第106話 婦人の救出



"赤兎馬せきとば"、飛焔ひえんが嵐の様に走り去った混乱の中へ、今度は暴走するしゃが飛び込んで来る。人々は再び逃げ惑い、悲鳴を上げた。


奉先は馬を飛ばして暴走する車に追い付くと、繋がれた馬に自分の馬を寄せ、素早くそちらへ飛び移った。

手綱を掴んで制御しようとしたが、馬は一心不乱に走り続けている。

強く手綱を引こうとした時、馬が跳ね上げた大きな木片が奉先の目前に飛んで来た。


「うっ…!」

馬上で身をかわし、それをすんでに避けたが、木片は後方の車の屋根に激突し、車の屋根や覆いを破壊した。


「きゃああー!お母様ー!」

車に乗っていた婦人と若い女性は、悲鳴を上げて抱き合っている。

奉先は片腕で手綱を掴んだまま、右手を二人に伸ばした。


「早く掴まれ!」

その瞬間、片方の車輪が外れ、車が大きく傾いた。


「娘を…!」

婦人はそう叫び、奉先の腕に娘の腕を掴ませる。

奉先は片腕で娘の体を引き寄せ、抱き上げると素早く馬の背に乗せる。

再び振り返った時、繋がれた車は遂に馬から外れ、その反動で乗っていた婦人の体は宙に投げ出された。


車輪は激しい音を立てて大破し、車は原形を無くしながら路上を転がっていく。

馬上の奉先は、飛び散る破片に目をそむけた。


片腕で手綱を強く引き、馬の足を止めると、奉先は振り返って自分の右腕を見下ろした。

車から投げ出された婦人の体は、彼の右腕に抱き留められている。

彼女が宙に投げ出された瞬間、奉先の腕はその体をしっかりと掴んでいたのである。


奉先は安堵あんどの溜め息をき、婦人を腕から下げたまま馬から降りると、ぐったりとした婦人を地面に横たえ、馬上の娘を抱えて降ろした。


「お母様!」

娘は泣きながら、路上に倒れた婦人に駆け寄る。

「奥方様ーーー!」

その時、車を御していた青年と士恭も駆け寄って来た。

青年は婦人の体を仰向けて、そっと腕に抱き上げる。


やがて婦人はゆっくりとまぶたを上げ、放心状態のまま青年と娘を見上げた。

嗚呼ああ雪月せつげつ公台こうだいわたくしは生きているの…?」

婦人は信じられないといった様子で、声を震わせる。


「お助け下さり、有り難うございます!!」

青年は、目の前にたたずむ奉先に深々と頭を下げた。


「いや、俺は礼を言われる立場では無い。元々この騒ぎは、俺の責任なのだ…」


それを聞いて、青年は若干じゃっかん驚いた顔をする。

奉先は士恭を振り返り、

「ご婦人方を、お送りしてくれ。俺は赤兎馬を捕まえる…!」


そう言って再び馬にまたがると、あっという間にそこから走り去って行った。

青年と婦人たちは、暫し呆然としながら、奉先の走り去った先を見詰めていた。



鎖は切ったとはいえ、足枷あしかせを付けたままの状態である。

それでも飛焔の足が衰える事は無く、城内を荒らし回ったのち、止めようとする門衛兵たちを寄せ付けず、遂に城門を突破して城外へ飛び出してしまった。


城の外へ出てしまっては、最早その足に追い付く事は不可能である。

それでも、奉先は飛焔を追って城外へ走り出た。


辺りを見回すと、遥か遠方に砂塵さじんが立ち昇っているのが見える。

「あれか…!」

足枷の鎖を引きずっているお陰か、かなり大きな砂塵を巻き上げながら走っているらしい。


飛焔の蹄跡ていせきを辿って行くと、それはやがて北邙山ほくぼうざんへ向かう街道へと続いていた。

奉先は馬で山を登ったが、何処まで行っても飛焔の姿は愚か、その気配すら見当たらない。


「こちらでは無かったか…」

山の中腹ちゅうふく辺りまで来たが、開けた丘の所で馬を止めた。

奉先は深い溜め息を吐きながら馬から降り、少し進んで林を抜けると、眺めの良い崖の上へと出た。


切り立った崖の上から雒陽らくよう城の方角を眺め、諦めて引き返すべきかと悩んだ。

その時、背後の林の中に、息を潜め目を光らせながら、彼の姿を睨み付けている黒い影が浮かび上がる。


「!?」


それに気付いて咄嗟に剣を抜き放ち、奉先が振り返った瞬間、林から飛び出して来た巨大な黒い影が猛烈に突進した。

奉先は地面を転がり、その突撃をすんでかわす。


飛焔は素早く身を転じ、再び彼に対峙たいじすると、赤い目をいからせて彼を睨み付けた。

その姿は最早、馬とは思えない。正に怪物そのものである。

飛焔は一度激しく首を振った後、威圧感を漂わせながら、じりじりと奉先に歩み寄る。


「………!」

奉先は暫し沈黙したまま、飛焔に向けて剣を構えていたが、やがてその剣をそっと鞘に収めた。


一瞬でも隙を見せれば、飛焔は彼の体を崖下へと突き落とす積もりであろう。

だが下手をすれば、飛焔諸共もろとも崖下へ転落し兼ねない。


奉先は両腕を広げ、飛焔に呼び掛けた。


「お前が俺を此処ここから落とそうとすれば、二人共この崖から転落する事になるぞ…!お前は賢いから、俺の言う事が分かるであろう?!」


飛焔は時折首を激しく振りながらいななきを上げ、前脚で地面を何度も掻いて、いつでも走り出せる体勢を取っている。

次の瞬間、飛焔は瞳をかっと見開き、再び奉先に向かって突進した。


頭を低く下げながら走って来る飛焔を、奉先は上体で受け止め、両腕を回して飛焔の太い首にしがみ付いた。

両足を強く踏ん張ったが、飛焔の衝突する勢いは想像以上に凄まじく、奉先の両足は地面を深く削りながら、そのまま後方へと押しやられる。


奉先の体は、遂に崖の際まで追い詰められてしまった。

あと一歩でも下がれば、崖下へ転落する。


「くっ…!!」

奉先は額に汗を浮かべながら、強く歯を食い縛った。


だが、飛焔の力には到底敵わず、力尽きた奉先は遂に足を滑らせ、飛焔の首から離れて崖下へと転落して行った。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます