第136話 汴水の戦い


同じ頃、文優はある計画を仲穎に持ち掛けていた。

それは、敵の前線にある雒陽を放棄し、長安ちょうあんへ遷都する案である。


その報告に、集められた文武百官からはどよめきが上がったが、董仲穎をはじめ、軍師の李文優は涼し気な表情をしていた。


「雒陽は既に、袁本初を盟主とする連合軍に包囲されつつあります。西の長安へ遷都し、雒陽の住民たちも全て移動させるのが最善の策でしょう。」


「長安は、さきの戦で荒廃し、焦土と化しているのを知らぬ筈はあるまい!都を置くには適しておらぬ…!」

「雒陽の民は皆代々この地に根付いている。此処に先祖をまつる者も多く、移住させるのは困難である…!」


文優の意見に、司徒の楊彪ようひょう、太尉の黄琬こうえん、河南尹の朱儁しゅしゅんらが激しく異論を述べた。


しかし文優の言う通り、雒陽は連合軍に包囲される形となっており、敵の最前線に位置している。

尚且なおかつ、西の長安へ行けば仲穎の故郷である涼州にも近く、兵を補充し安くなると考えられ、仲穎としてはその方が都合が良いのである。


彼らの論議を黙って聞いていた仲穎は、おもむろに立ち上がると、鋭い眼光を朝廷内に行き渡らせた。


「軍師の策はもっともである。雒陽の住民を従え、直ぐに長安へ向かう…!異を唱える者があれば、即刻首をねよ!!」


こうして董仲穎は、半ば強引に長安遷都の案を押し通したのである。



一方その頃、曹操軍五千、鮑信軍五千、合わせて凡そ一万余りの騎兵部隊を率いた連合軍は、滎陽県の汴水べんすいの辺りまで来た所で、徐栄率いる董卓軍が接近している報に触れた。

渡河の最中に敵に攻撃をされては一溜まりもない。


「急ぎ兵たちに、汴水を渡河させよ!」

孟徳は急いで舟を用意させ、兵たちを渡らせたが、汴水を越えた辺りで遂に徐栄の率いる大軍と遭遇した。


数では、圧倒的に董卓軍が有利である。

それでも孟徳は兵たちを励まし、董卓軍に真っ向から勝負を仕掛けた。


連合軍は寡兵ながらも奮戦し、押しては引く戦いを繰り返したが、兵力の差は歴然れきぜんとしており、次第に大軍に呑み込まれて行く。


孟徳は、自ら先陣を切って果敢かかんに敵に立ち向かったが、敵兵をたおしてもたおしてもりが無い。

やがて孟徳の乗った馬が、敵の矢を受けて倒れてしまった。

馬から放り出された孟徳は、それでも再び立ち上がって剣を振るい、襲い来る敵を斬り伏せた。


「はぁ、はぁ…!!」

血濡れた剣を構えたまま後ろを振り返ると、敵の放った矢が、仲間の兵士たちを次々に馬から射落としている光景が彼の目に映る。


このままでは…壊滅する…!


そう思った時、孟徳の左肩に矢が突き立った。


「うっ…っ!!」

激しい痛みに、弾かれる様に地面に倒れ込んだ。


「孟徳にい!!」


叫びながら走り寄って来たのは、一番若い従弟いとこの曹子廉しれんである。

子廉は孟徳をかかえる様にして立ち上がらせると、自分の乗って来た白馬に孟徳を掴まらせた。


「さあ、孟徳兄…!俺の馬に乗って逃げてくれ!」

「子廉…っ、俺は大丈夫だ…自分で歩ける!お前は先に逃げろ…!」

孟徳は肩の傷を押さえ、苦しげにあえぎながらもそう言って断った。


「何を言っている!俺が此処で死んでも構わぬが…あんたが此処で死んでは、天下が困るのだっ!!」

子廉は目をいからせ、孟徳の胸倉むなぐらを激しく掴み恫喝どうかつする。


そして有無を言わさず、孟徳の身体を馬上へ押し上げて馬を走らせると、子廉自らは、徒歩で敵兵を斬り伏せながら走った。


連合軍は敵に散々に蹴散らされ、既に退却を始めている。

徐栄は攻撃の手を緩めず、逃げる連合軍に追撃を開始した。



やがて、辺りに夕闇が迫った頃、孟徳と子廉は汴水まで辿り着いた。

目の前には河の流れが立ち塞がっているが、付近には一艘いっそうの舟も見当たらない。

子廉は孟徳を馬から降ろして近くの木の側へ休ませると、彼にそこで待つよう言い残し、舟を探しに走り去った。


孟徳は肩の痛みをこらえながら、暗い空を見上げた。


衛茲や鮑信らは無事であろうか…

遠い空に、小さな星のまたたきが見える。


始めから、この戦には勝ち目が無かった。

それでも、我々が先陣を切って奮戦する姿を董卓軍に見せ付ければ、連合軍はあなどれぬと彼らに印象付ける事が出来る…

それに、ただ傍観している連合軍も重い腰を上げるかも知れない…


だが、結果的に自軍の損害は甚大じんだいなものとなり、立ち直るには時間を要するであろう。

孟徳は悔しさを噛み締め、目尻が熱くなるのを感じながら、遠く輝く星を睨み据えた。


その時、河岸に追撃する徐栄の兵士たちの姿が見えた。


まずい…!

孟徳は身体を引きるようにして木の陰に身を潜め、息を殺した。


「孟徳兄、舟は諦めよう…!俺の背に乗ってくれ!」

そこへ、舟を発見出来ぬまま舞い戻った子廉がそう言って、孟徳に肩を貸して立ち上がらせる。


「子廉、追っ手がそこまで来ている…!二人で河を泳ぎ切るのは難しい。お前は馬に乗って逃げろ…!」

すると子廉は険しい眼差しで孟徳を振り返り、


「孟徳兄…!言っただろう、あんたが死んでは困るのだ!俺は、今まで何の希望も、目的も持たず生きて来た。だが、これからはあんたの為に生きると決めた…孟徳兄は俺の希望なのだ!だから、何があっても死なせない…!」


目の周りを赤くし、必死にそう訴える子廉からは熱い思いが伝わって来る。


子廉の実家は、馬の生産を生業なりわいとしており、家は裕福であった。

その為、彼は賭博や女遊びに明け暮れ、毎日の様に放蕩ほうとうを繰り返していた。

そんな彼が、従兄いとこの曹子孝に誘われ、今までの生き方を変えようと今回の挙兵に参加したのである。

この戦で、彼は本気で誰かの為に戦うという事を学んだ。


彼の熱意に感じ入り、胸を熱くして彼の赤い目を見詰め返す孟徳は、


「分かった…!何があっても、一緒に生き抜こう!!」


そう言って、同じ様に目元を赤く染めながら白い歯を見せて笑った。

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