第109話 妨げる者


その集団は仲穎の軍隊である。

やがて兵士たちの間から、馬に跨がる仲穎が姿を現した。


「趙夫人…わしに無断で、雒陽を離れる積もりか?わしの命に従わねば、罪人として捕らえねばならぬぞ…!」


仲穎は車上の夫人を鋭く睨み付け、低く感情を押し殺した声で告げる。


「相国、私はあなたの元へは行きません!あなたの物になるぐらいなら、今此処で死んだ方がましです…!」


夫人は車上で立ち上がり、仲穎を睨み返す。

その勇猛な姿に気を呑まれ、兵士たちは呆気に取られて夫人を見上げた。

仲穎は口元を歪めてふてぶてしく笑いながら、目を細めて夫人を見詰める。


「怒った顔も実に美しい…!そなたを、何としても我が物にするぞ…!」


仲穎はそう言うと、兵士たちに命じて夫人の車を取り囲ませた。

「お、お母様…!」

夫人の足元には、恐怖で怯える雪月の姿がある。

雪月は涙を浮かべて母の後ろ姿を見上げた。


兵士がげきを構え、車に近付こうとした時、兵士の戟は突然、宙へ高く跳ね上げられた。

「!?」

兵士たちが狼狽うろたえ後方へ身を引くと、彼らの前には剣を握った奉先が立っている。


「奉先!貴様、何の積もりだ…!」

仲穎は怒りをあらわにしながら怒鳴った。


「相国の方こそ、婦人一人の為に兵を差し向けるとは、どういうお積りか!」


構えた剣を横に薙ぎ払い、奉先は仲穎を睨んで言い返す。


「その女は、わしの女だ!捕らえて連れ帰る!」

「夫人は、相国の元へは行きたく無いと言っておられる!無理矢理連れて行くと申すなら、俺が相手になる…!」


馬上の仲穎は強く歯軋はぎしりし、苛立ちながら奉先を睨んだ。

「貴様…わしに刃向かえば、死罪だぞ…!」


だが、奉先はおくする様子を見せず剣を構え、仲穎を睨み返している。

取り囲む兵士に、仲穎が攻撃の合図を送ると、兵士たちは一斉に奉先に襲い掛かった。


奉先は襲い来る戟に身をひるがえし、右へ左へと上体を反らして素早くかわす。

左手に握った剣を逆手さかてに握り返すと鋭く振り上げ、兵士たちの戟の柄を次々と切断していった。


今度は剣を構えた兵士たちが斬り掛かる。

次々に振り下ろされる剣刃けんじんを奉先は剣でことごとく弾き返し、繰り出すこぶしで兵士たちを殴打し、膝蹴りで打ち倒す。

鬼神の如き戦い振りに、兵士たちは皆震え上がった。


そこへ、激しくいななきを上げながら兵士たちの中へ飛び込んで来たのは飛焔である。

飛焔は逃げ惑う兵士たちを蹴り飛ばし、奉先の元へと駆け付ける。


配下から弓を受け取った馬上の仲穎は、矢をつがえ、奉先を狙って弓を引き絞ると、充分に狙いを定めて矢を放った。


放たれた矢は兵士たちの間を縫って、高速で奉先の背後へと迫る。


だが次の瞬間、奉先は振り向き様に、目前に迫ったその矢を素手で素早く掴み取った。

それには仲穎も思わず舌打ちをし、悔しげな表情で奉先を睨み付ける。


「相国!あなたが詰まらぬ人物であれば、丁建陽と同じ様に斬ると、申した筈である…!」


奉先は掴んだ矢を片手でへし折り、仲穎の方へ向かって投げ付けながら怒りの表情で怒鳴った。

それから素早く身を翻して飛焔の背に跨がると、夫人の車を護衛しながら街道を進み始める。


「奉先!何処へ行く気だ!?」

「夫人を見逃さぬのなら、俺は夫人と共に雒陽ここを去るのみ…!」

振り返った奉先は、鋭く仲穎を睨み付けて言い放った。


「くっ…今、貴様を手放す訳には行かぬ…!」

強く歯噛みをし、仲穎は声を押し殺しながら呟いた。


こんな事なら、曹孟徳の首をさっさと斬っておくべきであった…!

