02:二律背反(2)

 その後の日々は、穏やかに過ぎた。

 唯一王都のメイドは警護の必要な要人に使える事もある為、護身術を伝授される。仕事の合間の短剣と魔法の扱い方の授業も、生来の器用さが物を言って、教師にどやされる事無く習得する。元々の人当たり良い性格のおかげで、メイド仲間ともすぐに打ち解け、自由時間には、次の特務騎士隊長の少年が格好良いだの、あの騎士は下世話で好みではないだの、年頃の娘達らしい色恋話に花を咲かせる。勿論その裏には、ヘルトムートの『吟味』に一回で飽きられて、『国王の子を孕む』という、嫉妬とどろどろの睨み合いへの階段を昇る事が無かった者同士という、不幸中の幸いも起因していたのだが。

 そうして数年が過ぎ、メイドとしての立ち居振る舞いもすっかり身につき、妹も無事幼馴染のもとへ嫁いで、忙しいがそれなりに安らかな毎日を送っていたところ、代替わりした特務騎士隊長のミサクが、アティア一人を彼の執務室へ呼び出して、

「これはまだ、内々の話だが」

 と、静かに前置きして告げた。

「勇者の娘の世話を、貴女に頼みたい」

 山奥の村で暮らしている、勇者エルストリオの一人娘シズナ。このシュレンダイン大陸で勇者と魔王が争った周期を鑑みれば、また新たなる魔王が現れる時期は、間近に迫っているという。その時、次代の勇者を保護して、唯一王都で魔王を倒す為の教育を施す時に、世話役が必要であるとの事だった。

「貴女はメイドの中でも上司の評価が高く、護身術の成績も悪くない。人柄も、勇者の面倒を見るには不足無いと、メイド長から推薦を受け、適役だと判断した」

 まだ十代半ばのはずの年下の少年は、青い瞳で真摯にアティアを見つめて、「頼めるか」と訊いてくる。その若さで特殊部隊の頭に立つだけあって、相手に有無を言わせない圧を与える喋り方を心得ているようだ。断る勇気を、こちらに抱かせない。

 それに、伝説の聖剣『フォルティス』を操る勇者の娘を守る、という役目は、唯一王の恩寵を受けるよりも、遙かに栄誉で誇らしい役目だと感じる。気を引き締めて臨まねばならない。

 アティアはまっすぐにミサクを見つめ返し、にっこりと笑みを浮かべて、

「かしこまりました」

 と、綺麗に背筋を伸ばし腰を折るお辞儀で答える。

「そうか、良かった」

 ほっと息をつく声が聞こえたので顔を上げれば、ミサクは心底安堵した様子で、口元をゆるめていた。

「要人の世話となると、色々と尾鰭背鰭のついた噂が出て回るだろうが、貴女ならかわせると信じている」

「ミサク様が、そこまでわたしの事を気にかけてくださる必要はございませんよ」

 眉を垂れて、苦笑を返す。本当にそうなのだ。きっと尾鰭背鰭つきの噂が出回るのは、シズナという少女の方だ。勇者の娘という肩書きは、ヘルトムート王の興味も大いにそそるだろうし、下世話な連中の多いこの国の兵達の好奇の視線の的となるに違い無い。

(わたしが、その方をお守りしないと)

 その時のアティアは、本当に、本当に、心底からそう思っていた。


 なのに何故、運命の歯車は、容赦無く狂ってゆくのだろう。


 ミサクからシズナの世話を頼まれてしばらくした頃、ナディヤが突然姿を消した。昼に買い物へ出て、日が暮れて、一夜が明けても、帰ってこなかったという。家出をする理由などどこにも無かった。恋しい人と結ばれて、幸せに暮らしていたのだから。

 八方手を尽くしたが、足取りは街中で忽然と途絶え、情報の欠片さえつかめず、行方は杳として知れない。更には一週間後、夫も死体となって裏道の用水路に浮かび、両親は息子夫婦の喪失のあとを追うかのように、原因不明の出火で家ごと燃え落ちた。

