第6章:夢惑(むわく)の森に銃声は響かない(1)
世界は鈍色だった。
太陽の光差さぬ暗い広間の壁には、人二人が両腕を広げたくらいの間隔で、赤い光を放つ鉱石のような灯りが据えられている。魔律晶の一種、『燈火律』だ。
だが、そんな事はどうでもいい。黒い巨石から掘り出した玉座に座る男は、肘掛に頬杖をついてもたれかかり、深々と溜息をついた。この一年で伸びた紫の髪を高い位置で結い、同じ色の瞳は、ぼんやりと魔律晶の光を映している。
それが、今代の魔王アルゼストと人々に恐れられるようになったアルダの、今の姿であった。
「魔王様」
意識して艶を帯びた声が、薄暗い広間に響く。闇から滑り出すように現れたのは、黒髪に金色の瞳を持つ妙齢の女。かつてアルダの祖母ユホを装っていた彼女は今、なまめかしい身体をことさら強調し太腿がのぞく赤の服をまとって、わざとらしく尻を振り色気をまき散らす歩き方をしながら、アルダの傍へやってくると、たっぷりの紅をのせた唇を彼の耳元に寄せ、囁くように告げた。
「勇者エルストリオの娘が、貴方様を討つ為に、唯一王都を旅立ったそうですわ」
アルダは応えない。一瞬、ユホの方に視線だけを向けはしたが、すぐさま興味を失ったように逸らして、まぶたを閉じる。
彼の対応に構わず、ユホは波打つ黒髪を揺らして顔を上げると、拳を握り締めた両手を掲げ、憎々しげに声を荒げた。
「勇者、勇者、勇者! ことごとく我ら魔族の邪魔をしてきたにっくき血族! 獣より愚かなアナスタシアの下僕!」
そう激昂したかと思うと、次の瞬間には、激情が嘘のように笑みを閃かせて、アルダにしなだれかかり、魔王の頬に手を滑らせる。
「アナスタシアは、貴方様の世継ぎもあの娘から奪い取って、手の届かぬ場所へやってしまったとの事」
アルダの口元が引きつるのをユホは見逃さず、満足げに唇を三日月形につり上げた。
「あんな無体を働く王国の尖兵より、もっと相応しい相手が、魔王様にはおりまする。さあ、あんな娘の事などお忘れなさいませ」
そうして、唇を唇に押しつける。深い口づけを試みようとしていた女はしかし、アルダが鬱陶しげに腕を振るってはねのける事で、目的を果たせなかった。
「やめろ」
顔をしかめながら、しかし単調に魔王は吐き捨てる。
「お前は俺の祖母ユホだ。祖母にそういう事を求めてなどいない」
ユホはしばらくの間、口づけを中断させられた唇を手でおさえ、金色の瞳を見開いて、屈辱に打ち震えていたようだった。だが。
「下がれ。一人にしろ」
魔王の言葉に彼の部下は逆らえない。ユホはぎりっと歯噛みしたものの、胸中にくすぶる炎を制したか、優雅に礼をすると、踵を返す。
靴音が遠ざかり、女の気配が闇に消えるのを視覚以外で感知したアルダは、深々と溜息をつき、頭を抱える。まるで魔王の名に相応しくない醜態だったが、威厳ある魔族の王に見えるかどうかなど、正直彼にとっては考えの外であった。
脳裏に描く。陽の光の下、流れるような金色の髪を輝かせ、碧の瞳を細めて笑う、少女の顔を。
彼女が産んだ子というのは、間違い無く自分の血を引いているだろう。我が子を抱く事すら許されなかったという彼女は、どんな思いで王都を発ったのか。
今すぐ会いにいきたい。自分より遙かに華奢な身体を抱きすくめて、慰めたい。
愛していた。いや、今も愛している。だが、それは自分には許されぬ感情だ。
魔剣『オディウム』を手にしたあの日、魔剣から流れ込む衝動に任せるまま、魔王に相応しい残虐な光景を彼女に見せつけた。彼女はきっと、彼女の両親を手にかけた自分を憎んでいるだろう。魔剣を言い訳になど出来ない、あれは紛れも無く自分がもたらした結果だ。もしかしたら、自分の子を産んだ事さえ、汚らわしいと疎んじているかも知れない。
自分に彼女を再び抱き締める資格など無い。そう思うのは、罪の意識のせいだけではない。この、歴代の魔王が住まった城に来て知った一つの事実。それがアルダの世界を絶望で満たした。
