3-2 父を覆う黒い影

 市内の総合病院、そのカファレンスルームに着いた時には、母と兄が神妙な顔つきで席に座っていた。エプロンを外すのも忘れている母が、私の顔を見るなり憔悴した顔で立ち上がった。


「お父さんの容体は?」


 連絡を受けて半日近くが過ぎている。カンファレンスルームに着いた時、医師とすれ違ったから、手術の結果は既に知らされているはずだった。


「この二、三日がヤマだとよ。いつ死んでもおかしくないそうだ」


 父譲りの巨体を椅子に沈め、不機嫌そうに腕を組んだ兄がぶっきらぼうに吐き捨てた。


 ――え? お父さんが死ぬ?


 兄の予想外の言葉に、軽い目眩が襲ってきた。家では絶対的存在で、誰の意見にも耳を傾けることなく自分を貫き通した父が、今は生死の境をさ迷っているという。


「刃物で数ヶ所刺されたみたい。一命はとりとめたんだけど、出血と臓器の損傷が酷くて予断を許さないんだって」


 必死に笑顔を浮かべていた母の目から、言い終えると同時に大粒の涙が溢れ落ちた。


「とりあえず、お父さんの様子を見に行こう」


 母を落ち着かせるために、手を取って笑ってみせる。母も暗い顔に辛うじて笑顔を見せてくれたけど、精神的なダメージは隠しきれていなかった。


「俺は帰るからな」


 兄に声をかけるより先に、兄からぶっきらぼうな声をかけられた。


「なんで? お父さんの様子を見て行かないの?」


 これで終わりとばかりに立ち上がった兄に、私は苛立ちを隠さずに声に出した。


「勝手なことしてきた罰だろ? いつ刺されてもおかしくない生き方してるのが悪いんだろうが」


 俯いたままの兄から出る恨みのこもった言葉。高校卒業後、家から逃げるように都会の大学へ行き、地元の会社に就職したというのに家に寄りつかない兄にしてみれば、こうして呼び出されたことも迷惑でしかないらしい。


「ちょっと、兄さん」


「美香、やめなさい」


 兄の態度に頭にきた私は、出て行こうとする兄の腕を掴んだ。でも、私の手を母が厳しい眼差しで払いのけた。


「美香、お前も親父の後なんかついて行ったら、いつか刺されるぞ」


 捨て台詞を残し、兄は一度も振り返らずに出ていった。


「美香、ごめんね」


 気まずさと後味の悪い空気を察してか、母がか弱い声で呟いた。私しは母の手を握って笑顔を返す。兄に対して頭にきたのは本当だけど、心底頭にきたかと言われると複雑な気持ちだった。


 他人の意見など聞かない父は、家の中では絶対的な存在であり、それ故、兄も私も幾度となく反発したけど、話を聞いてもらえたことはなかった。その為、特に厳しく躾られた兄の不満はひどく、家の中では父との会話は皆無だった。兄にしてみれば、他とは違う異様な家族に辟易していたのかもしれない。進学というよりも、家から逃げたというのが正解なほど、大学入学後は父と音信不通を貫いていた。


 私も、刑事としての父は尊敬できるけど、家の中の父は大嫌いだった。警察官になったのも、あるきっかけで刑事としての父の背中を見たからに過ぎない。そのきっかけがなかったら、兄と同じように家を飛び出して音信不通を貫いていただろう。


 だから、兄を怒る気持ちも恨む気持ちも、心の底では本気になれなかった。


 案内された集中治療室へと向かう。大がかりな装置に囲まれたベッドの上に横たわる父の姿に、私は言葉を失うということを初めて痛感した。


 隣にいた母がふらふらと父の手を握る。大黒柱の面影がない小さくなった父を、母は「困った人ね」とだけ呟きながら、一粒の涙を落とした。


 あれだけ強く絶対だった父。その父が死の瀬戸際にいるということに、こうして対面しても不思議と実感が沸かなかった。




 署に戻った時には、日も暮れて署内は当直体制に入っていた。いつもは静かな時間帯なのに、二階にある大広間だけは、父に対する殺人未遂事件の合同捜査本部が設置されているせいか、いつにない喧騒を漂わせていた。


