第147話 鈴星への想い


伯斗はいぶかしげな表情でその青年を見ると、少し考える素振そぶりをしてから、ゆっくりと口を開いた。


「さあ、残念ながらその様な人物は知りませんね…」

「そうですか…」

それを聞いた青年は、酷く落胆した様子で肩を落とし、「では…」と小さく頭を下げて立ち去ろうとした。


「もし見掛けたら、伝えておきましょう。貴方あなたのお名前は?」


青年を呼び止めると、彼は自分の頭をきながら振り返り、


「申し遅れました。僕は、虎淵こえんと申します。曹孟徳様は、僕のあるじです。」

そう言ってさわやかに笑うと、再び彼に向かって拱手した。


鈴星の事を考えると、孟徳の事も迂闊うかつに他人に話すべきでは無いと判断した伯斗は、黙ったまま彼に挨拶を返し、丘を越え、来た道を引き返すその後ろ姿を見送った。


本当に孟徳の味方かどうか、本人に確認を取る必要がある…

伯斗はそう思い、彼の姿が完全に見えなくなると、きびすを返して河へ戻って行った。


「兄様ーーーっ!!」


生い茂る草木をき分けて、大きく手を振りながら此方へ走って来る鈴星の姿がある。

見れば、彼女の後ろを付いて走っているのは孟徳であった。

二人は息を切らせながら、河辺で魚を魚籠びくに詰め込んでいる伯斗の元へと走り寄った。


「兄様、魚は沢山れた?」

そう言って、鈴星は伯斗が手にした魚籠の中を覗き込む。

伯斗はその様子に、ふふっと笑い、


「ああ、今日は調子が良い。あと少し捕ったら、市場へ売りに行こう。」

そう答えた後、今度は顔を上げて孟徳を見る。


「どうだ、お前も一緒に行くか?」


伯斗に問われ、孟徳は彼に微笑を向けながら大きくうなづいた。


三人は魚の入った魚籠をそれぞれの手にげ、そこからそう遠く無い小さな城邑じょうゆうの門を潜った。

市場へ出向くと、そこには空腹にあえぐ近隣の貧しい邑人むらびとたちが、食料を求めて大勢群がっていた。


酸棗さんそうの連合軍は兵糧が尽きると、近隣のむらから略奪を行った為、何処も食料難に喘いでいるのだ…董卓が長安へ逃げ去った今、最早“反董卓連合”とは名ばかりで、瓦解がかいの一途を辿っている…」

