第108話 母の温もり


暖かい日差しが降り注ぐ街道を、奉先は飛焔ひえんに跨がり、ゆっくりと進んでいた。

まだ少し風は冷たいが、柔らかい花のが漂う心地の良い午後、奉先が向かったのは雒陽らくよう城内の片隅に佇む一件の屋敷である。


屋敷には、飛焔が厩舎きゅうしゃを脱走し、街中まちなかを荒らし回った時、しゃに乗っていたあの婦人が住んでいるらしい。

助けられた礼がしたいと、彼女の住む屋敷へ招かれたのである。

 

自分の失態で巻き起こした騒動の為に、感謝を言われるのは心苦しかったが、折角の好意を無碍むげに断るのも申し訳無いと思い、彼は婦人の申し出を受ける事にした。


奉先の後ろには、従者として高士恭も馬で同行している。

やがて屋敷の門が見えて来ると、そちらから一人の青年が走り寄って来た。


「呂奉先様、お待ちしておりました!今日はお越し頂き、誠に有り難うございます。奥方様も、大層喜んでおいでです!」

彼はあの時、車を御していた青年である。

嬉しそうに顔をほころばせ、奉先と飛焔の前に立つと深々と頭を下げた。


それから飛焔を見上げ、彼はいささか驚きの表情を見せる。

「こ、この馬は…あの時の?」

そう言って、思わずたじろいだ。


「この馬は飛焔だ。心配無い、もう人は襲わぬ。」

奉先は飛焔の背からひらりと舞い降り、笑って彼の肩を叩いた。

それを聞いて、青年は安堵の表情を浮かべると、


「申し遅れましたが、僕はちょう夫人にお仕えしております、陳公台ちんこうだいと申します。」

そう言って奉先に向かって拱手し、さわやかに微笑んだ。


彼は士官先を求め、故郷の兗州えんしゅうを離れてこの雒陽へやって来たのだが、彼の家系は裕福な家柄では無かった為、朝廷や宦官へ上納する金に事欠き、結局官職に就く事が出来なかった。


「財産も無く、路頭に迷っていた僕に救いの手を指し述べて下さったのが、奥方様だったのです。奥方様がいなかったら…僕はもうとっくに死んでいたでしょう。」

奉先と士恭を屋敷へと案内し、広い庭を歩きながら公台は語った。


「奥方様は、とても愛情の深いお方です。それに高貴な家柄の出で、今は庶民として暮らしておいでですが、今は亡き先帝"桓帝かんてい"の寵妃ちょうひでいらっしゃったのです。」


