第6章:彷徨える海域(5)
青年は、時折エクリュの方を振り返りながら、先へ進む。その顔を見る度に、エクリュの胸は、きゅっと締めつけられるような切なさを覚えるのだ。彼の事は知らない。会った記憶も一切無い。だのに、「懐かしい」という感情を抱いてしまう。それが何故なのかわからないまま、ただ彼に導かれるままに歩き続ける。あの場にしかいなかったのか、それとも、彼の存在が退けてくれているのか、亡霊や骸骨が現れる事の無いまま、エクリュ達は、廊下を渡り、手を貸し合ってひとつの船から隣の船へ飛び移り、船体に空いた大穴をくぐり抜けた。
やがて、船の絡み合いがまばらになり、一隻の船が見えてくる。それは、今までここで見たどんな船よりも小さいが、損傷が軽く、帆柱も立っていて、五人でも何とか動かす事が出来そうだ。光明が見えて浮き立つ心のままに駆け出そうとしたエクリュを、しかし、半透明の青年が不意にこちらを向き、手で制した。
何だろうか。小首を傾げると、青年は唇の前に右の人差し指を立てて、反対の手で一方向を示す。そちらを見やり、エクリュは息を呑んだ。
闇に紛れてよく見えていなかったが、白い巨体が、船へ繋がる床板の下に潜んでいる。メイヴィスが釣ってくれた魚に混じって食べた『
「成程」メイヴィスが口元を引きつらせた。「希望を見せておいて、ここを渡ろうとした人間を食べるって寸法だね」
亡霊がうろつく墓場を彷徨った挙句、ようやっと救いが見えた所で、この巨大烏賊もどきの餌食になった者達は、どれだけいるのだろうか。どれだけの絶望を味わったのだろうか。それとも、あの亡霊達が、その成れの果てなのだろうか。
真実を知る術は無いが、とにかく、ここを渡らねば、脱出は不可能だ。何とか打開策は無いかと青年を見やると、彼はエクリュの問いかけを待っていたかのように微笑し、右手の人差し指を立てて、大きく半円を描いた。『宙を飛べ』という意味らしい。
シャンテルクで無意識に使った『転移律』は、再び発動させる事が出来なくなっていたが、空を飛翔する『天空律』は、リビエラから教えてもらった。「わたくしは使えませんけれども」という前置きの元に、何度か練習させられて、短距離を渡る程度ならば可能である。
青年の意図を皆に伝えると、
「妙案です。『天空律』ならばわたしも使えます。全員いっぺんに、は無理でも、時間をかければ向こう側へ渡る事は可能でしょう」
とシステがうなずいてくれた。他の誰も反対はしないから、それが総意のようだ。
そこで、エクリュとシステが二人がかりで一人ずつ運ぶ事にした。前後を敵に挟まれる可能性が無きにしもあらずな事を考慮して、ロジカ、リビエラ、メイヴィスの順で。まず、ロジカの手を二人で握って、烏賊もどきの頭上を飛び越えて隣の船に渡し、気持ち悪そうに巨体を見下ろすリビエラを次に。
そして、最後のメイヴィスを運んでいるところで、怪物の目が、ぎょろりと光るのを、エクリュは見た。
「メイヴィス、システ!」
ぶん投げるように二人を船の方へ放り出す。直後、久方ぶりの獲物をみすみす逃すつもりは無かったのか、烏賊もどきの足が伸びてきて、エクリュの胴に絡みついた。
「エクリュ!?」
メイヴィスの焦りきった声が聞こえた直後、そのまま水中へ引き込まれ、海水が遠慮無く鼻に入り込んで、脳天まで届く痛みに襲われた。
だが、それに気を取られている場合ではない。思わずつむってしまっていた目を開けば、嬉しそうに――そう見えただけかも知れないが――細まる怪物の目玉と視線が絡み合い、ぐいと引き寄せられる。足の奥に隠れていた、剣呑な刃のような歯を持つ口が、待ってましたとばかりに開かれる。
喰われてたまるか。
そう声に出したつもりだが、言葉はあぶくになって水中に吐き出されるばかりで、音にはならない。胴に巻き付かれて剣が抜けないので、エクリュは右手を突き出し、『爆裂律』を発動させた。閃光が弾け、青黒い血が烏賊もどきの口から海中へと溢れ出す。
それが敵の怒りを煽ったらしい。締めつける足の力が強くなった。息苦しくて、何とか呼吸をしようともがけばもがくほど、無駄に泡が口から吐き出されるばかりである。頭がぼうっとして視界が狭まった時、自分の名前を呼ぶ誰かの声を聞いた気がしたかと思うと、柔らかい感触が唇に触れ、空気が口内に入り込んできたので、エクリュは必死に己の意識を現実へ叩き戻した。
