第117話 刺客の影


目元を赤く染めながら、玲華は黙って彼女を見下ろしている奉先を見詰めていた。

風が辺りの草木を強く揺さ振り、木の葉が渦を巻いて彼らの足元を吹き抜ける。


「あたしが此処へ来たのは…叔父様に、危険が迫っている事を知らせる為なの…!」


玲華は声を震わせながらそう語り始めた。


故郷くにへ戻った後、密かに雒陽らくようへ送り込んだ偵諜ていちょうに、董仲穎の周りを探らせていたの。仲穎は刺客を叔父様の元へ送り、その暗殺は表面上は失敗したかに見えていた… でも、実は刺客は既に叔父様のすぐ近くにまで迫っている…!」


「!?」

その話に、文遠と奉先は瞠目し思わず息を呑んだ。


「あたし…まさか奉先がと驚いたけど…やっぱり、あなたでは無かったのね…」

「その刺客とは、一体誰なのだ!?」

奉先は俯く玲華に鋭く迫った。


「それは、まだ分からない。ただ、叔父様はこうなる事を予測していたんだと思う…!」

玲華の長い黒髪が風に吹かれ、彼女の表情を暗く陰らせる。


『玲華、お前は何があっても…奉先を信じると誓えるか…?』


腕の中に玲華を強く抱き締めながら、昨夜、建陽が呟いた言葉を思い出していた。


『叔父様…?それは、どういう事なの…!?』

玲華は戸惑いを瞳に宿し、建陽を見上げた。


『あいつは、やがて此処を去るだろう…そうなった時、黙ってあいつに付いて行け…!』


動揺する玲華の肩を強く掴み、何処か悲しげな眼差しを向ける建陽の言葉は、その時の玲華には不可解でしか無かった。


『そして、決して此処へ戻っては成らぬ…!』


建陽の言葉が玲華の胸に木霊こだまする。


「叔父様は、それ以上何も話してくれなかった。でも、きっと今の状況を予測していたのよ…!あなたを、敵に悟られぬよう自分の元から去らせた。あなたにとって、良くない事が起こると知っていたんだわ…」


