第104話 闇に潜む怪物



「どちらへ、出掛けておられたのです?」


夕刻、屋敷へと戻っていた董仲穎とうちゅうえいは、居室に数名の美女を招き、両腕に抱きながら機嫌良く酒を飲んでいた。

屋敷の外では、相変わらず雨が降り続いている。

仲穎は酔眼を上げ、目の前に座す一人の男に向けた。


「なに、少し野暮やぼ用があってな…」


「外出されるなら、俺が護衛として付いて参ります。相国のお命を狙うやからは大勢おりますゆえ…」

仲穎にそう忠告するのは、彼を真っ直ぐに見詰めて座している呂奉先りょほうせんである。


「ふんっ、丁建陽ていけんようの部隊を取り込み、今やこの雒陽らくようで絶大なる軍事力を持つこのわしに、逆らおうと考える者など何処にもおらぬ…!」

白く美しい肌をあらわにした美女の肩を抱き寄せ、大声で笑いながら答える仲穎を、奉先が黙ったまま見詰めていると、突然ふと笑いを収め、


「所で…武勇に名高く、人格者である丁建陽を裏切り、貴様がわしに寝返った理由は何だ…?!」 

と、彼に鋭く酔眼を向けて問い掛けた。


「主君と仰ぐには、及ばぬ人物だったからです…」


奉先は、悪びれた様子も見せずそう答える。

「丁建陽は、俺にわれ無き罪を着せた上、部下たちの前で罵りはずかしめた。その場に居合わせた者たちが、それを目撃しております…」


奉先の語る話に偽りは無かった。

彼と共に仲穎に降った建陽の元兵士たちから、それと全く同じ話しを聞いていたからである。


「成る程、貴様には奴を裏切るだけの理由が有ったという訳か…」

そう言って杯を傾けた後、再び酔眼を上げた。


「では、わしも主君に値しないと判断すれば、同じ様に斬るか?」


仲穎はその眼に怪しい光を宿して奉先を睨み付ける。

奉先は暫し黙していたが、やがて表情を変える事無く答えた。


「相国が詰まらぬ人物であれば…同じ事をするでしょう…!」


沈黙し、睨み合う二人の間に激しい雨音だけが響き渡る。


「ふっ…!」

やがて仲穎が先に笑い声を上げた。


「貴様を心服しんぷくさせるには、まだ時が掛かりそうだ…!だが、そうでなくては面白く無い…!」

そう言って、仲穎は一頻ひとしきり笑った後、膝を立ててその膝頭ひざがしらを軽く叩いた。


「そうだ、お前に褒美として馬をやる約束であったな…!どれ、馬を見に行くとしよう!」

仲穎は美女たちの肩を押し退けてふらりと立ち上がり、奉先に部屋を出るよう促すと、配下たちを引き連れ雨の降りしきる中厩舎きゅうしゃへと向かった。



大きな厩舎の立ち並ぶ場所までは、しゃで移動せねばならない。

雒陽らくよう内にそれ程の広大な土地と財産を持ち、軍事力も掌握している仲穎は、今や皇帝以上の権力者と言っても過言では無い。

誰も仲穎に手出しが出来ないというのも、あながち間違ってはいないのであろう…

奉先は、仲穎と共に乗り込んだ車に揺られ、遠い雷鳴を聞きながらぼんやりとそんな事を考えた。


やがて厩舎に到着し、彼らは広いうまやの中へ入った。


「どれでも良い。気に入った馬を連れて行くが良い!」

仲穎は機嫌良く、奉先の背中を叩く。


言われるがまま、取り敢えず馬たちを検分して回る事にした。

幾つもの馬房ばぼうの中に繋がれた馬たちは、みな西方域から集められた立派な毛並みの名馬ばかりである。

奉先が迷いながら厩舎の奥の方へ向かうと、一際ひときわ大きな馬房の前に辿り着いた。


その馬房だけは、明らかに他の物とは違っていた。

枠組みは鉄格子で組まれ、それはまるで牢獄である。

その中には光が全く差し込まず、漆黒の闇があるだけだったが、目を凝らし良く見ると、何か巨大なものがうごめいているのが見えた。

時折遠くから響く雷鳴に紛れ、鎖を引きずる様な不気味な物音も聞こえて来る。


「そこに居るのは、怪物よ…!そいつだけは止めておけ…」

突然、仲穎に肩を掴まれ、奉先ははっと我に返った。


怪物…?

奉先は眉をひそめて振り返り、険しい表情の仲穎を見上げた。


「そいつは、わし以外の人間には決して従わぬ。このわしですら、何度振り落とされそうになった事か知れぬ。馬房から出すだけで、何人蹴り殺されるか分からんのだ…!」


そう言ってにやりと笑い、奉先の肩を叩くと別の厩舎の方へと足を向ける。

暗闇の奥に潜む"怪物"の存在は無性に気に掛かったが、奉先もやがてそこを離れた。


結局、選んだ三頭の立派な馬を後日仲穎から譲って貰う約束を得て、その日は厩舎を後にした。

だが彼の胸には、あの"暗闇に潜む怪物"の事がずっと離れないでいた。


どんな馬なのであろうか…?

数日が経過しても尚、奉先はぼんやりとその事を考えていた。



「それは、噂に聞く"赤兎馬せきとば"では無いでしょうか?」


話を聞いた高士恭こうしきょうが、雒陽警備の為、巡回する奉先に馬を並べてそう言った。

彼は孟津もうしんに於いて、奉先と一騎討ちを演じたあの若い将である。

士恭は丁建陽の死後、奉先と共に仲穎に降り、常にかたわらにはべって彼を補佐していた。


奉先が養父を裏切り、殺害したという事実について彼は何も言わず、黙って付いて来てくれたのである。

士恭は武勇にけているだけでなく知識も豊富で、都会の事を殆ど知らない奉先に色々と教えてくれる。


「"赤兎馬"は汗血馬かんけつばと呼ばれ、血の様な赤い汗をかき『一日に千里を走る』と言われる伝説の名馬です。」


「赤兎馬、か…」


奉先は小さく呟き、感嘆の溜め息を吐いた。

噂には多少なりとも聞いた事はあったが、それが実在しているとは知らなかった。

実在するなら、その伝説の名馬を仲穎が所有している可能性は大いに考えられる。


「士恭、その馬を見てみたくは無いか?」

「え…?!」


いつに無く悪戯いたずらな表情を浮かべながら、奉先は士恭に笑い掛ける。

彼がそんな事を言い出すとは思ってもみなかった士恭は、驚いた顔を向けた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます