第3章:好奇と敵意と親愛と(1)
硬い木と薄い布団の感触が、肌に心地良い。慣れず埋もれそうな羽根布団よりも、故郷の自室を思い出してずっと良い。安堵感に包まれながら、シズナはゆるゆると朝の覚醒へと誘われた。
国王への謁見が終わった途端、シズナは用意されていた豪奢な部屋ではなく、狭く薄暗い、使用人が使うという部屋へと連れて行かれた。ベッドとテーブルと椅子、最低限の調度品しか無い一室で突っ立っていると、アティアが蒼白な表情をして駆け込んできて、
「ああ、シズナ様。陛下のお怒りを買うなんて」
と、シズナの肩にとりすがって深い溜息を洩らした。
彼女の説明によると、シズナが人妻であった事が、ヘルトムート王の癪に障ったらしい。あれだけ贅を尽くした部屋は、夜に国王の訪れがある為の用意だったらしく、王の興味を失ったシズナには必要無いと、あっさり取り上げられてしまったのだ。
そんな意味があったのか。背筋がぞっとすると同時に、さっさとあの老王の下心から逃れられてせいせいしたと、シズナは内心胸を撫で下ろしたのであった。
お姫様並の待遇でなくなったとはいえ、仮にもこの大陸で唯一人の勇者を、下女として扱う訳にもいかなかったらしい。アティアが世話係から外される事は無く、食事も、故郷の村では味わう事が出来ないような、鮮魚のカルパッチョやとうもろこしのポタージュ、牛のフィレ肉ワインソースがけにレアチーズケーキタルトなどを食す事が出来た。
そうして王都での最初の一日は終わり、新しい朝を迎えたのだが、何をどうするべきか。一人で寝間着から着替えて髪をまとめ、少々がたついた窓を開けて、ぼんやりと朝の涼しい風を身に受けていると、部屋の扉が叩かれ、シズナの応えを待ってから開き、
「おはようございます、シズナ様」
アティアが背筋の伸びた挨拶をして、「まあ!」と目を丸くした。
「シズナ様ったら、わたしのお手伝い無しで、もう身支度を終えられてしまったのですね」
そういえば、彼女は自分の手伝いをするのが仕事だったか。つい村での癖で、また彼女の出番を奪ってしまったらしい。
「あ、ごめんなさい」
慌てて頭を下げると、「いいえ」とアティアはやんわりと微笑む。
「もう国王陛下の口出しはありませんでしょうから、シズナ様のお気に召すままに振る舞ってくださいな」
ただし、わたしとシズナ様との秘密ですよ、と、侍女は唇の前に指を立てて笑った。
テーブルに着き、アティアの配膳で、パンとスープと果物、そして南方で採れる、炒って砕いた豆から淹れる、珈琲という飲み物を摂る。
「おはよう」
そんな軽い朝食を終える頃、騎士服に身を包んだミサクが姿を現した。
「こんな部屋では充分に眠れなかっただろう。すまない」
何故彼が謝るのか。シズナはきょとんと目をしばたたき、それからふるふると首を横に振った。
「とんでもない。家の枕と変わらない感覚で、ぐっすりだったわ」
それを聞いたミサクが目を点にし、アティアの方を向く。侍女は眉を垂れて軽く肩をすくめた。
「思っていたより根性があるな、貴女は」
ミサクは冗談めかして苦笑し、それから真顔になって告げた。
「今日から貴女には、勇者としての力をつける為の訓練を受けてもらう。とりあえず今日は、午前は座学でこの国の基本的な常識について学び、午後には剣と魔法の腕のほどを見せてくれ」
「わかったわ」
騎士に頷き返しながらも、シズナの胸には一抹の不安がよぎる。村を出た以上、アナスタシアの社会通念に従わなければならない事は、シズナにもわかる。剣はアルダと共にガンツにみっちり教わった。だが、魔法は全く未知の領域だ。腕前を見せろと言われても、何をどうすれば良いのか全くわからない。
シズナのそんな不安を、ミサクも承知の上らしい。
