第103話 迫り来る死の足音


朝廷から退廷した後、どうやって屋敷まで帰り着いたのかよくおぼえていない。

宮殿を出た後、雨の中を一人彷徨さまよい歩いている孟徳を見付け、文謙が彼を車に乗せて連れ帰ったのである。


「丁将軍を殺したのは、間違いなく奉先だそうです。董仲穎は彼を騎都尉きといに任命し、見返りとして名馬や多額の報奨金を与えたと聞き及んでおります…」


孟徳は居室で濡れた着物を着替えながら、文謙の語る言葉を半分うわの空で聞いていた。その時である。

廊下を走って来た使用人が、慌てた様子で扉の外から呼び掛けて来た。


「孟徳様…!相国がお見えです!」


「!?」


驚いたのも束の間、直ぐに廊下の奥から、仲穎がこちらへ向かって来る大きな足音が近付く。

素早く扉の外へ出た文謙は、仲穎の前に立ちはだかり、彼の行く手を塞いだ。


「孟徳殿は、ただ今着替えの最中ゆえ、直ぐにはお会いになれません。ご用件はそれがしが伺いましょう。」

「ふん…孟徳め、あれ程の大口を叩いておきながら、やはり恐ろしくなったとみえる…!」

立ち止まった仲穎は、不機嫌そうに文謙を見下ろし、そう呟いた。


「…一体、何の話でしょうか?」

話の内容が理解出来ず、文謙はいぶかしげに首を傾げた。

「お前は何も聞いておらぬ様だな…なに、こちらの話よ…」

仲穎が不敵に笑って答えた時、居室の扉が開かれ、


「相国、お待たせしました。どうぞお入り下さい。」


衣服をすっかり着替え、二人の前に姿を現した孟徳が、そう言って仲穎を室内へいざなった。

唖然あぜんとしている文謙を尻目に、仲穎はずかずかと室内へ入って行く。


「文謙、お前は此処で待っていてくれ…」

孟徳が文謙を廊下で引きとどめようとすると、

「構わぬ、その者も中へ入れてやるが良い。わしとの約束を反故ほごにされては困るからな…!」

仲穎がそう言って、彼に中へ入るよう手招いた。


「…約束?孟徳殿、"約束"とは何ですか?!」

文謙は怪訝けげんな眼差しで孟徳を振り返る。

「……」

孟徳は暫し黙したまま、じっとその瞳を見詰めていたが、やがて静かに答えた。


「もし、奉先が丁将軍を裏切り、相国に寝返ったら…"俺の首を差し出す"という約束だ…」


「え…!?ど、どういう事ですか?何故、そんな約束を…!?」

それを聞いてけ反らんばかりに驚いた文謙は、狼狽うろたえて孟徳の肩に掴み掛かる。


「わしと孟徳は"賭け"をした。孟徳が勝てば、わしは相国の座を譲り、わしが勝てば、孟徳は首を差し出すと約束を交わしたのだ…!」


不敵な笑みを浮かべて答える仲穎を、文謙は険しい表情で睨んだ。


「そんな口約束など、無効だ!相国の座に対し、孟徳殿が命を賭けるなど、馬鹿げているではないか…!」

文謙はそう言って息巻く。


「文謙やめろ!約束を反故にすれば、それこそ信義しんぎもとる。ここで命を落とすのなら、それも天命であろう…!」


孟徳は文謙の肩を強く掴み、目元を赤く染めて真っ直ぐに彼を見詰めながらそう言った後、室内の仲穎に歩み寄ると彼の前で膝を折り、その場にひざまづいた。


「ふふ、中々潔いさぎが良いな…!そうでなくては成らぬ。」

仲穎は含み笑いをし、腰にいた剣にゆっくりと手を伸ばす。

青褪めた顔でそれを見ていた文謙は、咄嗟とっさに孟徳の隣に膝を突いた。


「孟徳殿が斬られるなら、俺も共に斬られます…!」


「文謙…!?お前がそこまでする義理は無いだろう…!」

驚いた孟徳が振り返ると、