「………」

伯斗が憂いの眼差しで語るのを聞きながら、孟徳は複雑な思いで彼らを見詰めた。


成皋せいこう県の敖倉ごうそうを奪う事が出来れば、戦略の拠点を築けるだけでは無く、十万の連合軍の兵糧問題も解決する事になった筈である。

敖倉は曲阜きょくふの東にある敖山ごうざんに作られた巨大な備蓄倉庫であり、戦国時代には度々ここが戦略拠点とされた。

連合軍が一致団結して敵に当たれば、徐栄じょえいの軍に敗れる事も無かったかもしれない…

そう考えると、心底から悔しさが込み上げ、孟徳は唇を強く噛み締めた。


彼が連合軍の指揮官の一人であるらしい事に、薄々勘付かんづいていた伯斗は、黙ってその横顔を見詰めていた。

が、ふと自分の足元に一人の童子が指をくわえ、彼の腰にげられた魚籠びくを見詰めて佇んでいる事に気付いて視線を落とした。


「坊や、どうした?腹が減っているのかい?」

柔らかく微笑しながら問いかけたが、童子は黙ったまま答えない。

伯斗は腰を下ろして片膝を突くと、童子を見上げてその手に魚籠の中から取り出した魚を一匹握らせた。


「さあ、持ってお行き。母や兄弟たちが待っているのだろう?」

童子は不思議そうな顔で、何度もまばたきを繰り返したが、やがて踵を返して走り去って行った。


「兄様、魚を売りに来たのではないのか?」

「困っている時は、お互い様だ。捕った魚は、邑人たちに分けてあげなさい。」

訝しげに問い掛ける鈴星に、伯斗は笑い掛け、魚籠の中の魚を取り出し彼女に差し出す。


「兄様ったら…全く、人が良いのだから…!」

鈴星はやや呆れた様な口調ではあったが、彼のそういう所もまた良く理解している。言われた通り、邑人たちに魚を分け与えた。

それを見ていた孟徳も彼らの側へ行き、鈴星と共に邑人に魚を配るのを手伝った。


あっという間に捕った魚たちは無くなり、彼らは空の魚籠をぶら下げて市場を後にした。

市場の門を潜ると、伯斗が鈴星を振り返り声を掛ける。


「鈴星、此処へ来るのも久し振りであろう?少し邑内ゆうないを見て回っても良いのだぞ。」


すると、鈴星は瞳を輝かせて彼を見上げ、瞬く間に頬を紅潮させた。

その顔を見て、伯斗は目元に微笑を浮かべる。


「余り遠くへは行くなよ。私は孟徳と一緒に、城門の近くで待っているから。」

「うん、兄様。有り難う!」

鈴星はそう言うと、嬉しそうに大通りの方へ駆け出した。


遠ざかる彼女の後ろ姿を見詰めながら、伯斗は少し苦笑を浮かべて呟く。

「いつも、あの小さな邑に閉じ籠もっているからな…たまには羽根はねを伸ばしてやらないと可哀想であろう。お洒落しゃれな髪飾りや、着物の一つでも買ってやりたい所だが…」


それからおもむろに視線を孟徳へ向け、じっと彼の瞳を見詰めた。


「…?」

孟徳が不思議そうに首をかしげると、伯斗は真剣な眼差しのままで口を開いた。


「実はな、今日お前を探しているという若者に会った。」

「?!」

「歳はお前と同じくらいだろう。彼は、“虎淵”と名乗っていた。」


虎淵が、俺を探しに…!


「鈴星をかくまっている事もある。迂闊うかつに他人に居所を知られたく無かったのでな…お前の事は知らないと言って置いた。分かってくれ。」

「………」

孟徳は少し落胆した表情を見せたが、小さく彼に頷いた。


「あの子は、お前の事を気に入っている様だが…お前は、仲間の元へ戻らねば成らぬのであろう?俺がお前を助けたのは、天の導きにるものだ。去りたい時に去って行っても良い。」


「……!」

伯斗の言葉に、顔を上げた孟徳は困惑して微笑する彼の顔を見詰めた。


このまま、鈴星とは此処で別れた方が良いのだろうか……?

孟徳の胸には複雑な思いが押し寄せる。


一刻も早く虎淵に自分の無事を伝えたいが、このまま此処を去れば、今生こんじょうの別れとなって仕舞うかも知れない。

鈴星に真実を明かさず想いも伝えられぬままで、一生に悔いを残す事には成らないか……?!


その瞳に困惑の色が生じているのを読み取った伯斗は、彼に歩み寄り声を掛けようとした。その時、


「何だと、お前連合軍のやつか…!この邑でも食料を奪って行く積もりか?!」


突然遠くから邑人の怒鳴り声が聞こえて来た。

振り返って見ると、市場の門の辺りに人集ひとだかりが出来ている。


「ちっ違います…!僕は人を探しているだけで…略奪なんてしていません!」

邑人たちに取り囲まれた人物は慌てて弁解する。


「黙れ!お前たちの所為せいで、わしらは皆、食料難に苦しんでいるんだ!」

「そうよ!どうやって小さな子供たちを育てて行けと言うの…!」

「おい、みんなでこいつを捕まえて、さらし首にしよう!略奪に来る連中への見せしめだ…!」


邑人たちは口々に彼を罵り、武器を手に迫った。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます