第7夜 下車



――ガタン、ゴトン。



 列車が少しだけ大きく揺れた。


 鳥壱が入ってきた扉とは反対側にある扉が、ガタガタと音を立てながら開く。

 思わず、鳥壱はそちらの方に視線を向けた。

 そして、入ってきた『それ』を見て鳥壱は、小さな声を上げるほど驚いた。


 扉から入ってきた『それ』は、一見すると帽子、上着、手袋、ズボン、靴と一式着た人のように見えるが、よく見ると人の身体はなく、空中に浮いた服だけが存在していた。


 周りに居るシルエット達も不思議な物体に見えるが、この空中に浮いている服はもっと不思議な物体だった。


 人の身体は一切見えないのだが、普通の人が帽子を被った位置に青みがかった黒の帽子があり、帽子と同じ色の服があり、またしても同じ色のズボンがあった。

 純白の手袋をつけ、古びた黒い革靴をカツカツと鳴らしながら通路を歩いてくる。


 彼女たちの前まで来ると、その『服』は立ち止まり、屈んで鳥壱を見る。

 もっとも、顔が無いので本当に見ているのかどうかは分からないが。


<乗車券を拝見致します>


 聞こえてきた声に驚き、鳥壱は思わず辺りを見渡した。

 なぜなら、その声が鳥壱の頭に直接響いてきたからだ。


 鼓膜を通さずに聞こえてくるそれは、夢の中で聞こえる声のような、スピーカーを直接頭の中に埋め込まれたような、何とも表現し難い感覚だった。

 初めて味わうその感覚に、鳥壱は見るからに狼狽する。


<乗車券を拝見致します>


 再度『服』からの要求の声が聞こえ、鳥壱は何とか対応しようとする。


「乗車券? ちょっと待って、乗車券?」


 だが、鳥壱は要求された物をただオウム返しするだけだった。


 列車に乗るにあたって必要な物、それはもちろん乗車券(キップ)だ。

 なのに、鳥壱はこの列車に乗る前に乗車券を買った覚えなどなかった。

 そもそも、乗る前の記憶などないのだから、覚えなどないのは当たり前なのだが。


「えっと、その……」


 どう弁解するべきなのか分からず、鳥壱は喘いだ。


 鳥壱の常識――『社会のルール』からいえば、乗車券を買い忘れたということでその分の料金を払えば良い、という事なのだが、目の前に居るのは普通の車掌ではない。

 空中に浮いた『服』なのだ。


 仮に目の前に居るのが一風変わった車掌だとしても、鳥壱が持っている通貨で事足りるのかどうか、かなり疑問視された。


 どうするべきなのか、平謝りでもすべきなのだろうか、それとも土下座か。

 そんな事を鳥壱が悩んでいると、彼女は鳥壱の胸ポケットを指差す。


「捜し物は、大体ポケットの中に入っているものよ」


――ポケットに? まさか、買った覚えもないのに。


 そう思いつつも、鳥壱は胸ポケットに手を入れてみた。

 すると、紙切れのような物が手に触れる。


 それを慎重に取り出してみると、長方形の白い紙――乗車券らしき物が出て来た。


 紙には何か文字が書いており、鳥壱は訝しげにそれを見つめた。

 そこには、『玄関→アパート』とだけ表記されてある。


 それが何を意味しているのか理解出来なかった鳥壱は、首を傾げた。

 だが、そんな事はお構いなしに、『服』がそれを鳥壱から奪い、爪切りのような物でパチン、と挟んだ。


 『服』は帽子の鍔を摘むように掴み、軽く会釈した。


<あと少しで『駅』に到着致します。貴方の乗車券はそこまでなので、そこでお降り下さい>


 抑揚のない事務的な声で言った後、『服』は乗車券を持ったまま先程入ってきた扉に戻って行き、向こうの車両に消えていった。


「今のはね、この列車の車掌さん。一人しか居ないから列車の運転と乗車券の確認を一人でこなす働き者よ」


 彼女は親しい友人を紹介するかのように、先程の『服』について語った。


「そう……なのか」


 現状を把握出来ず、混乱しきった鳥壱にはそれを言うのが精一杯だった。


「もう少しぐらいお話をしていたかったのだけれど、残念ね。もう、時間がないなんて」


 残念そうな顔をしながら、彼女は短いため息をはいた。


「時間が、ない……? それはどういうことなんだ……?」


 そう彼女に質問した時、列車はゆっくりとスピードを落とし始めた。

 徐々に徐々に、眠っていれば気づかない程にゆっくりと。


「こういうことよ。貴方は貴方の『駅』に着いてしまった。それが答えよ。貴方はここで降りなくてはならないの。さっきの車掌さんが言ったように、貴方の乗車券ではここまでが限界。ここが、貴方にとっての終着駅なのよ」


 彼女が言い終わると同時に、列車は止まった。

 駅なのかどうかすら分からない、何処かに。


 鳥壱は、窓から何も見えない真っ暗な外を見つめた。

 一筋の光もなく、真の暗闇だった。


「そう……か」

 鳥壱はうわごとのように呟いた。

 外を見つめるその瞳は、酷く哀愁を漂わせていた。


――これで、終わりか。


 鳥壱は、本能的に理解していた。

 この列車から降りるということは、この『夢』から目覚めるということ。

 そして、彼女と永遠の別れを意味するということを。


 一時の夢物語は、もう二度と見ることはないだろう。


「……本当に残念だよ。君とは……ああ、ごめん。美奈さんとは、もっと話をしたかったのにさ……」


 名残惜しそうに言った後、鳥壱は席を立ち上がる。

 目的地に着いたのなら、することは一つしかない。


「そうね、本当に……残念だわ」


 彼女は小さく手を振った。

 それに応えるように、男も小さく手を振る。


「美奈さんと一緒に、ラーメンを食べたかったなぁ……」

「ふふ、本当にね。貴方が豪語する『おいしいラーメン』とやらを、是非味わってみたかったわ」


 鳥壱は噛み締めるように、ゆっくりと木目の通路を歩き始める。

 一歩一歩、悔いを残さないように。


 やがて、鳥壱が入ってきた扉の前に辿り着く。

 眉間に皺を寄せ、目頭を押さえ、軽く頭を振るった。


「さようなら」


 小さく呟いた後、鳥壱はガタガタと音をたてながらその扉を開けた。

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