「孟徳殿を失えば、俺は虎淵に会わせる顔が無い…!あなたを必ずお護りすると、彼と約束をしたのです…!」


そう言って、文謙は両膝で固く握り締めた拳の上に、はらはらと涙をこぼす。

その姿に胸を打たれた孟徳は瞳を潤ませ、涙で濡れた彼の拳を、その上から強く握り締めた。


「文謙…お前にまで、迷惑をかけてしまったな…」

そう呟いた後、文謙の肩を引き寄せて彼の耳に唇を寄せると、孟徳は小さく彼に何かをささやいた。

顔を上げた文謙は、目に驚きと戸惑いを宿して孟徳を見上げたが、彼はわずかに微笑し、小さく頷いただけであった。


「そろそろ良かろう…」

薄暗い燭台のあかりに怪しく輝く剣を構え、不気味な笑みを浮かべながら、仲穎は二人の前に仁王立ちとなる。


そして、ゆっくりとその剣を高く頭上に振りかざすと、赤い目で彼を見上げる孟徳の首筋を狙って、一気に振り下ろした。


その瞬間、隣に跪いた文謙は思わず顔を背け、強く両目をつぶった。

暫し沈黙のときが流れ、辺りには屋根に打ち付ける雨の音だけが激しさを増して鳴り響く。


仲穎の振り下ろした剣は、彼を見上げたまま動かない孟徳の喉元で止まっていた。


「……!」

孟徳は押し黙ったまま、仲穎の鋭い眼差しを見詰め返している。

やがて仲穎は目元に微笑を漂わせると、口を歪めてふっと笑った。


「貴様はやはり、肝がわっているな…!」

そう言って剣を引くと、素早く鞘へ仕舞う。

そして二人の前に腰を落とし、血の気の失せた孟徳の頬に右手の掌を当て、笑いながら軽く叩いた。


「何も、死に急ぐ必要は無い。貴様の条件は、奴を心服させる事が出来たら…というものであったろう?わしに寝返ったからと言って、まだ心服させた事には成るまい…!」


仲穎は再び立ち上がり、勝ち誇る様な顔で微笑を浮かべ、目の前に跪く彼らを見下ろした。

「それに、わしは貴様を殺すのが惜しいと思い始めている…!まだ暫く、貴様の首は繋いでおく事にしよう…」


不敵にそう言い残し、跪く孟徳と文謙の間を通り抜けると、不気味に鳴り響く笑い声を上げながら、やがて風の様に去って行った。


その場に座したまま、二人は暫し呆然として、屋敷の外に降り続く雨音を聞いていた。

我に返った文謙は、孟徳の肩を強く揺すり、


「孟徳殿!一刻も早く此処を去りましょう…!」

青褪めた表情のままそう言った。


流石に今回ばかりは肝が冷えた。今すぐにでも逃げ出したい気持ちになっているのは孟徳も同じである。

握り締めた拳には、じっとりと汗がまとわり付き、小刻みに震えていた。

だが、孟徳は深く息を吸い込み呼吸を整えると、


「今逃げ出せば、自分の負けを認めた事になる。それに、仲穎は決して我々を赦さず、今度こそ間違いなく八つ裂きにするであろう…!」


そう答え、静かに立ち上がる。

やがて室内の小さな窓の前に立ち、孟徳は庭に降り注ぐ雨を見詰めた。


「俺は、何時いつでも死ぬ覚悟が出来ていると思っていた…だが今、切実に生きたいと願った…!まだ生きて、やらねば成らぬ事が、山程あるのだと…!」


冷たい汗に濡れた拳を固く握り締め、燭台のあかりを映した孟徳の瞳は、ゆらゆらと燃えている様に見えた。

その背中を真っ直ぐに見詰めていた文謙は、彼の方へ膝を進め、姿勢を正すと、


「孟徳殿…俺は、全身全霊であなたの力になると約束します…!」

そう力強く彼の背に語り掛ける。


孟徳は振り返り、文謙に微笑を向けると、彼に強く頷いて見せた。


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