「まあ魔法は、腕を見るというよりは、どの程度の説明でどの程度のものを使えるのか、適性を判断するだけだから、そう構えないで良いさ」
と天気の話でもするように、片手を振りながら付け足した。
太陽が中天を過ぎる頃、王城の中庭に構えられたアナスタシア騎士団の訓練場には、多くの人間がつめかけていた。騎士だけでなく、下級の兵士や昼休みの召使いにメイド達。誰もが興味津々といった様子で、主役の登場を待っている。
そして、軽い革鎧をまとった金髪に碧眼の少女が現れた途端、彼らは一様にどよめいた。
「あれが勇者エルストリオの忘れ形見か」
「
「という事は、あの若さで人妻か? ひゃっ」
「山奥は早熟ねえ」
勇者の娘、というよりは、ヘルトムート王の寵を受けなかった事の方が、彼らの好奇心をくすぐるらしい。下世話な会話が遠慮会釈無く飛び交っている。シズナはそのことごとくを聞き流しつつ、訓練場の真ん中へと進み出た。
「本来ならば、僕が相手をするのが筋だが」
向かい合ったミサクが右手を顔の前に掲げ、軽く振る。
「僕は事情があって剣を持てない。代わりに彼と手合わせをしてくれ」
その言葉に応じてシズナの前にやってきたのは、背が高く筋肉質な、赤毛の騎士だった。歳の頃は二十代後半だろうか。かなりがたいが良く、シズナは少し顔を上げて彼の色の薄い瞳を見る姿勢になってしまう。
「イリオスだ。よろしくな」
騎士は野太い声で挨拶し、握手を求めてくる。シズナも手を差し出して相手の手を握ると、不意に強い力で引っ張られ、イリオスのがっちりした腕の中に抱き締められる形になっていた。たちまち観衆からやんやの歓声があがる。
「油断しすぎだぜ、嬢ちゃん」ねっとりとした声が耳を撫でるのが、気持ち悪い。「嬢ちゃんみたいな可愛い女が戦場にいたら、変な気を起こす奴が出てきても不思議じゃねえぞ」
似たような事はアルダにも言われた。
『戦場で君を見初めた敵がいたら、こんな不意打ちを仕掛けてくる可能性だって、無きにしもあらずだろう?』
と口づけを落とされた。だが、相手は愛するアルダだったから許せたのだ。このイリオスという男の行為が、言葉が、その奥に垣間見える下心が、全てが気持ち悪い。
シズナがぎんと男を睨み、腕を振り払って突き放すように距離を取ると、それでもイリオスはにやにやとした笑いを崩さないまま、兵が持ってきた、刃を潰した練習用の剣二振りを手に取る。
「賭けようぜ、嬢ちゃん」
その一振りをシズナに投げ渡しながらイリオスは宣誓した。
「一本勝負だ。あんたが俺から一本取れたら、俺は何でもひとつ、言う事を聞こう。だが、俺があんたから一本取ったら」
にやり、と、口元がいやらしい三日月を象る。
「抱かせろよ」
たちまち観客から冷やかしの声と口笛が飛んだ。
「魔王の嫁なんだろ? 寂しさを埋めてやるぜ」
シズナは目を見開いて絶句するしか無かった。何て下世話な連中だろう。国王といい、この騎士といい、この城にはまともな感性の男はいないのか。
こんな無礼な男に屈服する気は無い。そもそも、アルダ以外にこの身を捧げるつもりは毛頭無い。シズナは碧眼に決意の光を宿らせると、無言で剣を正眼に据える。イリオスはにやけ顔のまま、片手でシズナを指し示すような構えをした。
二人からやや離れた位置に立ったミサクが、眉をひそめて嘆息しているのが横目でうかがえる。彼だけはこの馬鹿げた場で正気を保っているようだが、勝負を止める権限は無いらしい。すっと手を頭上に掲げると、
「始め!」
と、空気を叩く一声と共に、勢い良く振り下ろした。
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