5-6 捜査にとって大切なもの

 署に戻った私は、みんなと一緒に生田係長の元へ向かうことにした。最後の望みである遠藤の説得が実現するまで、なんとしても生田係長を足止めすることを三人で話し合って決めた。


 川沿いに建つ古ぼけたアパートが、被疑者の住まいだ。といっても、被疑者の男は住所を転々としていて、生田係長の言うとおり、いつ飛んでもおかしくはない生活をしていた。


 アパート近くの駐車場に見慣れた捜査車両を見つけ、私は林巡査部長に合図して車を近くの空き地にとめてもらった。


 ここからは我慢の時間だった。生田係長に気づかれないように遠藤の到着を待つ。時刻は午後四時を過ぎたところだから、被疑者が帰ってくるまで一時間しかない。その間に遠藤が来てくれればいいけど、もし間に合わない時は、三人がかりで足止めしなければならない。


 ――お願いだから来てください


 刻一刻と時間だけが過ぎていく中、私は天に祈るように何度も遠藤の到着を願い続けた。ガサ入れの予定時刻は告げてあるから、どんなに遅くても午後五時までには来るはず。それを過ぎれば、遠藤が現れない可能性が飛躍的に上がってしまう。


 貧乏ゆすりを繰り返す中、時刻は午後四時三十分を過ぎた。町外れにあるエリアのせいか、車も人も通る気配はない。動かない景色だけを焦る気持ちで見つめる中、ようやく待望の車が現れたのは、午後五時まで残り十分を過ぎたところだった。


 ゆっくりとアパートの前を通り過ぎた車は、やがて生田係長の乗る捜査車両の横を通り過ぎてこっちに向かってきた。私は焦る気持ちに押されるまま車を降り、手を上げようとして動けなくなってしまった。


 ――あのメガネは、監察官じゃない!


 夕日を反射するフロントガラスの向こうに見えた影に、私は絶望的な思いで車に戻った。


「浅倉、元奥さんが来たの?」


 アパートの駐車場脇にとまった車を指差しながら、東田が期待を含んだ眼差しを向けてきた。


「いえ、監察官でした」


 項垂れながら答えると、東田がシートに崩れ落ちた。予定時刻の午後五時まで残り五分となっている中、私の返事はある意味でゲームオーバーに近かった。


 ――もう、何してるのよ!


 たまらずスマホを取り出し、遠藤に電話をかけた。真冬の中、エンジンを切った車内は冷蔵庫のように冷えきっているというのに、滲み出る汗が止まらなかった。


 ワンコールがやけにもどかしく感じる中、数回のコールで電話は留守番電話に切り替わった。何度トライしても結果は同じで、汗ばんだ手でスマホを握りしめるしかなかった。


 考えさせてください――。


 遠藤がそう答えた時に見せた表情を思い出す。困惑しながらも、何かを決意するような力強い瞳が確かにそこにあった。言葉にはできないけど、確かにあの時交わした視線に嘘はなかった。


 もう一度電話をかけようとしたところで、後部座席から東田が「あ!」と叫ぶ声が聞こえてきた。何事かと指さす方を見た瞬間、私はスマホを落としそうになった。


 橋の上をゆっくりと走る自転車。その自転車に乗っているのは、間違いなく生田係長のターゲットである、被疑者の男だった。


 ――お願い、電話にでて!


 一気に力が抜けていくような感覚と、背筋を走り抜ける恐怖が襲ってきた。震える手でスマホを操作し、叩きつけるように耳へあてる。もう姿を見せるのは絶望的だから、せめて声だけでも聞かせればと願いを込めた。


 けど、そんな私の願いを嘲笑うかのように、電話は留守番へと切り替わった。


「浅倉さん、係長が車を降りた」


 絶望感で思考が止まりかけたところに、林巡査部長の悲痛な叫びに似た声が聞こえてきた。見ると、被疑者の男が乗った自転車はアパートの敷地に入っていくところで、その後を追うように生田係長が車から降りて歩きだしていた。


「係長!」


 弾けるように車から降りた私は、力の限り叫んだ。私の後を追うように、林巡査部長と東田が係長の名前を叫んだ。


 ――もう、当たって砕けるしかない!


