第110話 雨夜の訪問者 《五章 最終話》


目の前に立つのは、少年の面影おもかげが残ってはいるが、邪気あどけなさをすっかり脱ぎ去り、立派に成長した青年の姿である。

離れていた年月としつきはそれ程長いものでは無かった筈だが、彼にとっては何十年もの長さだった気がする。


既に雒陽らくようを離れたものだとばかり思っていた奉先は、驚きの表情で彼を見詰めた。


「孟徳殿……!」


声を押し殺す様に低く唸る。

懐かしいその顔を眺めると、胸の奥が強く締め付けられ、不意に目頭が熱くなった。


立ち尽くす奉先をじっと見詰め返していた孟徳だが、やがて口角を上げて微笑し、ゆっくりと彼の方へ歩み寄る。



あるじを簡単に裏切る様な犬を、相手にするのでは無い…!」



彼の口から発せられたその言葉に、奉先の体は一瞬にして凍り付いた。

孟徳は冷笑を浮かべて奉先を一瞥いちべつすると、彼の横を通り過ぎ、文謙の肩を叩いて歩くよう促す。


「しかし、孟徳殿…!」

文謙は振り返って奉先を睨みながら、不満げに答える。


「もう良い、構うな。行こう…!」

孟徳は文謙の腕を取り、半ば強引に彼を引っ張って歩かせる。

二人はそのまま、街道を歩いている人波の中へ姿を消して行った。


その場に立ち尽くした奉先は、後ろを振り返る事が出来なかった。


こうなる事は分かっていた筈である…

固く握った拳が小刻みに震え、目元を赤く染めた奉先は項垂うなだれた。


やがて空は灰色の雲に覆われ、辺りは次第に薄暗くなって行く。

地面に小さな斑点はんてんが広がり始め、冷たい雨粒が青白い彼の頬を濡らした。


街道を歩いていた人々は、雨を避ける為、足早に建物の中へと姿を消して行く。

次第に強くなって行く雨の中、 その場に立ち尽くしたままの奉先は、気付けばたった一人街道に取り残されていた。


それでも動こうとしない奉先の背後に飛焔がゆっくりと近付き、一度大きくブルルッと首を振った後、頭を下げて彼の肩を鼻面で押して歩かせようとする。


「奉先様…!」

心配して馬で駆け付けて来た公台こうだいが、城門の近くに佇む彼の姿を発見し、馬から降りて走り寄った。


「一体、何があったのですか?」

公台は不安な表情で奉先の肩を揺すり、問い掛ける。

雨に濡れるその顔を覗き込む公台には、赤い目をして俯く彼が、泣いているのか判別する事は出来なかった。


やがて目を動かし公台に視線を送ると、奉先は力の無い目をしたまま彼に笑い掛け、


「心配は無い。夫人は、無事に雒陽ここを去られた…」

呟く様にそう答え、振り返って飛焔に歩み寄ると、その背に跨がって歩き始めた。

やがて遠ざかるその後ろ姿を、公台はただ呆然ぼうぜんと見送った。



朝から降り始めた雨はその日一日降り続き、既に夜半を過ぎたが止む気配は無かった。

冷たい雨が屋敷の屋根瓦を打ち、時折風が窓をがたがたと揺らしている。


暫くの間、奉先の屋敷に間借りする事になった公台は、僅かな荷を持って彼の屋敷の一室に入っていた。


士恭しきょう様は、奉先様とは長い付き合いなのですか?」

荷を運び込む作業を手伝ってくれた高士恭に、公台が問い掛けた。

二人は部屋の片付けを終え、燭台の灯の下で杯を交わしながらくつろいでいた。


「いや、俺はそう長くは無い。長年、丁将軍に仕えていた将の殆どは彼の死に依り、奉先殿の元を去ってしまったのでな…」

士恭はやや声色に憂いを漂わせて答える。


しとしとと耳障りな音を立てながら響く雨音を、突然、公台の声が掻き消した。


「親殺し…ですか!?」


「しっ…!声が高い!」

思わず叫んだ公台を士恭は慌てて掴み、彼の口を押さえた。

公台は瞠目どうもくして士恭を見上げたが、まだ信じられないと言う表情をしている。


「奉先殿が董仲穎の配下となったのは、丁将軍の首を献上したからなのだ。丁将軍は、奉先殿の養父ちちでもあった…彼らは実の親子以上の固い絆で結ばれていた。"あの日"まではな…」


「"あの日"…?」

公台が呟いた時、屋敷の表門を何者かが叩いている音が響いて来た。

こんな時間に?と二人は訝りながら、屋敷の門の方を振り返った。


一点の明かりも無い暗闇の中、雨に濡れる屋敷の門を、強く叩く者の姿がある。


応対に出た公台と士恭は、こんな時間にやって来る訪問者を訝しがり、武器を片手に、門扉もんぴを少しだけ開いて外の様子を伺った。


そこには、西方域の異国風な旅姿たびすがたをした人物が、一人佇んでいる。

頭から顔にかけて布を巻き付け、その人相を見る事は出来ない。

やがて彼は俯いたまま、二人にに低く問い掛けた。


「俺は、呂奉先殿の知人だ…彼は居るか?」


訪問者は居室へ通され奉先と向かい合うと、雨に打たれ、濡れて重くなった外套がいとうを脱ぎ、頭に巻いた布をほどく。

燭台の薄明かりが照らす中、その下からは見知った人物の顔が現れた。


「お前か、文遠ぶんえん…!」


奉先は目を細め、彼の顔を見詰めた。

そこに居るのは、丁建陽の元配下であった、張文遠である。


「ああ、お前に会う為、此処まで来たのだ。元気そうだな…」

文遠はそう言って、彼に微笑を返す。

二人は暫し見詰め合い、互いにこれまでの事を思い起こしている様子であったが、やがて奉先が口を開いた。


玲華れいか殿は…ご無事か?」


その問いに、文遠は少し険しい表情で答える。

「ああ無事だ…だが、彼女はお前の事を心配している。お前は、今では彼女にとって叔父の仇敵きゅうてきだからな…会いたくても会えぬのだ…」


それを聞き、奉先は瞳に暗い影を落とした。


「玲華殿は、俺の命の恩人だ…済まぬ文遠、玲華殿の事を…宜しく頼む。」

そう言うと、床に手を付き深く頭を下げる。

やがて頭を起こし、両膝の上で拳を固く握り締めると、俯いたまままぶたを強く閉じた。


「奉先、お前…やはりまだ、玲華殿の事を…」

両手の拳を震わせている彼の姿を見詰めながら、文遠は眉間に深くしわを寄せる。


「俺は…彼女の事を心からおもっている…これからも、ずっと想い続けるであろう…」


彼が文遠に、玲華に対する心情を吐露とろする事は今までに一度も無かった。文遠の表情は複雑である。


奉先は、初めから文遠の玲華に対する想いを理解していた。

だからこそ、今までずっと隠していたのであろう。それをさらけ出すと言う事は、もう二度と彼女には会わぬと強く決意したからに違いない。


文遠は瞼を閉じ、深く息を吸い込むと、それを大きな溜め息に変えて吐き出す。

それから目を開き、項垂うなだれている奉先を強い眼光で見詰めた。


「彼女には、俺が付いている…!玲華殿の事は、心配しなくても良い。その代わり、" あの日 "何があったのか…俺に全部話してくれるな?」


文遠は語気ごきを強め、促す様に問い掛ける。

やがて顔を上げた奉先は、赤く充血した瞳で文遠の険しい表情を見詰めた。



-《第五章 完》-

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