第11章:その果てに待つものは(2)

 無駄に甘ったるい。

 休憩室でロジカと隣り合ってソファに座り、カップの中に揺れる珈琲を見下ろしながら、リビエラはそんな感想を抱いた。

 インスタント、というらしい。わざわざ豆を挽いて抽出しなくても、ミルクも砂糖も混ざった粉に湯を注げば、すぐに飲める。だが、やはり手間をかけたものとは味が違う。メイヴィスが淹れる珈琲の方が、比べものにならないくらい美味しい。とはいえ、魔王城での戦いで消耗し、間髪入れず大陸の命運を懸けた決戦に向かう事になって、緊張に満ちた身体に、温かい飲み物はありがたく身に染み渡った。

「あとどれだけ、こうやって過ごせるのでしょうね」

 ぽつりと呟くと、傍らの少年が不思議そうにこちらを振り向く気配がする。その顔を見返す事が出来なくて、珈琲の表面をじっと見つめながら、リビエラは言葉を継いだ。

「貴方と、こうして過ごせる時間」

「前にも言った通り、ロジカの耐用年数は残りおよそ五年と推測する。よって、リビエラと共に過ごせる時間はあと五年弱。あるいは、『神光律』を止める事がかなわなければ、その場で力尽きる」

 いつもなら、「そういう事を聞いてるんじゃない!」と、頭を叩きにかかっていただろう。だが、今のリビエラには、ロジカの言葉を受け入れるくらいしか余裕が無かった。

 そうなのだ。『神光律』を停止させる事が出来なければ、恋だの愛だの抜かしている暇も無く、全てが灰燼に帰する。自分達が今まで歩んできた道も、全てが無駄になるのだ。

「どうして、神なんていたのでしょうね」

 神が世界を創った訳ではなかった。その神もまた、造られし存在だった。ユホという、情愛に狂った一人の女の為に、シュレンダイン大陸の人々は振り回され、傷つき苦しみ、涙を流したのだ。

「神なんていなければ、貴方と出会う事も無かったでしょうに」

 そう。デウス・エクス・マキナが摂理人形テーゼドールを造り出したりなどしなければ、こんなに思い悩む事も無かったのに。ひとつ、吐息をついた時。

「不幸だと思っているか」

 不意に声をかけられて、顔を上げて隣を見る。ロジカが、心無しか不機嫌そうに眉根を寄せて、再度口を開いた。

「リビエラは、ロジカと出会った事を、不幸だと判断するか」

「なっ、なっ、そんな!」

 思わず動揺してカップを取り落としかけ、慌てて握り直す。

「そんな事、誰も言ってないでしょうが!」

 不幸などではない。両親を奪われ、故郷を追われ、信頼していた恩師まで失い、孤独だった。そんな過去をかき消すくらい、エクリュがやってきてからの日々は、目まぐるしく忙しいが、浮き立つ思いもあった。この少年が現れてから、その世界は更に輝き出した。泣く事もあったが、決して不幸などではない、忘れかけていた温かい感情さえ再び心に灯す事が出来た、大切な思い出だ。

「良かった」

 否定された事に、ロジカがふっと相好を崩した。リビエラは思わず目をみはってしまう。彼がこんな風に笑うのを見たのは、記憶の限り、初めてだ。

「ロジカもリビエラに出会えた事は、不幸ではないと感じる。残り少ない生命でも」

 そこで一旦言葉を切り、少年はきっぱりと言い切った。

「君を守り抜いて終える生ならば、ロジカに後悔は無い。これは理屈ロジックではなく、素直な感情だ」

 すぐには言葉の意味を理解しきれなくて、リビエラはぽかんと口を開け、固まってしまった。だが、理解した途端、首から上が一瞬にして沸騰する。リビエラを守ると約束した事を、彼は最後まで果たしてくれる。しかも名前ではなく、「君」と呼んだ。明らかに、彼が理屈だけで動く人形から変わっていった証拠だ。