 三人の叫び声に気づいた生田係長が、歩みを止めて振り返った。私はもつれる足で走り、生田係長のもとにたどり着いた。


「何しに来た」


 生田係長がやつれた顔を怒り顔に変化させながら一喝してきた。


「係長、聞いてください。七海ちゃんは無事なんです。遠藤さんに会って話を聞きました。連れ去り事件なんてなかったんです。全部嘘だったんです」


 荒れる息もかまわずに、膝に手を置いたまま一気にまくし立てる。さらに、林巡査部長と東田の援護射撃が続き、生田係長の顔から怒気が引いていくのを感じた。


「話はそれだけか?」


 一瞬、理解してくれたかと思ったけど、生田係長はすぐに険しい顔つきに戻った。


「嘘にしては上出来だな」


「嘘じゃありません。本当のことなんです!」


 生田係長が全く信じていないとわかり、私は懸命に事情を訴えるように説明した。


「なあ浅倉、捜査にとって大切なものは何だかわかるか?」


 目を閉じ黙って聞いていた生田係長が、目を開けると同時に重みのある声で尋ねてきた。


 その問いに答えきれずにいると、生田係長が目を細めて笑みを見せた。


「捜査にとって大切なもの、それは証拠だ。人間はな、感情や状況次第でいくらでも考え方を変えることができる。さっきまで笑っていたのが急に泣き出したなんて珍しくないだろ。だから、そんな不安定な人間の証言よりも、確たる物的証拠を信じるの捜査の鉄則なんだ」


 いつもなら怒鳴り声で教えてくれそうなことを、まるで赤子を諭すかのように柔らかい口調で生田係長が教えてくれた。


「浅倉が俺のことを想って動いてくれているのはわかる」


「だったら、こんなことはやめて帰りましょうよ。証拠は今は用意できませんけど、必ず示してみせますから。だから、一緒に帰って、いつものエロ馬鹿係長に戻ってくださいよ」


 いつの間にか溢れだした涙のせいで、生田係長へのお願いが嗚咽に変わっていた。結局自分は何もできていなかったという事実が悔しくて、情けなさ過ぎて涙を堪えることができなかった。


「悪いな、浅倉」


 話は終わりとばかりに、生田係長が背を向けた。なおも説得しようとした私の肩を、東田が掴んできた。


「浅倉、もう十分だよ。あんたはやるべきことやったんだから、後は私たちに任せて」


 いつもよりキレのないウインクをした東田が、私に車へ戻るように促してきた。


「浅倉さんは先があるから、ここで躓いたら駄目だよ」


 呆然と立ち尽くす私に、相変わらず下手くそな腹話術をやりながら、メロリンが私の肩を叩いてきた。


 もう止めるのは無理だ――。


 そんな絶望感に包まれながら、被疑者のアパートに向かう三人の背中を見送っていたところに、私のスマホが鳴り出した。


「浅倉さん、すみません」


 表示された番号を確認し、慌て電話にでた私を、遠藤のしんみりした声が再び絶望に陥れた。


「どうして来てくれなかったんですか!」


 抗いようのない苛立ちを抑えきれず、私は嗚咽に詰まりながらも気持ちをストレートに伝えた。


「すみません。やっぱり私では、生田を説得するのは無理なんです」


「なぜです? 例え声に気づいてもらえなかったとしても、姿を見せて説得すれば、私ではなく貴女が説得すれば、生田係長もわかってくれたかもしれないのに!」


 溢れだした気持ちはもう制御できなくなっていた。私に説得できる力がなかったことへの悔しさと、説得できる可能性があったのに来てくれなかった遠藤への苛立ちが混ざり合い、私は考えることもできないまま、感情の全てを遠藤にぶつけてしまった。


「浅倉さんには、大変ご迷惑かけました。でも、私では説得できないこともわかってもらえたらと思います」


「でも」


「浅倉さん、私では無理ですが、一人だけ生田を説得できる人物がいます。その子を連れて来ました」


「え?」


 電話口から伝わってくる柔らかい声。その声は、確かに「連れてきた」と言った。


「浅倉さん、ですか?」


 思考が回り始めるのと同時に、誰かに名前を呼ばれた。慌てて振り向いた瞬間、私は大きく息を飲んだ。


 紺色のコートにスカート、白い靴下とスニーカー姿は、一見して学生だとわかった。それよりも、彼女の芯のある眼差しに釘付けになった。長い艶やかなストレートの黒髪を除けば、目の周りや堀の深い顔立ちは、生田係長を連想させるには十分だった。


「はじめまして、遠藤七海です」


 戸惑いながらも、はにかみながら頭を下げた遠藤七海を見た瞬間、私は返す言葉もなくその場に崩れ落ちた。

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