第91話 天の意思


季節は既に冬である。

澄み渡る寒空のもと、曹家の屋敷の前では、虎淵こえんが家人たちに指示を出し、家財道具などをしゃに積み込む作業が行われていた。


その様子を、少し離れた門のそばから見詰める者の姿がある。

その人影は虎淵の姿を認めると、足早に彼に近付き、その背後から呼び掛けた。


「虎淵。」


その声に振り返った虎淵は、自分の背後に立つ人物を見上げると、驚きの声を上げた。


「せ、先生…!?」


そこに立っていたのは、奉先である。


虎淵は瞠目どうもくし、余りの驚きに、夢か現実か判別が付かないといった表情であったが、やがて瞳を潤ませると、奉先の肩にすがり付く様にして抱き着いた。


「ご無事だったのですね…!良かった…!」

虎淵は大粒の涙を流し、声を震わせる。


「ああ、俺を救ってくれたのはお前だ。あの時は、直ぐにお前だと気付かず、悪かった…!」


奉先も虎淵の肩を強く抱き締めながら、涙をこらえ、感情を押し殺す様に彼の耳にささやいた。


「そんな事は良いのです。先生が生きておられただけで…!」

虎淵は顔を上げると、まぶたに涙を溜めた瞳で奉先を見上げる。


「少し見ぬ間に、随分と背が伸びたな、虎淵!」

そう言って彼の肩を強く叩き、奉先は目を細め微笑を向けた。


虎淵の身長は、今では奉先に迫る程になっており、顔付きも精悍せいかんさを増している。

虎淵は少し照れ臭そうに頭を掻き、


「実は孟徳様にも、それ以上大きくなるなよ!と、怒られるのです…」

そう言って苦笑を浮かべ、頬を赤く染めた。


「孟徳殿も、無茶な要求をするものだ…!」

奉先も苦笑を返しながら言ったが、やがてその顔から笑いを収めた。

それを見て、虎淵は慌てて言葉を繋ぐ。


「孟徳様は…今、お出掛けになっておいでです。夕刻までには戻るとおっしゃっていましたから、屋敷でお待ち下さい!」


「いや、此処へ来たのは、お前に俺が生きている事を伝えたかっただけだ…!」


屋敷へ案内しようと門を潜る虎淵の背に、奉先が呼び掛けた。

振り返った虎淵は、門の外にたたずむ奉先を、怪訝けげんな眼差しで見詰める。


奉先は、荷物が積み込まれた数台の車を眺めながら、

「孟徳殿は、何処かへ行かれるのか?」

と、 問い掛けた。


「はい、実は…もうすぐ孟徳様は雒陽ここを発ち、故郷くにへ戻られます。あるじ様は先に、譙県しょうけんへお帰りになりました。孟徳様は、身辺整理をなさってから、発たれるお積りなのです。」


「そうか…俺は今、執金吾の丁建陽様に養子として迎えられ、父子おやこちぎりを結んだ。父上のお陰で、俺は自分の人生を取り戻す事が出来たのだ。」


「そうなのですか?!それは、きっと孟徳様もおよろこびになるでしょう…!」

驚きと戸惑いを目に宿しつつも、笑顔で答える虎淵を、奉先は少し憂いを帯びた眼差しで見詰める。


「だから…俺は暫く父上のもとでお力になりたいと思っている。孟徳殿には、宜しくお伝え願いたい。」


そう言うと、奉先は虎淵に拱手きょうしゅし、深く頭を下げてからきびすを返した。


「先生…!!」

虎淵は慌てて彼を引き止めようと、門を潜って表へ走り出たが、通りの向かいに繋いでおいた馬に素早く跨がり、砂塵さじんを巻き上げながら、奉先はたちまちその場から走り去ってしまった。



曹家の屋敷へ向かうのを、奉先は何度も躊躇ためらった。


孟徳に会った時、どんな顔をすれば良いのか。自分を裏切った事を、恨んでいるのではないか、

そんな事を考えると、彼に会うのは正直気が重かった。


しかし、屋敷へ行き孟徳が留守であった事で、彼はある種の確信を得た。

風を切って馬で城内を走りながら、奉先は顔を上げ、頭上に広がる青空を見上げる。


『はっきりと言おう…お前と孟徳には、良い兆しが見えぬ…お前たちは、共に居るべきでは無い…!』


以前、"降龍こうりゅうの谷"で、師亜しあから言われた言葉を思い出していた。


俺が孟徳殿に会えぬのは、会わせまいとする、"天の意思"を感じる…

奉先は目を細め、高い上空を旋回する一羽の鷹の姿を眺めた。


「あの、もしや…呂奉先殿ではありませんか?」


その時、足元から男に声を掛けられ、奉先ははっとして我に返った。

馬上で見下ろすと、そこに小柄な青年が一人立っている。


「俺に、何か…?」


奉先は多少 いぶかりつつも馬を降り、その青年に向き合った。

小柄だがすらりとした体格で、如何いかにも文官系と言った風貌を持つ若い男である。


「やはりそうでしたか。わたくしは、李元静りげんせいと申します。」


男は目に微笑を浮かべながら、そう言って奉先に揖礼ゆうれいし頭を下げた。


「呂 龍昇りゅうしょう殿のもとから、丁将軍の養子となった若者がいると聞き、その風貌からもしやと思い、声を掛けさせて頂いたのです。実は、龍昇殿の下には、私の叔父がおりまして…確か『李月りげつ』と名乗っていた筈…」


それを聞いた奉先は、やや苦笑を浮かべた。

「李月なら知っている。管狼かんろうの相棒だった…」


言われてみると、確かにその青年の顔を髭で覆ってみれば、李月の風貌に近付くだろう。

そう思うと奉先は、内心笑えて来た。


「そうです。嗚呼、懐かしいなあ…叔父や管狼殿はお元気でしょうか?管狼殿には幼い頃、とても可愛がって頂いておりました…!」

元静は目を細め、郷愁きょうしゅうを抱いた眼差しを彼に向ける。


行き交う人々で賑わう雒陽の大通りを、奉先は馬を引き、元静に肩を並べて歩いた。


「管狼殿は若い頃に、妻と一人息子を相次いで病で亡くされ、生きる希望を失い掛けていた時、叔父の李月の誘いで呂興将軍の配下となったのです。」


「息子を亡くした、とは聞いていたが…そうだったのか…」


奉先は、時々管狼が見せる哀愁のある横顔を思い浮かべた。

彼を最後に見たのは、鄭邑ていゆうの城壁の上に一人佇む姿である。

それを思い出すと、無性むしょうに彼に会いたい気持ちが沸き上がった。


「それでは奉先殿、私はこの辺りで。」

細い路地に通じる道に差し掛かると、元静はそう言って奉先に拱手する。


「ああ、今日はお会い出来て良かった。」

「私もです。また、是非ご一緒に語り合いましょう!」

元静は微笑し、そう言い残すと路地へ入って行く。

彼の姿が路地の奥へ消えて行くまで、奉先はその後ろ姿を見送った。


やがて、細い路地を抜けると少し開けた空地へ出る。

その空地には、彼がそこへ現れるのを待つ数名の男たちの姿があった。


「呂奉先には、接触出来ましたか?」


中心に立つ長身の痩せた男は、細い目を更に細め、笑っているのか怒っているのか判別の付かない表情で、元静を見下ろしている。


「はい、会えました。彼は特に、何の疑いも抱いていないでしょう。」

元静は答えると、その男に深く頷いた。

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