自分には誰かを愛する権利など無い。そう思い知った。そもそも生きる資格さえあるのか、今となってはわからない。
この色が失われた呪われし生を彼女が終わらせてくれるなら、望むべくも無い。
ならば、どうか。と、アルダは願う。
(シズナ)
誰よりも愛しい少女の剣が、自分の心臓を貫く事くらい、夢想しても良いだろうか、と。
(シズナ)
その名を繰り返しながら髪をかき乱す彼の左手で、銀色の光が、静かに赤の灯を照り返していた。
セレスタの粗暴騎士達については、村人達とシズナ一行の証言を得た告発状をミサクがしたため、村人の中に混じっていた特務騎士の一人に託して、騎士達ごと引き立てていった。
「特務騎士は、一般人に溶け込んで任務に就く者が多い。僕のように顔が割れている人間の方が少ない」
ミサクが何という事でもないかのように、しれっと言い放ちながら、部下に告発状を渡していたのを、シズナは最早言葉を失って見ているしか出来なかった。
「魔族の手先が!」
「魔物を倒して味方の振りして」
「魔王と手を組んだ魔女だ!」
「死んじまえよ、悪魔!」
後ろ手に縛られて護送の馬車に乗り込まされる時、不逞騎士達は口々にシズナを罵った。そのあまりの口汚さにシズナが閉口していると、「シズナ」とミサクが囁きながらこちらの腕を引いてその場から離れ、二人きりで村はずれに行く羽目になった。
他に人のいない場所で、それでもミサクはこの話を切り出して良いものかどうか迷っているようだったが、やがて決断すると、
「貴女には辛いだろうが、知らせておかなくてはいけない事がある」
と向き直り、口を開いた。
「今までは貴女の心身に負担をかけまいと黙っていたが、魔王アルゼストの名と脅威は、最早唯一王国中に広まっている」
出てきた名前に息を呑む。シズナが衝撃を受けるのを待っていたかのように一拍置いて、ミサクは言葉を続けた。
「魔物の襲撃は、セレスタに限った事ではなく、各地で増加する一方だ。この一年だけで、過去十七年間のそれを軽く上回る」
魔王が現れた途端に増えた魔物。それが誰の意図によるものか、人々が答えに至るには容易いだろう。
「知っていれば、貴女を勇者ではなく、魔王の妻として、悪しき言葉をぶつけてくる輩も増えるだろう。僕も出来るだけそういう事態からは守るつもりだが、どうか、心に留めておいてくれ」
そうして、こちらの肩を軽く叩き、騎士はシズナの脇をすり抜けて村の中へと戻ってゆく。だが、シズナは一人立ち尽くしたまま、愕然と目を見開いているしか出来なかった。
アルダ。いや、魔王アルゼスト。彼はそこまでして、アナスタシアを、人類を滅ぼしたいのだろうか。想像すれば、唇も、握り締めた手も、小刻みに震える。その震えを視界に入れれば、左薬指で輝く銀の指輪がいやでも目に映った。
彼はもう、これを捨ててしまっただろうか。シズナの事などどうでも良いと思っているだろうか。ならば自分ももう腹をくくって、勇者として彼と対峙する日を迎えねばならないだろうか。
すっと指輪を引き抜き、右手で握り込む。振り返れば、おあつらえ向きに川の流れが滔々とある。
愛情も、その証も、失くなってしまえば良い。右手を振りかぶって、しかし、その手は中途に止まり、のろのろと腕を下ろして、シズナはその場にしゃがみ込んだ。
『シズナ』
脳裏に蘇るのは、優しく自分を呼ぶ、少年ぽさを残す声。だが、その姿を思い出そうとすれば、まぶたの裏に浮かぶのは、炎の中冷たい光をたたえた紫の瞳。
どちらが本当の彼なのか。どちらを信じれば良いのか。迷いを捨てきれない己の不甲斐無さに苛まれ、シズナは歯を食いしばり呻きを洩らす。
だが、出て欲しいはずの涙は、この一年で涸れ切ってしまったのか、零れる事が無かった。
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