950
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