第115話 揺らぐ絆



翌朝、空には暗雲が立ち込め、太陽の日差しも地上に届かぬ程の薄暗さだった。

軍法会議が開かれている広い幕舎の外には篝火が煌々と輝いており、辺りは既に夕闇に包まれたかの様である。



「わしの命令が、聞けぬと申すのか!?」



突然、破鐘われがねの様な怒鳴り声が幕舎の外にまで響き渡った。


声の主は丁建陽である。

彼は目をいからせ、憤怒ふんどの表情で目の前にひざまづく人物を睨み付けている。


「どうあっても去らぬと申すなら…例えお前であっても斬り捨てるぞ…奉先!!」


建陽の前に跪き、拱手きょうしゅしたまま俯いている奉先は、額に汗を浮かべて青褪あおざめていた。


騒ぎを聞き付けた兵士たちが幕舎の周りに集まり、入り口は黒山の人だかりとなっている。


「叔父様…!」

その兵士たちを掻き分けながら、玲華が幕舎へと入って行く。

「一体…何があったの?!」

走り寄ろうとする玲華を、建陽は手で制した。


「玲華、お前には関係の無い事だ!退がっておれ…!」

「で、でも…!」

言い掛けた玲華を、建陽は鋭く睨み付ける。

そこへ、側近の雅敬がけいが進み出ると、


「この裏切り者め…!丁将軍に厚遇されながら、恩をあだで返すとはな!これでも、まだしらを切る積もりか…!」

そう毒突どくづいて、手にした書簡を奉先の足元へ投げ付けた。


書簡を縛る紐が解け、床の上に広がる。


「それは今朝、お前の舎で発見したものだ!丁将軍の首を董卓に献上する代わり、約束通り馬や宝の数々をお前に与えると、はっきりと書いてある…!」


奉先は震える手でそれを拾い上げ、書かれた文字を赤い目で追った。

雅敬が目をいからせながら荒げる声が、何処か遠くから響いて来る様に感じる。


「ま、まさか…奉先が…!」

玲華は信じられないという表情で、奉先を見詰めた。

青褪めた顔のまま、赤い目で建陽を見上げた奉先は、


「あ、有り得ません…父上、俺は…!」


声を震わせ、自分の胸に強く手を押し当てて必死に訴える。

建陽はそれを制し、


「黙れ、詰まらぬ言い訳など聞かぬ!即刻、此処から立ち去らねば、お前を斬り捨てる…!」


そう言って、手にした剣を鞘からゆっくりと抜き取ると奉先の首筋へ切っ先を向けた。


「わしの首が欲しければ、力ずくで取るが良い…!」


「……!父上、俺は父上を裏切ったりしない…!」


それでも奉先は、潤んだ瞳で強く建陽を睨み返す。

建陽は怒りをその目に宿し、奉先を睨み返すと掴んだ剣を高く振り上げた。


「わしを甘く見るな…!!」


振り下ろされた剣は、奉先の頭上へと迫る。


「叔父様、やめて!!」

思わず玲華は顔を両手で覆い、悲鳴にも似た叫び声を上げた。


床に、赤い血がしたたり落ちる。


ひざまづいた奉先の足元には、真っ赤な鮮血が広がっていく。

赤い目を見開き、奉先は微動だにせず建陽を見上げていた。


建陽が振り下ろした剣は、奉先の額の真上で止まっている。

僅かに触れた剣刃が彼の額を切り付け、眉間から頬を伝って血が流れていた。


「どうした…?何故剣を抜かぬ…!?わしの首が欲しくないのか!?」

建陽は冷静さを取り戻した様に、低く問い掛ける。


「信じて頂けぬなら、どうぞお斬り下さい…!」


「死をもって、己の潔白を証明したいと申すのか…!自惚うぬぼれるな、お前の命にどれ程の価値があるのか?!お前など斬っては、このわしの名が汚れるだけだ…!」

そう言うと建陽は剣を引き、素早く鞘へ仕舞うと、奉先に背を向けた。