それを聞いて、奉先はやや気後れした。

「その様な方の所へ、俺みたいな田舎者が行っても大丈夫かな…?」

「大丈夫ですよ、あなたは今や立派な武人でしょう!自信を持って。」

不安な表情で振り返り、小声でささやく奉先の肩を、士恭は笑いながら力強く叩く。



屋敷の広間には宴席が設けられ、夫人の娘、雪月せつげつが美しい舞を披露し、侍女たちが音楽を奏でて彼らをもてなしてくれた。

やがて美しい紅梅色こうばいいろの着物を身にまとった趙夫人が現れ、奉先と士恭の前に膝を突いて丁寧に礼をした。


「ようこそおいで下さいました。本日はどうぞ、存分に楽しんで下さいませ。」

夫人は艶のある唇で柔らかく微笑む。

彼女の年齢は四十に近いが、張り艶のある肌は透き通る様に白く、美貌びぼうの持ち主であった。      


かつて、これ程美しいひとを見たのは、曹家の青蘭せいらん様ぐらいであろう…


奉先は彼女の美しさに暫し見惚みとれ、返事を返すのも忘れてしまった。

すると隣に座した士恭に肘で突かれ、はっとして礼を返すと、趙夫人は口元を着物の袖で隠しながらくすくすと笑った。


「奉先様のお故郷くには、どちらですか?」

宴もたけなわとなった頃、夫人は奉先の隣で微笑をたたえて問い掛けた。


はいしょう県より参りました…が、生まれは何処だか分かりません。俺は、 曹家のあるじ、曹巨高きょこう様に幼少の頃拾われ、育てられました。」

奉先は包み隠さず、そう答えた。


左様さようでございましたか…不躾ぶしつけな事をお尋ねし、申し訳ございません。」

夫人は少し驚きの表情を見せ、姿勢を正して詫びたが、

「いえ、構いません。俺の方こそ、卑賤ひせんの身でこの様なもてなしを受けるとは、身に余る光栄です…!」

奉先は慌ててそう答え、夫人に笑顔を返した。

夫人は再び微笑し奉先を暫し見詰めると、やがて口を開いた。


「失礼のついでに…一つお願いを申し上げても宜しいでしょうか?」

「?」

多少の戸惑いを覚えたが、奉先は黙って小さく頷き、夫人の言葉を待った。


「実は…わたくしは、もうすぐ雒陽ここを離れる積もりです。相国しょうこく董仲穎とうちゅうえいは、私に自分のしょうになるよう、しつこく迫っております…このままでは、家族や屋敷の家人かじんたちにも被害が及びます故、そう決断致しました。」


夫人はまぶたを下げ、伏し目がちにささやく様に語る。

相国が欲しがるのも、良く分かる。

その表情は更に艶やかさを増し、目を見張る程に美しかった。


「それで、俺に何を頼みたいのです?」


「はい…お願いしたいのは、従者の公台の事です。あの子は、とても賢く忠義心もごさいますが、私はこのように身をやつしております故、財産も少なく…あの子の力になってやれません。ご迷惑でなければ、奉先様の元へ置いてやって頂けないでしょうか?」


そう言って顔を上げる夫人の瞳は赤みを帯び、涙を浮かべ潤んでいる。

奉先は暫し、夫人の潤んだ瞳を見詰めていたが、やがて微笑を浮かべながら答えた。


「分かりました。公台殿の事は、どうぞご心配なさらず。」


それを聞いた夫人は涙で頬を濡らし、そっと彼の手を取って両手で包み込む。


夫人の白く細い手は柔らかく、温かい。

母親を知らぬ奉先にとって、母の温もりというものは想像も出来なかったが、これこそがそうなのではないかと、ふとそう思った。



夫人が屋敷を去る日の朝、彼女の柔らかい手を強く握り締め、涙を流して強くかぶりを振った公台は、奉先たちと共に雒陽に残る事を拒んだ。


「公台、これはあなたの為ですよ。あなたの才を、天下の為に使わねば成りません…!」

「僕は、もう士官などどうでも良いのです…!奥方様の側に居られれば、それだけで構いません…!」

「公台…」

夫人は目を細めてその姿を見詰めると、腕で涙を拭う彼の肩をそっと抱き締め、優しく囁いた。


「私には、幼くして手放した男児がおります…その子はもう生きてはいないでしょうが、あなたをその子だと思って、今日まで見て来たのです。これからは、自分の為に生きるのですよ…!」


暫く俯いたままむせび泣いた公台は、やがて膝を折って夫人の前にひざまづくと、止めどなく溢れる涙で濡れた瞳を上げ、夫人を見上げて拱手し深く頭を下げた。


「それでは奉先様、公台の事をどうぞ宜しくお願いします。」

夫人はそう言って、見送りに訪れていた奉先を振り返って微笑み掛けた。


「ご夫人、道中お気を付けて。」

奉先は夫人に向かって拱手し、公台の肩を支えて立ち上がらせると、並んで夫人を見送る。


夫人は何度も振り返りながらしゃへ乗り込み、先に乗り込んだ娘の雪月の隣に腰を下ろした。


「お母様、弟が居たなんて話…私には、して下さらなかったじゃないの?それに、その子は皇帝の…」

「…もうずっと昔の事よ。忘れなさい…」

静かに娘の言葉を遮り、夫人は御者に出発の合図を送って車を前進させた。


その時である。


「止まれ…!趙夫人であるな。何処へ行かれる?!」

通りの向こうから、突然黒い集団が現れ、夫人の乗る車の前を塞いだ。



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