仲穎は激しい後悔の念を抱いた。


「良かろう…!望み通り女は逃がしてやる!だが、貴様はわしの元に残るのだ…!」


馬上の仲穎は、大声でそう言うと片手を振り上げ、兵士たちに武器を収めて引く様命じる。

その合図に兵士たちは車から離れ、退がって彼らに道を開けた。


やがて城門の前まで辿り着き、奉先は飛焔から降りて夫人の車へ歩み寄った。

車から身を乗り出した夫人は、涙をたたえた瞳で奉先の方へ腕を伸ばし、彼の肩を引き寄せると強く抱き締めた。


「奉先様、どうも有り難うございます…!」

夫人の瞳から大粒の涙が頬を伝って流れ落ちる。

奉先は夫人の背中に腕を回して優しく撫でた後、名残惜しい気持ちを抑えながら、そっと彼女から離れ、微笑を浮かべて涙に濡れる夫人の顔を見詰めた。


「ご夫人、あなたは俺に、感じた事の無い母の温もりを教えてくれた…心より感謝します。どうぞお元気で。」


そう言うと動き出した車から離れ、門を潜って行く夫人と旅の一行を黙って見守った。

夫人は身を乗り出したまま、遠ざかる奉先の姿を何処までも見詰め続けていた。


やがて城門が閉じられ、その姿が見えなくなると、夫人は腰を下ろし、涙で濡れた頬を着物の袖口で拭い取った。

それから急に思い立った様に顔を上げると、車の御者に声を掛ける。


「沛国へ向かってちょうだい…!」


その言葉に御者は訝しげに振り返り、夫人を見上げた。

「沛国へ…ですか?」

「ええ、お願いします…」

隣で母の様子を見ていた雪月もまた、御者と同じ様に首を傾げていた。



城門が完全に閉じた後、兵士たちを引き連れた仲穎の大きな影が、背後からゆっくりと迫って来る。

振り返ると、馬上からひややかな眼差しでこちらを見下ろしている仲穎の姿があった。

その目には怒りをたぎらせている。


「わしの邪魔をする事は許さん…!良いか、二度目は無いと思え…!」


仲穎は奉先を睨みながら、振り上げた腕で彼を鋭く指差し、凄みのある声を放って忠告した。


「相国の寛大さに、感謝致します。」


奉先はそれには動じず、そう言うと馬上の仲穎に向かって拱手し、静かに頭を下げた。

奉先の言葉にはやや皮肉が込められている。

仲穎にはそれと分かったが、彼を一瞥いちべつしただけで馬首を返し、兵たちを連れその場から立ち去って行った。


城門の前に佇んだまま、奉先はただ黙って次第に遠ざかる仲穎の軍隊を見送っている。


相国は、まだ俺を心から信用しようとはしない…

見据えたその目に暗い影を落とし、奉先は胸の奥で呟いた。


「ほう、これが相国から贈られたと言う名馬か…!」

「?!」

その声に奉先は、はっと我に返って振り向いた。


そこには、飛焔を興味深く見上げている一人の青年の姿がある。

飛焔は前脚を激しく踏み鳴らし、その男に敵意を示していた。


「飛焔…!」

奉先は呼び掛け、素早く近付くとその首筋を撫でて落ち着かせる。


「立派な馬や官職を貰い、すっかり良いご身分だな…!」

露骨に嫌みを言いながら、男はふてぶてしく笑い掛ける。

その男の顔には、何処かで見覚えがあった。が、咄嗟とっさには思い出せない。


「誰だ…?」

奉先が訝しげに問い掛けると、いきなり男は彼の懐へ飛び込み、胸倉むなぐらを掴み取った。


「貴様よくも…!貴様の所為せいで、孟徳殿は…!」

「!?」

怒りの表情で睨み付けるその顔を、ようやく奉先は思い出した。


「お前…あの時、虎淵こえんと一緒にいた男か…!」

奉先が男を睨み付けながら低く呟いた時、



「文謙!止めろ…!」



彼の背後に人影が現れた。


その声に、奉先の鼓動は大きく脈打ち、心臓を荒く鷲掴わしづかみにされる感覚に陥った。

体が強張こわばり、息をするのも苦しい。

額に汗を浮かべながら、ゆっくりと後ろを振り返る。


すると、そこには長い黒髪を風になびかせて佇む、美しい青年の姿があった。

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