「養子とはいえ、息子に裏切られるとは…わしの至らなさである。お前は追放する!二度とわしの前に姿を現すな…!」


怒りを抑えながら語る建陽の背中を、奉先は目を潤ませながら見上げていたが、やがて肩を震わせながら深く項垂うなだれた。


「何をしている!早くそいつを外へ追い出せ!」

唖然としてその様子を見ていた護衛の兵士たちに向かい、雅敬が怒鳴り付ける。

護衛たちは慌てて、手にした戟を奉先に向けながら、彼の周りを取り囲んだ、


「お、おい…!さっさとしろ!早く立て!」

護衛たちは切っ先を向けて促したが、奉先は俯いたまま動こうとしない。

彼はまぶたを強く閉じ、握り締めた拳を震わせている。


兵士たちが詰め寄った、その時、


「寄るな!!」


突然奉先は、地を割る程の怒声で、取り囲んだ兵士たちを怒鳴り付けた。


恐れおののきながら見上げる兵士たちの前で、異様な瘴気しょうきの様なものを沸き上がらせながら、ゆっくりと体を起こし、奉先は立ち上がる。

やがて閉じた瞼をかっと見開き、怒りをたぎらせた赤い瞳を目の前の建陽の背に向けた。


「父上…!」


唸る様に呟くと、震える左手を腰にいた剣へと伸ばす。

次の瞬間、奉先は剣を素早く抜き放ち、頭上へ高く振り上げると一気に振り下ろした。


「!!」


それは余りに一瞬の出来事で、固唾かたずを呑んで見ていた兵士たちの誰一人、彼を止める事は出来なかった。

玲華は瞠目どうもくしたまま息を呑み、声も上げられずにいる。


剣は、彼の足元に広がった血溜ちだまりの中に突き立っていた。

血濡れた顔を上げた奉先は、建陽の背中に向かい拱手する。


「父上、あなたから受けた御恩ごおんを、俺は一生忘れません…!」


震える声でそう言い放った奉先は、素早くきびすを返し、外套がいとうひるがえして周りの兵士たちを押し退けながら、幕舎から出て行こうとした。


「奉先…!」

我に返った玲華は、彼の名を呼んで呼び止めようとしたが、奉先は振り返る事無く出て行った。


「………」

背を向けたままその場に佇んだ建陽は、憂いを帯びた眼差しで虚空を見詰め、やがて目を伏せた。




幕舎から走り出た玲華は奉先を探したが、彼の姿は既に見当たらなかった。


「玲華殿…!」

その時、背後から呼び掛けながら、張文遠が走り寄って来る。

彼は朝の調練の為、部下たちを引き連れ陣営を離れていたが、騒ぎを知って急ぎ幕舎まで駆け付けて来た所だった。


「何があった?!今、馬で出て行く奉先と擦れ違い、呼び止めたが彼は何も言わず行ってしまった…!」

文遠は困惑した顔で玲華に問い掛ける。

立ち止まった玲華は彼の顔を見上げ、おもむろに口を開いた。


「……昨夜ゆうべ、あなたと奉先が董卓の配下らしき人物と会っていたのを、見た者がいるわ…」


「…!?」

文遠の瞳には明らかに動揺の色が浮かんだ。


「そ、それは…」

「やっぱり、本当だったのね…」

小さく溜め息を吐き、玲華は暗い瞳で俯くと、肩を落としながら文遠に背を向けゆっくりと幕舎の方へと歩き出す。


「玲華殿、待ってくれ!確かに、俺と奉先は董卓の配下に会った。董卓のもとへ、寝返るよう誘われたのも事実だ…!」


遠ざかる玲華の背中を真っ直ぐに見詰め、文遠は声を掛けた。


「だが…あなたは、彼を誤解している…!」


その言葉に玲華は振り返り、彼の瞳を訝しげな眼差しで見詰めた。



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