 たった十数日で、残された家族を全員失ったアティアに、嘆く暇は無かった。故郷の村を滅ぼされた、勇者の娘シズナが、遂に唯一王都にやってきたのだ。

 幼馴染との婚礼の日に、まさにその幼馴染が魔王として覚醒し、村人を虐殺し尽くしたという。その衝撃と、胸に刻まれた傷はいかほどか。アティアには計り知れないが、大切な相手を失った痛みを知る者同士、心のうろを埋めてやりたいという思いだけは、強く胸に抱いた。

 哀しみが過ぎ去るように、笑顔で。心細さを忘れるように、穏やかに。実の姉のように、優しく。本当に心からそう思った。

 ずっと沈んだ表情ばかりしていた彼女が、笑顔を見せてくれるようになった時、

「気分転換になるように、何か本を持ってまいりますね」

 と言い繕って彼女の部屋を出て、柱の陰で、両手で顔を覆い、嬉し泣きに浸った。

 この役目を仰せつかって、本当に幸せで、誇りだ。心からそう思える。守り切れなかった妹の分まで、自分があの純粋な少女を守らねば、と決意を新たにした。

 だが、その時。

「勇者の肝煎りは楽しいですか?」

 ぞわり、と。

 鋭い爪のついた指先で背中を撫で上げるような声をかけられて、アティアはびくりとすくみあがり、それから、ゆるゆると振り返る。初めて登城した時にアティアを案内したあの侍女が、いつの間にか背後に立っていた。最初からとっつきにくい相手であるとは思っていたが、今彼女が帯びる気配は、そんな単純な好悪では言い表せない。彼女の顔から一切の表情は消えて、その瞳には空虚さが宿っている。

 冷たい汗が背筋を伝い落ちる。無意識のうちに一歩退いたアティアを揶揄するように、侍女は口元の皺を深くして、にい、と白い歯を見せた。

「お前の妹は、魔王様の膝元にいます」

 一瞬、何を言われたのかわからなかった。だが、「意味はわかりますね?」と念を押された事で、頭の中で咀嚼をして、愕然と目をみはる。

『我々特務騎士が各地に潜伏しているように、魔族もまた、人の間に溶け込んでいる。僕達でもなかなか見つけ出す事はかなわないから、シズナの世話の際には、重々注意してくれ』

 かつてミサクからそう忠告された。だがまさか、唯一王の手元、こんな至近距離に、魔族が入り込んでいるとは、思いもしなかった。アティアの驚きを置き去りにして、侍女――いや、魔族の女は続ける。

「全ては貴女の行動次第です。勇者が決定的に魔王様に近づく時が来たら、確実に消しなさい」

 そうして、彼女が突き出した手から、ばらばらと、鉱石に似た物体が絨毯の上に落ちる。魔法を使う為の媒体『魔律晶』だ。しかも、全て攻撃に使うものである事は、アティアにもわかる。何の為にこれを今ここに持ち出したか。それを理解出来ないアティアではなかった。

 嘲るような笑みを残して、魔族が背を向ける。今ここで短剣を抜き放ち、その背中に襲いかかれば、息の根を止める事は出来るだろう。だがそれは同時に、ナディヤの心臓も止まる事を意味する。それどころかアティア自身も、いきなり上司を襲った罪人として、アナスタシアの法で裁かれるだろう。周到に張り巡らされた蜘蛛の巣に囚われ、思い切る事はかなわなかった。

 一人残された廊下で、アティアは膝から崩れ落ちる。赤い掌大の魔律晶『火炎律』を手にして、ごつごつしたその痛みが手指に食い込むのも構わずに、強く、強く握り締める。

「……シズナ様」

 ぎりぎりと食いしばった歯から、やがて、呪詛のような声音が洩れる。

「貴女のせいですよ」

 ぽたり、と。零れ落ちた滴が絨毯を濡らす。それでもアティアの口元は笑っていた。

 勇者を守る。妹も守る。それが二律背反と知りながらも、最期の日まで隠し続けねばならない。

 悲壮な決意を固めて、いつかの遠い悪夢の夜明けのように、彼女は泣きながら笑い続けた。

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