 署に戻るなり、署長に呼び出された私は、刑事部屋の先にある取調室に向かっていた。父のことで労いの言葉があるのかなと思ったけど、場所が場所なだけに嫌な予感を抱えたまま取調室のドアをノックした。


 応答にあわせてドアを開けると、気難しい感じを漂わせた男が二人座っていた。どちらもスーツを着ているから、現場関係者ではないことが予想できた。


「手短に済ませたいから、協力して欲しい」


 生田係長と同年代の眼鏡をかけた男が、名刺を差し出しながら冷えきったような声をだした。名刺を受け取ろうとしたけど、無言で男は名刺を内ポケットに戻した。一瞬だったから名前までは目で追えなかったけど、所属は県警本部監察課になっていた。


 監察官というと、警察の中の警察と呼ばれる人で、いわゆる、警察官の不祥事に対して取り調べをする人たちだ。その人たちに呼び出されたということは、何かしらの不祥事があったということになる。


 思い当たる節が生田班には一杯あったけど、監察官が対象にしているのは、意外にも私の父だった。聞き間違いかと思って聞き直すと、やたら体躯だけには恵まれた隣の男に「質問にだけ答えればいい」と一喝された。


「お父さんの女性関係で気になることはなかったか?」


 椅子にふんぞり返った眼鏡男が、レンズの奥の瞳を光らせながら問いかけてくる。内容も内容だけど、それを実の娘に問い尋ねる無神経さに腹が立った。


「父に女性関係なんかありません。仕事しか興味のない人でしたから」


 怒りを我慢したつもりだけど、態度は隠せなかったみたいで、大柄の男が舌打ちしながら「あのな」と前のめりになってきた。


「気持ちはわかるが、私情を捨てて協力して欲しい」


 眼鏡の男が大柄の男を制止ながら、頬杖をつく。その態度からして、二人が父をよく思ってないのは明らかだった。


「事件があった時に、お父さんは女と会っている」


「え?」


 突然切り出された内容に、私の頭は冷水を浴びたように一気に熱を失った。


「事件現場は、駅裏の繁華街だ。そこで、お父さんは女と会っていた。しかも、病院に行くと嘘をついてだ。その上、これが出てきた」


 眼鏡の男がポケットから一枚の写真を取り出して机の上に置いた。視線で断りを入れ、画像を確認する。写真には、路上に置かれた一万円の束が写っていた。


「お父さんは女と会う前に、駅前の銀行で二百万用意している。現場には数万足りなかったが、恐らくは女に渡そうとしたはずだ」


 そこを何者かに襲われた。もしくは、女とトラブルになったか。事件が起きたのは午前九時過ぎという、繁華街にとっては眠っている時間だった為、目撃者もなく捜査は難航していると付け足してきた。


「捜査の為にも情報が欲しい」


 眼鏡の男からは感情の波が感じられなかった。努めて冷静に協力をお願いしている感じだった。


 だから、眼鏡の男が言った言葉が嘘だとすぐにわかった。眼鏡の男は捜査に興味なんかない。あるのは、繁華街で嘘をついてまで女と会った理由のはず。しかも、そこに現金二百万が絡んでいる。遊びに行くには大金過ぎる金額が、ただの情事でないことを示していた。


 つまり、眼鏡の男は父のスキャンダルを恐れているのだろう。現役の幹部が、繁華街で大金を手に嘘をついてまでして女と会っていた。こんなことがマスコミに漏れたら、警察組織が叩かれるのは誰にでもわかるだろう。


 その為に監察が動いた。スキャンダルから組織を守る為なら、眼鏡の男は父の身分に構わず厳しい処分を下すはず。警察がそういう組織だということは、さすがに私も知っている。


「父は、やましいやりとりをするような人ではありません」


 そう言うだけで精一杯だった。組織人としても、父親としても厳格だった父が、女性関係でトラブルを起こすことなど想像もできなかった。


 その後、当たり障りのない取り調べが終わり、二人が席を立った。去り際に、大柄の男が吐いた「余計なことをしやがって」という父に対する侮辱の言葉だけが、いつまでも頭の中に響き続けた。

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