玲華は潤んだ瞳を上げ、奉先を見詰める。

強く歯噛みをし、俯いた奉先は低く唸った。


「…!父上に危険が迫っていると分かっている以上、俺は戻らぬ訳には行かぬ…!」

奉先は立ち塞がる玲華の肩を押し退け、前へ進もうとした。


「これは、叔父様の"意志"なの…!あなたは彼の息子である以上、父の意志に逆らうべきでは無い!」

玲華は潤んだ瞳のまま、素早く奉先の腕を掴み、睨み付ける様にして叫んだ。


「玲華殿、父上を見殺しにせよと申すのか…!?」

「そうじゃ無いわ…!」

強くかぶりを振る玲華の瞳から、遂に涙が溢れ出した。


「あたしは、叔父様を…あなたを信じてる!だから、叔父様の選んだ道が最善であると信じるわ!例えそれが、残酷な結果になっても…!」


「玲華殿…」

奉先は目元を赤くして瞳を見開き、涙で濡れる玲華の顔を見詰めた。

冷たさを増して行く強風が、立ち尽くす彼らの長い外套がいとうの裾を激しくなびかせている。


やがて、愛おしい目付きで玲華を見詰めた奉先は、彼女の肩を優しく撫で下ろし、紅く染まった頬を伝うその涙を、そっと指で払った。


「残酷な運命なら、受け入れよう…!だが、父上がたおされるのを黙って見過ごせば、俺は一生後悔するだろう…」


玲華は咄嗟に彼の胸に飛び込み、強く抱き付いた。

「奉先…お願い、行かないで!!」


肩を震わせ、胸の中で泣いている玲華を強く抱き締めながら、奉先は彼女のつややかな黒髪を撫でた。


「玲華殿、文遠と共に行ってくれ。文遠は、俺よりずっとあなたの事を想ってくれている…!」

そう耳元で囁くと、奉先は目を上げて立ち尽くす文遠に視線を送る。


「………!」

文遠は戸惑いを顔に現しながらも、黙って彼の瞳を見詰め返した。



幕舎の外では、まだ兵士たちの怒号が飛び交い、騒がしく走り回っていたが、燃え盛る炎の勢いは衰えを見せない。

建陽は薄暗い舎の中、黙したまま瞑座めいざし、静かにその音を聴いていた。

目の前の卓の上には、運命を占う""が置かれている。


不意に、背後の幔幕まんまくが風に揺らめいたかと思うと、突然切っ先が幕を切り裂き、建陽の背に迫った。


剣は、建陽の背中を貫いたかに見えた。が、建陽は素早く身をかわしながら立ち上がり、切り裂かれた外套を脱ぎ捨てた。


破かれた幔幕が揺らめき、そこからゆっくりと現れた人影を鋭く睨み付け、建陽は剣を構えた。


「…送り込まれた刺客は、貴様であったか…!」


その人影は口の端をゆがめると、


流石さすがは、武勇に名高い丁将軍ですね…」

そう言ってにやりと笑う。


薄暗い燭台のあかりに照らし出されたのは、玲華の従者としてやって来た男、かんである。

貫は細めた目から、黒目がちな瞳をぎょろりと動かして建陽を睨み付ける。


「あの男に、あなたを斬ってもらう積もりでしたが…残念ながら失敗していまいました。まあ、結果的には邪魔者は消えてくれたので、随分とやりやすくなりましたがね…!」


「玲華を騙して、従者としてもぐり込んでおったか…!あの書簡を、奉先の舎に隠したのも貴様であろう!」

怒りをたたえた瞳で剣を構え、建陽は鋭く貫を睨み据えた。


「ご推察すいさつの通りですよ。あの男をめたのも、兵舎に火を放ったのも、この私です…!!」


再び口元を歪めた貫は、次の瞬間、握った拳を顔の前で開き、素早く息を吹き掛けた。


「うっ…!?」

咄嗟に身を反らしたが、貫の掌から一瞬にして散布さんぷされた黄色い砂塵の様な粉は、建陽の目や喉を襲った。

目を閉じた瞬間、貫は鋭く剣を突き出し、建陽の心臓を狙う。


だが、その攻撃を素早く躱し、突き出された剣刃を右手に握った剣で受け止めた。

「くっ…!」

建陽は強く歯を食いしばったが、右腕には力が入らない。

額から脂汗が浮かび、眉間から滝の様に流れた。


「ほう、まだそんな余力が有るとは驚きですね…!これは、即効そっこう性の猛毒なのですよ。やがて全身が麻痺し、動かなくなるのです…!」

そう言って、再びにやりと笑いを浮かべた貫は、震える建陽の手から剣を跳ね上げると同時に、その右腕を斬り付けた。


「はぁ、はぁ、はぁ…!」

腕を斬られた建陽は傷口を押さえ、その場に片膝を突いて激しく肩で息をした。

次第に視界がかすみ、建陽の顔は見る間に青褪あおざめて行く。


貫は「くっくっ…」と不気味な笑い声を上げながら建陽に歩み寄り、目を三日月の様に細めて、ぞっとする様な微笑を作って彼を見下ろす。


血の付いた剣を頭上にかざし、それを建陽の首を目掛けて一気に振り下ろした。


「!?」


その時、貫は咄嗟に振り返り、幕舎の外から飛び込んで来た矢を素早く剣で払い落とす。


矢は三本同時に放たれたものであったが、貫は目にも止まらぬ速さで、全てをたくみに叩き斬っていた。

足元に切断された矢が、ばらばらと落ちる。


「ほう、三本同時に打てると言うのは、嘘では無かったようですね…!」

顔を上げた貫は、幕舎の入り口に立つ者を鋭い目で睨み付けながら、不敵な笑みを浮かべた。


幕舎の入り口に立った奉先は、矢筒やづつから残った一本の矢を抜き取り、弓につがえる。


「放てる矢は、三本だけと言ったか…!?」


奉先のその言葉に貫はいぶかしげに眉をひそめたが、次の瞬間、彼は「かっ」と口から血を吐き出した。

「くっ…!」

見ると、腹部に矢が突き立っている。


「な、何だと…!!」

貫は青褪め、よろめいた。


「これで終わりだ…!!」


奉先が放った矢は貫の胸を貫き、その体は後方へ弾かれて燭台と共に倒れた。

倒れた燭台の炎が彼の体へと燃え移り、忽ち激しい炎を立ち上らせて、幕舎を火の海へと変える。


「父上…!」

奉先が叫んで走り寄ろうとすると、建陽はそれを手で制し声を振り絞って叫んだ。


「来るな!今すぐ此処から立ち去れ、奉先…!」


「し、しかし…!」

奉先は狼狽うろたえ、その場に立ち尽くす。

ゆっくりと青褪めた顔を上げた建陽は、虚ろな眼差しを奉先に向け、やがて僅かに微笑した。


「わしの命数めいすうは、既に尽きておる…わしの事は、もう良いのだ…何故戻った?お前は、此処へ戻るべきでは無かった…」


「父上を、見捨てて行く訳には参りません…!」

奉先は赤い目を潤ませ、建陽を真っ直ぐに見詰めた。


「そうか…わしは少し、お前を見縊みくびっていたようだな…お前は誰かを見殺しにして、我が身を護るような男では無かった… 」


建陽が悲しげな瞳で、立ち尽くす奉先を見詰め呟いた時、突然、背後の炎から人影が浮かび上がり、いきなり建陽の背中へ飛び付いた。


「父上!!」


その瞬間、奉先は悲鳴にも似た叫び声を上げた。

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