第123話 逃亡する主従


山林の中はすっかり闇に包まれている。

獣の遠吠えが鳴り響く中、ほのかな明かりをともし、小さなしゃを停めたその脇で野営をしている数名の主従の姿があった。


美しい着物を身にまとった娘が一人、落ち着き無く小さな焚火たきびの側を歩き回っている。

やがて、暗がりから現れた人物の姿を認めると、娘はそちらへ駆け出した。


「文謙!遅かったではないか、約束の時間をとうに過ぎている…心配していたんだぞ!」

娘は、その美しい容姿にはおよそ似つかわしく無い口調で青年に迫った。

頭を掻きながら苦笑を浮かべる文謙は、


「申し訳無い…ちょっと野暮用があった事を、思い出したのです…」

そう答えると、娘に向かって頭を下げて謝る。


「しかし、孟徳殿の変装は見事なものです。本当に美女と見紛みまがう程だ…!」

「はは、そうか!だが、俺に惚れるなよ…!」

孟徳は笑って、文謙の肩を叩く。

それから、彼の後ろに立っている若者に訝しげな視線を送った。


「孟徳殿、彼は俺や虎淵の同僚で親友だった者です。俺なんかよりずっと学問も出来て、きっと孟徳殿のたすけになりますよ。」

文謙がそう言って彼をかえりみると、


李曼成りまんせいと申します。どうぞ、よろしくお願いします。」

青年はそう言って孟徳に向かい、拱手した。


すらりとした体躯たいくの持ち主で、無骨ぶこつさとは掛け離れた、色白で眉目の爽やかな好青年である。


「仲間は多いに越した事は無い。こちらこそ、よろしく頼む!」

その曼成と言う青年を一目で気に入った孟徳は、彼の肩を強く叩き、白い歯を見せて笑った。



この小集団の主従は、花婿と花嫁、そしてその従者にすっかり姿を変え、婚礼の旅集団にふんして孟徳の故郷である沛国を目指した。

彼らは怪しまれる事無く、中牟ちゅうぼう県の辺りまで辿り着いたが、遂にそこで検問に掛かってしまった。

そこには既に、孟徳捕縛の通達が届いていたのである。


「ふむ…婚礼の儀の為、急がねば成らぬ…と?」


県令けんれいは訝しげに、彼らが出した(通行手形)を見た後、役所の前に並ぶ旅集団を眺めた。

「私にお任せを…」

警察長官である亭長ていちょうが彼らの前へ進み出ると、薄い絹の布を被る花嫁に近付き、その布を取り払おうと腕を伸ばす。

花婿に扮した文謙が咄嗟に亭長の腕を掴み、


「婚礼前の花嫁だ、顔を見るとは無礼だぞ…!」

そう言って怒鳴り声を上げた。

亭長は彼を睨み付けると部下たちを振り返り、


「怪しい…!此奴こやつらを捕らえろ!」

そう命令を下して、武器を構えた部下たちに直ぐ様彼らを取り囲ませた。


「ちっ…!」

思わず文謙は小さく舌打ちをし、花嫁に扮した孟徳に視線を送ったが、そこで騒ぎを起こせば面倒な事になると判断した孟徳に目配せをされ、彼らは抵抗する事無く全員大人しくその場で取り押さえられた。


「ふん、後で存分に調べ上げてやるからな…!覚悟しておけ!」

亭長はそう毒づいて、布越しに花嫁を睨み付けた。


亭長らの取り調べにより、正体を暴かれてしまった彼らは、役所の奥にある薄暗い牢へ閉じ込められる事となった。


「さっさと入れ!」

亭長の部下たちに縄を掛けられ、背中を強く押されながら次々と牢へ放り込まれる。

文謙は牢の入り口に立つ亭長を強く一睨みしてから、牢へ足を踏み入れた。


「わしを騙そうなど、愚かな奴らだ!明後日みょうごにちには京師けいしから捕吏が到着する。貴様らの命もあと僅かよ!」

そう言って、亭長は声を上げて笑う。


「くそぅ…!折角せっかく此処まで辿り着いたと言うのに…」

文謙は悔しそうに歯噛みをして、歩き去る亭長の後ろ姿を睨み付けた。


「こうなっては仕方が無い…運を天に任せるしか有るまい…」

牢の壁に取り付けられた鉄格子てつごうしから覗く小さな空を見上げ、孟徳が呟く。


「万事休すか…!」

佇む孟徳の姿を見詰め、文謙は低く唸った。



それから二日後の朝、役所へ京師から派遣された捕吏たちが現れた。

亭長は彼らを牢へ案内し、捕らえた孟徳ら主従を引き渡す手続きを行うと、囚人たちを用意された檻車かんしゃへと乗り込ませる。


「亭長殿、大変見事な働きをしましたね。相国もお喜びでございます。」

まだ若いが、捕吏の筆頭である青年はそう言って彼にねぎらいの声を掛け、

「は、有り難うございます…!」

亭長は嬉しそうに答えると、彼に向かい拱手した。


やがて檻車は県城を出て、雒陽らくようへと向かう街道を西へ向かって進んで行った。

暫く進むと、街道の向こうから、こちらへ走って来る一騎の騎馬の姿がある。

捕吏の集団に近付くと、その騎馬は筆頭らしき青年に何やら声を掛けている様子だった。


青年は仲間たちを振り返ると小さく頷き、やがて街道をれて間道へと檻車を乗り入れた。



「何…?捕吏が来た、だと…?」

その日の夕刻、亭長は報告に来た部下の言葉に眉をひそめた。


「どういう事だ、戻って来たのか…?」

「…さあ、それが…」

部下の歯切れの悪さに亭長は苛立ち、急いで居室を出て役所の門へ向かった。


そこには、朝とは全く違う捕吏たちの姿がある。

「此処へ来る途中、河で橋が流されており迂回うかいせねばならなくなった。遅れると伝令を送った筈だぞ。」

捕吏の筆頭は亭長にそう説明すると、朝廷からの書簡を差し出した。


「ま、まさか…!」

震える手で書簡に目を通しながら、亭長は青褪あおざめ言葉を失った。

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