第131話 逃亡の果て


どのくらい意識を失っていたのであろうか、ほのかに漂う甘い香りに、ふと目を覚ました。

朦朧もうろうとする意識の中、霞んだ視界の先に見えるのは、風に揺らめく小さな紫色のすみれの花である。


…先、奉先………


誰かの呼ぶ声が、かすかに頭の中に響いて来る。

視線をわずかに上げると、白い光に包まれた人影が此方を覗き込んでいる。

それは、美しい着物をまとった美少女の姿であった。


玲華れいか…殿……」

光の中に浮かび上がるのは、玲華の優しい微笑みである。


ああ、俺は夢を見ているのか…


目の前に広がる光景は夢とも現実とも付かないものであるが、奉先は強くそう思った。

夢でも構わない、最後にもう一度だけ玲華に会いたかった。


夢の中の玲華は、そっと彼の側へ舞い降りると微笑を浮かべ、腕を伸ばして彼の髪を優しく撫でてくれる。

その柔らかい手の感触は、彼の意識の中で鮮明に肌へと伝わり、心地良さに包み込まれた。


やがて、倒れた地面の底から、無数の馬蹄ばていとどろきを響かせながら、此方へと向かって来る集団の蹄音あしおとが聞こえた。

その音は、まだ遥かに遠い。


十騎…いや、二十騎はいるか…

奉先は再び目を閉じて、その音に耳を澄ました。

恐らく、天華てんかが放った新たな追っ手であろう。だが最早、奉先には彼らに立ち向かう力は残っていない。


ここまでか…

そう覚悟を決め、夢現ゆめうつつの中、彼らの蹄音あしおとが近付いて来るのをただじっと待った。


その時、突然背中から誰かに着物を掴まれ、強く引っ張り上げられる感覚におちいって、重いまぶたを開いた。


「うっ…ひ、飛焔ひえん…!?」


目の前には、少年を乗せて走り去った筈の飛焔の姿がある。


「お、お前…どうして…っ」

飛焔はいななき、倒れた奉先の肩を鼻面はなづらで押して立ち上がらせようとする。

それでも立ち上がらない彼の着物の襟首をくわえると、今度は彼の身体を引きった。


「飛焔…もう良い…このまま、眠らせてくれよ…」


奉先はかすれた声であえぎつつ、わずらわしげに呟いた。

しかし飛焔は諦めず、顔を地面との間に突っ込んで、俯せになった彼の身体をひっくり返そうとしている。


「おじさんを置いて行きたくないって、飛焔が言ってるんだよ…」

馬上から、少年が顔を覗かせて言った。

「…弘農王……」

奉先は苦しげに首を上げ、少年を見上げる。

やがて深く溜め息をき、ふっと小さく笑った奉先は、


嗚呼ああ…全く、俺は楽に死ぬ事も許されぬと言う事か…」


そう呟くと両腕をゆっくりと動かし、渾身こんしんの力を振り絞って自分の身体を持ち上げた。

必死に立ち上がろうとすると飛焔が手を貸し、彼の着物をくわえて引っ張り上げる。

「はぁ、はぁ…っ!」

奉先はふらつきながらも立ち上がり、飛焔の背に取りすがると肩で激しく息をした。

飛焔は首を深く下げて前脚を折り、奉先に乗れと言わんばかりに「ブルルッ」と鼻を鳴らす。


「飛焔…俺に、決して諦めるなと言いたいのだな…っ」


疲労困憊ひろうこんぱいした虚ろな眼差しのままだが、奉先は口元に笑みを浮かべて飛焔を見詰め、少年に助けられながら何とか飛焔の背にまたがった。

少年の手から受け取った手綱をしごくと、


「奴らは直ぐそこまで来ている…!疾風の如く駆けよ、飛焔…っ!」


そう言って励まし、彼の首筋を力強く叩く。

飛焔はそれに応えて一度大きくいななくと、体勢を整えた後、ひづめで深く地面を削りながら一散いっさんに走り出した。


一陣の風と化した飛焔は、広い草原を瞬く間に駆け抜けて行く。

既に日は傾き掛け、茜色あかねいろに染まりつつある空と遙か後方に見えている山々の間に、追っ手の騎馬が巻き上げる砂塵さじんが立ち昇っているのが見えるが、それも次第に遠ざかって行った。


追っ手の騎馬と、全速力で走る飛焔の脚色あしいろでは比べ物にならない。

やがて追っ手の先頭を走っていた騎馬が走るのを止め、後から来る仲間たちを全て停止させた。

飛焔が巻き上げる砂塵が追っている彼らの目にも見えていたが、それは見る間にどんどん離れて行くのが解る。

これ以上追っても無駄であると判断し、彼らはそこで追う事を諦めた。



次に奉先が目を覚ましたのは、見知らぬ家の一室であった。

日が落ちるまで飛焔は走り続け、やがて小さな邑里ゆうりへ辿り着いた所までは覚えている。だが、その後の事は何も思い出せなかった。


外は既に明るくなっているらしい。

屋根の上の小鳥のさえずりと共に、何処からか鉄を叩く様な甲高い音も聞こえていた。


奉先は床に敷かれたむしろの上で、ゆっくり身を起こしたが、体中にしびれが残っているらしく、床に突いた腕にまだ感覚が戻っていない。

身体に付いた無数の傷には手当てを施された跡があり、彼の側には、擦り潰された薬草が入った器が幾つか置かれ、辺りに漂うその香りが少し鼻を刺す。


その時、すだれの向こうから女性と少年の笑い声が聞こえ、簾が開くと、すっかり粗衣そいに着替えた少年と、荷物を抱えた若い女性が入って来た。


「あら、お兄さん、目が覚めたのね!良かったわ…!」

女性は大きく目を見開いて驚きの表情をしながら、腕に抱えた荷物を部屋の隅に下ろし、手にわんを持っていた少年は、それを持ったまま嬉しそうに側へ走り寄る。


「おじさん、お腹空いてるでしょう?」

そう言うと、まだ湯気が立ち昇るかゆの入った椀を、彼の前へ差し出した。


「それはぼうや、貴方あなたのでしょう。大丈夫よ、彼の分は直ぐに用意するから。」

女性は笑って少年の頭を撫でる。


「僕は、後で貰うからいいよ。ありがとう、玉蓮ぎょくれんさん。」

少年は少し恥ずかしそうに肩をすくめ、女性に向かって上目遣いに笑顔を返した。

それから奉先に向き直ると、粥をさじすくい上げ、


「まだ疲れてるでしょう、おじさん。僕が食べさせてあげるよ。」

そう言って、匙にふうふうと息を吹き掛ける。

その光景に、奉先は思わず苦笑した。


「いや、今は良い。それはお前が食べろ。」

そう答えると、少年は肩を落とし少し残念そうな顔になる。


「それより、飛焔はどうした?」

「心配無いよ。馬小屋で大人しくしてる。」

「そうか…」

飛焔が大人しくしているという言葉には、少し意外な気もしたが、飛焔は他のどの馬よりも賢い事は知っている。

きっと、飛焔も同じ様に自分の身を案じているに違いない。


彼らがこのむらへやって来た時、邑人むらびとたちは皆気味悪がって、誰一人助けようとはしてくれなかった。

邑の門前での騒ぎを聞き付け、唯一彼らに救いの手を差し伸べてくれたのが、この玉蓮ぎょくれんと言う女性と、鍛冶かじ職人である来儀らいぎという人物であった。



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