第142話 謎の美少女


「…実は、お前に頼みたい事が有るのだが…」


そう言われ、幕舎から姿を現し、訝しげに眉をひそめたのは張文遠である。

奉先は彼の陣営を探し出し、少女を連れて彼の幕舎を訪れていた。


「…そんな事が…それで、あの娘を連れて長安まで行く積りか?」

「ああ、牛毅の様な薄汚い男共おとこどもも多いからな、暫くは目を放せぬであろう。向こうへ着けば、誰か信の置ける人物に託す積りだ…」

奉先と文遠の二人は肩を並べ、立ち並ぶ幕舎の間を歩きながら、昨夜の出来事を語り合った。


「あなた…!」

背後から呼び掛ける声に、二人は同時に振り返った。


すると、奉先の目に映ったのは、朝日に輝く美しい玲華れいかの姿である。

胸の底から愛おしい気持ちが込み上げ、奉先は少し目を細めながら、まぶしそうに彼女を見詰めた。


「玲華、無理を言って悪かったな。」

文遠はそう言って彼女に歩み寄る。


「何も、遠慮なんてしないで。あたしは貴方あなたの妻なんだから…!」

「だが、余り身体に負担を掛けるのは良くない…無理をしては成らぬ。」

玲華は微笑し、文遠の手を優しく握り締める。

それから、立ち尽くす奉先を振り返ると、玲華はうやうやしく彼に礼をした。


「奉先様、お久し振りです。」

他人行儀な挨拶に、奉先は思わず躊躇たじろいだ。


「玲華殿、そんな言い方はしてくれないか…」

「そうは行かないわ。今の貴方は、夫の上司だもの。」

玲華はそう答え、目に微笑を漂わせて彼を見詰め返す。

それから手を打って、


「それより、早く来て!」

そう言うと、小走りに幕舎の方へ向かい、入り口の幕を開いて入って行く。

二人も彼女に続き、幕舎の中へと入った。


「ほお…!」

思わず文遠が感嘆の声を上げる。


そこには、すっかり身体の汚れを落とし、新しい着物に身を包んだ少女の姿があった。

ぼさぼさだった髪にも綺麗にくしが通され、艷やかな黒髪が肩にさらりと掛かっている。

歳は十ニ、三歳くらいであろうか。

まだあどけなさはあるが、少女の顔付きはずっと大人びて見え、それは正に絶世の美少女であった。


その美しさに、奉先も思わず瞠目どうもくし、暫し言葉を失って彼女を見詰めた。

少女は奉先の眼差しに少し恥じらう様にうつむき、透き通る白い肌を、見る間に薄紅の桃の花の色に染める。


「奉先様も隅に置けないわね。こんな綺麗なを、一体何処で見付けて来たのかしら…?」

「玲華殿が居てくれて助かった。感謝する…!」

少し意地悪く彼を横目で見ながら、くすくすと笑う玲華に、奉先は少し照れ笑いを浮かべ、自分の頭をきながら頭を下げた。


「奉先、怪我をしているのか?」

彼の右腕に巻き付けられた布に血がにじんでいる事に気付き、文遠が問い掛けた。


「ああ、ちょっとな…大した怪我では無い。」

そう言って奉先は腕を押さえたが、玲華が彼の腕を取り、巻き付けた布をほどく。


「駄目よ、清潔な布に取り替えて、ちゃんと手当てして置かないと。」

玲華はそう言いながら、彼の傷の手当てを始めた。


「張将軍…!」

その時、幕舎の外から兵士に声を掛けられ、文遠は「すまぬ。」と奉先に短く言って幕舎を出て行く。

それを見送った後、奉先はおもむろに玲華を振り返り問い掛けた。


「玲華殿、どこか具合が悪いのか?」

「え…?!」

「文遠が、酷く身体を心配していた様なので…」

奉先が言うと、玲華は目元に微笑を浮かべて頬を赤らめると、自分のお腹をそっと撫でながら答えた。


「来春には、あの人の赤ちゃんが産まれるの…」


「え…?!」

今度は奉先が驚きの声を上げた。

ややあって、


「そ、そうであったか…!それは良かった。おめでとう、玲華殿!」

慌てた奉先は、そう言って玲華に祝福の言葉を贈った。

だが、玲華は余り喜びを示さず、長い睫毛まつげを下げると、


「あたし、本当は…貴方を信じて、ずっと待っていたのよ…」

傷口を手当てする手を止めず、伏し目がちにそう呟く。


「でも、これも運命なんだって、諦める事にしたわ…叔父様はきっと、最初からこうなる事が分かっていたのね…」

「玲華殿…」


やがて顔を上げた玲華は、潤んだ瞳を奉先に向けた。


「でも勘違いしないで、今のあたしは、文遠の事を心から愛しているの。貴方と会うのは、きっとこれが最後になると思うけど…貴方の事は、決して忘れない…!」


玲華はそっと手を伸ばし、奉先の頬を優しく撫でた。

その手は柔らかく温かい。


玲華の赤い頬を、涙のしずくこぼれ落ちると、彼女は着物の裾をひるがえし幕舎から出て行ってしまった。

声を失い、呆然とその場に立ち尽くしている奉先の姿を、少女は黙したまま、ただじっと見詰めていた。



奉先が陣営へ戻ると、士恭が目を丸めて少女を凝視し、


「えっ…この子があの…?!」

と、見違える程、美しくなった少女の姿に驚きの声を上げる。

それから眉をひそめ、奉先の肩を掴むと、


「こんなに美しい娘を連れていては、尚更、牛将軍たちの目を引きますよ…!」

そう言って彼の耳元でささやいた。


「ああ…実の所、俺はあの娘を風呂へでも入れて、汚れを落として貰うだけの積りだったのだがな…確かに、あれでは目立って仕方が無い。」

苦笑を浮かべながら少女を振り返り、奉先は困った表情で首をひねった。


自分の幕舎へ少女を連れ帰ると、彼女の為に必要な身の回りの物を出来るだけ揃え、成るく外を出歩かず、自分の側から離れぬ様に言い聞かせた。

彼女は黙ったまま、幕舎の片隅に膝を抱えて座り込んでいる。


「不自由であろうが、長安へ辿り着くまでの辛抱だ。」

少女を見下ろしながら、奉先は出来る限り優しく声を掛けた。

顔を上げ、大きな瞳でじっと彼を見詰めていた少女は、おもむろに口を開く。


「…あたし、貴方の物なんでしょう…?」


その言葉に奉先は少し驚き、


「えっ?!あ、ああ…あれは、あの男の手前そう言っただけだ。そんな気は無いから、心配するな!」

慌てて否定すると、


「貴方…あの女の人の事が好きなの…?」

少女は表情を変える事無く、更にそう問い掛けた。

奉先は、暫し黙して目元に暗い影を落とすと、


「……彼女は、友人の妻だ。」


やがて、憂いを帯びた眼差しで呟く様にそう答えたが、再び少女を見詰め返し、直ぐに笑顔を取りつくろう。


「そう言えば、まだお前の名を聞いていなかったな。俺は、奉先と言う。お前の名は?」

そして、努めて優しく少女に問い掛けた。


「………」

すると少女は、口を強く結んで俯き、自分の膝を抱える。


「答えたくないのら、仕方が無いが…何と呼ぶべきか…」

奉先は苦笑し、自分の顎に手を当てて首を捻った。


「…貂蝉ちょうせん…」

「え…?」


「あたしの名前は…貂蝉。」


少女は澄んだ黒い美しい瞳を輝かせ、そう答えた。

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