「この感情につける名前は、まだわからないが」

 それでも良い。もう充分だ。リビエラはぐっとカップの中身を干すと、赤い顔を隠すように軽くうつむきながら、カップをロジカに向けて差し出した。

「……もう一杯、注いでくださいません?」


 展望室の大きな窓から見える空は、夕暮れを終えようとしていた。太陽が稜線の向こうに消え、茜を押しやるように、天は藍色に染まってゆく。

「エクリュ、ここにいたんだ」

 背後から声をかけられて、エクリュは振り向いた。展望室に入ってきたメイヴィスが、ゆるりと微笑んで、隣に並び、空を見やる。

「綺麗だね」「うん」

 しみじみと呟く声に、軽くうなずく。

「オレ達が守るんだ。この空を。世界を」「うん」

 再びうなずく。すると。

「エクリュ」「うん?」

 声色が固くなったので横を向けば、少年は今にも泣き出しそうな顔をして、まっすぐにこちらを見ていた。

「泣いていいよ」

 話の脈絡がわからなくて小首を傾げる。すると、両腕が伸ばされ、優しく抱きすくめられていた。

「オレもわからなかった。ミサクが死んだと思った時、どうして良いかわからなかった」

 ささめくように、メイヴィスの声が耳孔をくすぐる。細いと思っていた腕は案外逞しくて、確かな熱を伝えてくれる。

「でも、良いんだ。弱い所を見せても。悲しい時は、泣いて、全部吐き出して良いんだよ」

 それを聞いた瞬間、エクリュの心を今までおさえつけていた鎖が、切れた気がした。少年の肩に顔をうずめ、目の奥から溢れ出るものもそのままに、しゃくりあげながら本心を吐露する。

「どんな形でもいい、生きてて欲しかった」「うん」

 後悔を口にすれば、少年が優しくうなずく気配がする。

「一緒に暮らしたかった」「うん」

「色んな話をしたかった」「うん」

「お前の美味しいごはんを一緒に食べたかった」「はは、それはどうも」

 ひとつひとつの告白を、メイヴィスは穏やかに受け止めてくれる。どんなに泣いても、喚いても、両親はもう帰らない。その事実を、頭ではわかっていても、心が受け止める猶予が無かった。だが、この少年はエクリュのそんな胸の内を知った上で、声をかけてくれた。今はそれが、何よりもありがたかった。

「君のご両親とは、もうかなわないけど」

 ぽん、ぽん、と。エクリュの背中を軽く叩きながら、メイヴィスが告げる。

「君となら、まだ出来るよ。君の為に毎日ごはんを作って、一緒に食べる事は」

 だから、と真剣な色を帯びた声が鼓膜を叩く。

「だから、必ず一緒に帰ろう。『神光律』を止めて」

 まだ頬はぐしゃぐしゃに濡れていたが、エクリュは顔を上げた。メイヴィスは、元々柔和な顔に更に穏やかな笑みを浮かべて、こちらをじっと見つめている。

「メイヴィス」ふと思い出して、お願いをしてみた。「あれやって」

「あれ?」

「これ」

 メイヴィスが、思い当たる節が無い、とばかりに首を傾げたので、額から頬、首にかけて自分の手でなぞってみせると、「……ああ、それ」と、彼は少しだけ頬を赤くして、それから、エクリュの額に意外と大きな手を触れさせた。前髪を払い、濡れた頬を拭って、温かい指が首筋に触れたので、一回、二回、深呼吸をする。抑え込んでいたものを吐き出したおかげもあってか、気持ちの高波は、次第に凪いでいった。

「ありがとう」

 橙色の瞳を見つめ返して礼を述べれば、その瞳が細められ、吐息が触れ合う距離まで顔が近づく。エクリュの心臓がばくばく言い始めた時。

『はい全員に案内。聴こえてる?』

 室内に設置された『通信律』から突然響いてきたユージンの声に、二人ははっと正気に戻ったような顔をして、他人に見られている訳でもないのにどちらからともなく身を離した。お互いに落ち着きどころを得られなくて、視線を明後日の方向に向けながら手を揉んだり頭をかいたりしていると。

『「神光律」が見えてきた。各自準備をして』

 その言葉に、エクリュとメイヴィスは再び展望室の窓に張りつき、そして、見た。宵の空に浮かぶ、月ではない建造物を。

 神の名を冠した傲慢な要塞は、金属で編まれている事には違い無いが、魔王城の黒とは違い、鈍い銀色の輝きを放って、エクリュ達を待ち構えていた。

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