第137話 孫堅軍の進撃


曹子廉そうしれんは孟徳が身に付けていたよろいを脱がせ、彼を背にかつぐと、敵に悟られぬよう夕闇に紛れながら、自分の馬を引いて河の中へ入って行った。


孟徳の背丈は七尺(160cm未満)程度でせており、長身で体格の良い子廉は、彼を担いで軽々と河を渡って行く。

所が、河の途中で引いていた馬が立ち止まり、前へ進まなくなってしまった。

河の流れは表面は穏やかに見えるが、水面下では激流である。

馬は胸の辺りまで水にかった状態で、完全に怯えてしまっていた。


「来い、白鵠はくこく…!」

子廉は振り返り、手綱を強く引いて愛馬の名を呼ぶ。

するとその時、


「居たぞ…!あそこだ!」

河岸を捜索していた徐栄の兵たちに、遂に彼らは発見されてしまった。


兵たちは矢をつがえ、彼らを狙って次々と矢の雨を降らせる。

子廉の背に掴まったまま、孟徳は剣を抜いて振り返り、飛んで来る矢を防いだ。

河の中央辺りはより底が深く、足元が全く見えない。

それでも子廉は懸命に前へと進んだが、足元の大きな石に足を滑らせ、思わず体勢を崩す。

「うっ…!」

子廉はうめいてそのままの前のめりに倒れ、剣で矢を払っていた孟徳も同様に体勢を崩した。


敵の放った矢が、孟徳の目の前をかすめ飛ぶ。

だが、次の矢は孟徳の喉元に当たり、切れた傷口から血が飛び散った。


「ぐっ…!!」

孟徳は喉を強く押さえたが、傷は思いの他深く、彼の戦袍せんぽうは見る間に赤い血で染まる。


二人はそのまま河の流れに呑み込まれ、子廉は暗い水中で必死に孟徳の姿を探したが、飛び込んで来る矢の雨が治まらず視界が悪い。

子廉は一旦水面に浮上して辺りを見回し、


「孟徳兄ーーーっ!何処だーーー!?」

と、声を限りに叫んだ。

しかし孟徳の姿は何処にも見当たらず、すっかり漆黒の闇となった水面みなもに、その声は虚しく木霊こだまするばかりであった。


やがて空に暗雲が立ち込め、細い雨が落ち始めると、


「連合軍の奮戦振りを見れば、まだ士気は高いままである。深追いはするべきでない…」

徐栄はそう言って追撃をそこで諦め、兵たちを引かせた。

孟徳らは敗走したが、彼の思惑通り、彼らの奮戦振りを董卓軍に強く印象付ける事が出来たのである。

徐栄の軍は酸棗さんそうを攻める事はせず、そのまま南へ転じて北上する孫堅軍の撃破へと向かった。


次第に雨足が強まる中、子廉は愛馬を引いて汴水べんすいを泳ぎ切り、憔悴しょうすいし切って対岸へ辿り着いた。

そこへ、対岸で敗残兵を収拾していた夏侯惇かこうとん夏侯淵かこうえんが駆け付け、岸辺に倒れ込んだ子廉を助け起こした。


「子廉、孟徳を見なかったか!?まだ見付かっておらぬのだ…!」

夏侯妙才みょうさいにそう問われると、子廉は赤い目を上げ、


「俺は…何があっても助けると誓ったのに…!河を渡る途中で、孟徳兄を水中へ落としてしまった…!」

そう言って瞳から涙をほとばしらせた。

激しく嗚咽おえつし泣き続ける子廉を、二人は只々慰めるしかなかったが、内心彼らも絶望感を感じていた。


「まだ、孟徳が死んだとは限らぬ。見付かるまでは諦めるな…!」


そう言って彼らに歩み寄ったのは、最も年上の従兄いとこ、曹子孝しこうである。


「お前が、孟徳を命懸けで護ろうとするとはな…良くやった!」

子廉をこの戦に誘ったのは彼であり、放蕩ほうとうばかりしていたこの弟分が、心を入れ替えて奮戦した事を誇りに思い、そう言って彼のろうねぎらった。


そうして、彼らは引き続き孟徳の行方を探し、敗残兵を集めて再起を図る事を誓い合った。




南へ向かった徐栄の軍勢は、司隷しれい河南尹かなんいんりょう県の東部で孫堅そんけん軍と遭遇し、これを見事に撃破した。


その時、散々に打ち破られた孫文台ぶんだいは、数十騎で命からがらに逃げ延びたのであるが、彼は直ぐさま敗残兵をき集めて軍を立て直し、袁公路えんこうろからの支援もあって再び進軍を開始した。


所が、袁公路に対し「このまま孫文台が雒陽らくようへ入城すれば、功は全て孫文台が独り占めにするだろう。」等と讒言ざんげんをする者があり、それを真に受けた公路は、文台への補給を停止させてしまった。


幾ら待っても兵糧ひょうろうが届かぬ事態に怒りを覚えた文台は、自ら魯陽ろようの袁公路の元へ赴き、直談判を迫った。


「兵たちは皆、命懸けで戦っているのに、詰まらぬ人物の讒言を真に受けるとは何事かっ!!」


公路の本陣へ強引に押し通り、文台は怒りをあらわにしてそう怒鳴った。

その余りの剣幕におののいた公路は、補給を担当していた部下に罪を被せ、その者の所為せいにして言い逃れようとした。

結局、補給を再開する約束を公路に誓わせると、文台は納得して引き揚げたが、共に従軍して来た息子の孫伯符はくふを振り返り、


「袁公路は、小心者のくせに欲が深い。あの欲深さが、やがて己を滅ぼす事になるであろう…」

そう言って深い溜め息をく。


若い頃から、その勇猛さで世間に名を知らしめていた孫文台は、“江東こうとうの虎”という異名で、長江ちょこう流域を荒らし回っていた江賊こうぞくらから恐れられていた。

そんな彼が、名門の家柄である事を頼みにする、小心者の袁公路の足下に侍らされている事には、正直嫌気が差していた。


さく、お前は公瑾こうきんと共に一旦寿春じゅしゅんへ引き揚げ、母や弟たちの元へ帰っておれ。」

やがて憂いのある眼差しで息子を見詰めると、文台はそう告げた。

“策”は伯符の名である。


「父上、俺は最後まで一緒に戦います…!」

驚いた伯符は自分の胸を強く叩いて、父の前へ進み出た。


「わしの家族を護るのも、お前の大事な使命だぞ。」


文台は微笑して息子の肩を強く叩き、その両肩を引き寄せて彼の背を撫でた。

まだ幼い少年だと思っていた息子の背は、いつの間にかすっかりたくましくなっている。

文台は感慨かんがい深い思いを胸にいだきながら、暫し黙したまま息子の肩を抱き締めた。


「では策、頼んだぞ…!」

そう言ってきびすを返し歩き去る父の背を、伯符はどこか寂しさを懐きつつ黙って見詰めたが、これが彼が父を見た最後の姿となったのである。



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