幻聴ではなかったようだ。メイヴィスの真剣な表情が、至近距離にある。少年は顔を離すと、エクリュを締めつける怪物の足に短剣を突き立て、深く抉ってゆく。効果はあったようで、胴に巻き付いていた足の力が弱まったので、エクリュは即座にそれを振りほどいて逃れ、メイヴィスが差し伸べた手を取った。しかし、敵もそうそう簡単に諦めてくれる訳ではなく、別の足が二人を絡め取ろうと迫ってくる。
剣を抜こうとした直前、『氷槍律』の鋭い刃が複数、烏賊もどきの目を貫いた。海水が更なる青黒さに染まる。魔法の飛んできた方向を見やれば、システが三つ編みと黒ローブを海水に揺らしながら、しなやかに泳いできて、『逃げましょう』と言わんばかりに上を指差した。
たしかに、リヴァイアサン同様、まともに相手をしていては危険な敵だ。逃げるのが最適解だろう。だが、ここで逃げても、こいつはどこまでもしつこく追ってくるような気がしてならない。ならば、決着をつけるべきだ。エクリュはメイヴィスの手を離して烏賊もどきに向き直り、剣を抜き放った。
途端に襟首をつかまれる。メイヴィスがたしなめたのだろう。だが、エクリュの決意は変わらなかった。先程システが使っていた『大気律』を見よう見まねで発動させてみる。ぽん、と
「成程。その使い道は有効です。今まで考えつきませんでした」
声に振り返れば、システも同じように『大気律』を自分の顔にまとわせていた。
「エクリュは我々から見れば突拍子も無い行動を取るので、大変興味深いですね」
一瞬、彼女が微かに笑ったように見えたが、すぐにそれは消え、元の無表情を取り戻し、メイヴィスにも同じ魔法を施す。
「エクリュ、本気?」メイヴィスが戸惑い気味に訊ねてくる。「こいつを倒そうっての」
「いつかは倒さなければ、ここに流れ着いた人間は、必ずこいつに喰われる道を辿るだろう?」
たとえそれが見知らぬ相手でも、ここ一帯に漂う亡霊達の仲間がこれ以上増えるのを見過ごす訳にはいかない。エクリュは碧の瞳に決意を宿し、メイヴィスを見すえる。
話し合いの隙に、烏賊もどきの足がこちらに向けて伸びてくる。だが、頭上から降ってきた『爆裂律』が、足を三本、いっぺんに吹き飛ばした。この威力の高さは、ロジカだろう。リビエラが『昂揚律』を使って魔力を更に上げているかも知れない。
「水上はロジカとリビエラに任せて、わたし達はこのまま、海中でこの敵を相手取りましょう」
女二人の本気を受けて、メイヴィスも腹をくくったらしい。「仕方無いな」と溜息を吐いたが、すぐに橙の瞳に戦意を灯すと、短剣を構え直した。
迫りくる怪物の足を、エクリュとメイヴィスは武器で、システは魔法で、切りつけ、薙ぎ払い、貫く。時折頭上からロジカの『爆裂律』や『氷結律』が援護弾として降り注ぎ、烏賊もどきの頭の表面を削ってゆく。やがて、敵の目が弾け飛び、その下でどくどくと脈打っている内臓が見えた。
「エクリュ、あれが心臓!」
メイヴィスに言われ、『加速律』で矢のように飛び込んでゆく。振りかぶった剣を心臓に沈み込ませれば、青黒い血がぶわりと視界を覆い、おおおおお……と、
「やった……」
リヴァイアサンの時は失敗してしまったが、今度は倒せた。しかも、五人全員の力を合わせて。体験した事の無い昂揚感に、思わず笑みが洩れてしまう。
ところが。
水底に沈んでゆこうとする巨大烏賊もどきの心臓から、黒く平べったい宝石のような物がふわりと浮いてきた。魔律晶だ、と認識した瞬間、それは光を放ち、直後、突然海流が乱れた。
「『濁流律』……!」
システが少しだけ驚きの色を乗せた声も、激しく渦巻く水の中へと飲み込まれる。エクリュ達は、手足を千切られそうな水流に巻き込まれて、何とか抜け出そうともがくが、足掻けば足掻くほど、渦に翻弄されるばかり。
間近にメイヴィスの姿が見えて、エクリュは咄嗟に彼の腕をつかんだ。離さないよう、必死に引き寄せて、抱き締める。『大気律』の効果はとっくに消え失せて、このままではこの渦の中で溺死しかねない。うっそりとした恐怖が胸にするりと忍び込んできた時。
『エクリュ』
耳を塞ぐ海流の中、そっと呼びかける声を、エクリュはたしかに聞いた。これは、シャンテルクで自分を叱咤してくれた声と同じだ。
頬に大きな手が触れる気配がして、そちらに頭を傾ければ、先程まで自分を導いてくれた青年が、寂しげに微笑っている。
『すまない、今の俺には、ここまでしかお前を助ける事が出来ない。だけど』
その手が光って、『転移律』を発動させたのがわかる。
記憶が途切れる直前、エクリュは青年の声の続きを、はっきりと聞き取った。
『お前が困難を乗り越えて、会える日を、待っているよ』
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます