第107話 奉先と飛焔


頭を起こした飛焔は大きく首を振り、そこから後退あとずさって離れようとした。

が、右前脚にめられた枷から伸びる鎖が崖下へと伸びている。


何と崖の下には、片手で鎖に掴まり宙吊りになった奉先の姿があった。

奉先は飛焔の首から手を離した瞬間、飛焔の右前脚の鎖を掴み取っていた。


飛焔は脚をばたつかせて暴れたが、鎖に掴まる奉先の重みで、次第に崖の方へと引き擦られる。

飛焔は巨体であり、その体を脚三本で支えて立つ事は難しい。

必死に踏ん張ろうとするが、前脚が使えず、上手く自分の体が支えられないでいる。


このままでは、自分も崖下へ転落する事になると悟った飛焔は、やがて暴れるのを止め、脚を地に着けてゆっくりと後方へ下がり始めた。

飛焔が大人しくなると、奉先は鎖を両手で掴み、崖の岩壁に足を付けて崖を登って行く。


ようやく崖の上に辿り着き、奉先は崖に手を掛けよじ登った。

「はぁ、はぁ…!」

奉先は地面に転がり、激しく肩で息をする。


流石に疲労困憊こんぱいしたらしい飛焔の毛並みは、汗で全身が濡れて泡立ち、 首を項垂うなだれて荒い鼻息を繰り返している。

奉先は体を起こすと、飛焔を見上げた。


「お前は、やはり賢い馬だ…!」


そう言って笑い掛けたが、飛焔は既に彼への興味を失ってしまったのか、無反応のまま彼に背を向け歩き始めた。


飛焔はやがて、遥か前方の山並みを遠く眺めるかの様に丘の上に佇み、奉先が静かに背後から近寄っても、全く振り向こうとしなかった。

西の空は既に茜色に染まり、飛焔の赤い体は夕日を浴びて更に赤く輝いている。


「お前の故郷くには西方であったな…故郷へ帰りたいか…?」


奉先の問い掛けに、飛焔は若干耳を後ろへ動かすだけである。


「あの空の下には…お前を待つ、大切な者がいるのであろうか…」

奉先は呟くと、飛焔の隣に立ち同じ様に夕日の下に広がる山並みを眺めた。



「俺には…もう戻る故郷は何処にも無い。大切な人も、護りたい人も、もうこの世には存在しないのだ…」



頬を吹き抜ける冷たい風に向かって、奉先は独り言の様に呟いた。

胸の奥から、何か熱いものが込み上げて来る。

それを冷静に抑えながら、奉先は静かにまぶたを閉じ、深く息を吸い込んだ。


再び瞼を上げると、佇む飛焔を見上げる。


「好きな所へ行くが良い…!俺はもう、お前を追わぬ。」


そう言って微笑し、 奉先は振り返って乗って来た馬に跨がると、丘の上に飛焔を残したまま、北邙山を下り始めた。

街道を暫く下って行くと、やがて後方から馬蹄の音が近付いて来る事に気付き、振り向いた。


見ると、飛焔が同じ様に街道を下って来ている。

奉先が馬を止めると、飛焔も同じ様に立ち止まった。

再び歩き出すと、飛焔も同じ様にして歩き始めるのである。

その姿に奉先は思わず、ふっと笑った。


「お前、故郷へ帰るのでは無いのか?」


そう呼び掛けると、飛焔は一度大きくいななきを上げ、静かに近寄って奉先の馬に背を並べる。

奉先は目を細め、並んで歩く飛焔の太く逞しい首筋を優しく撫でた後、その首を強く叩き、走り出す飛焔と共に風の中を駆け出した。



「赤兎馬が、戻って来たよ…!」


童子のその叫び声に、雒陽の住民たちは再び恐怖し狼狽うろたえた。

だが、人々の目に映ったのは驚くべき光景である。


先程まで暴れ回っていた飛焔が、大人しく奉先の馬の後に付いて歩いている姿だった。

目の前を通過して行く彼らの姿を、皆目を丸くして見詰めた。


仲穎の厩舎きゅうしゃまで戻ると、兵士たちもまた驚きの表情で彼らを迎えた。

「あの飛焔が…信じられない…!」

兵たちは口々に感嘆の声を上げる。


奉先は馬を降り、飛焔の太い首筋を撫でながら兵士の方へ連れて行ったが、兵士たちは慌てて物陰へ隠れようとする。


「この馬の足枷を、外してやってくれないか?」

物陰に隠れて半分だけ顔を覗かせる兵士に向かって、奉先は呼び掛けた。


「そ、そう言われましても…相国しょうこくのご命令が無ければ…」

兵士が狼狽えながらそう答えると、


「構わぬ、外してやれ…!」


奉先の背後から、野太い仲穎の声が聞こえて来た。

仲穎は騒ぎを聞き付け、今し方この厩舎へとやって来た所である。

ゆっくりと奉先と飛焔に近付き、二人に鋭い眼光を向けた。


「奉先、よくぞ飛焔を手懐てなずけたな。このわしでさえ、屈服させる事は出来ても、その心を開かせる事は出来なかった…」


仲穎が飛焔を睨み付けると、飛焔は嘶きを上げ、敵意を剥き出しにして激しく足を踏み鳴らす。

その姿に、仲穎は面白くない表情で、ふんっと鼻を鳴らすと背を向けて歩き出した。


「その馬は貴様に呉れてやる…!」


振り返る事も無く放ったその言葉に、奉先は思わず瞠目どうもくした。


「伝説の名馬を、この俺に…!?」

「どうせわしには懐かぬ。だが、約束した三頭は返して貰うぞ。赤兎馬一頭で、充分足りるであろう!」


ふてぶてしく言い捨て、仲穎は大股で歩いて行く。

奉先はその背中に向かって拱手した。


「相国、感謝します…!」


仲穎は一瞬歩みを止め、肩越しに奉先を振り返ると、少し鼻で笑ってから再び歩き出し、厩舎から立ち去って行った。



その日から、"赤兎馬"、飛焔は奉先の愛馬となり、雒陽ここへ来てから何時いつも孤独を感じていた奉先にとって、その存在は心の支えとなった。

奉先は毎日の様に飛焔を連れ出し、雒陽城外に広がる草原を心行こころゆくまで駆け回り、一日中彼らは共に過ごした。


「飛焔の事は聞きましたよ。まさか、あの馬が奉先殿の愛馬となるとは…!」


奉先の屋敷を訪れていた士恭は、居室で彼と向かい合って座り、信じられないといった表情でそう言った。

その後、目元に微笑を浮かべて奉先を見詰めると、


「だがやはり、俺の目に狂いは無かったという事だ…」

独り言の様に小さく呟く。


「それはそうと、今日此処へ来たのは、あの時のご婦人から連絡が届いたからなのです…!」

士恭は思い出した様に膝を打って、そう報告をした。


「ご婦人とは、車に乗っておられた、あのかたの事か?」

「はい。命を救って頂いたお礼がしたく、奉先殿を屋敷へお招きしたいのだそうです。」


それを聞いて、奉先は小さく溜め息を吐く。

「礼は不要と伝えたのだが。感謝されるのは、心苦しい…」

「では、お断りしますか?」

奉先は両腕を組み、暫し黙考していたが、やがて顔を上げ、


「それも申し訳無い…一度だけお会いしてみる事にしよう。」

そう答え、少し苦笑を浮かべた。

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