第87話 皇帝と陳留王


張譲らは遂高を殺害した後、宦官側に昵懇じっこんしていた少府の許相きょしょうと太尉の樊陵はんりょうを利用し、京師の兵を掌握しようと試みたが、偽造した詔を怪しまれ、遂高の部下たちに反撃を受ける形となった。

そこで彼らは、自らの保身の為、皇帝と弟の陳留ちんりゅう王(劉恊)を奪い、城外へ逃れようとしたのである。


既に夕暮れに近付き、辺りは次第に薄暗くなって行く。

張譲らは、皇帝と陳留王を連れ出し、抜け道を通って宮殿から逃れると、城壁に梯子はしごを掛けてそこをよじ登った。


「張譲、母は何処におられる?」

「母君の事はご心配に及びません…!さあ、陛下も早く!」

不安がる皇帝を、張譲は半ば強引に梯子へ押し上げる。


反対側には縄を垂らして、そこを降りるしか無いが、流石にその高さに尻込みをして、皇帝は中々降りられずにいる。

張譲は自ら皇帝を背負い、帯で強く互いの体を縛り付け、縄を伝って城壁を降り始めた。

残りの宦官たちも陳留王を背負い、同じように下へ降りて行く。


遂に城外への脱出に成功した彼らだが、次は城内での異変を察知し兵を率いて乗り込んで来た、呉匡ごきょう盧植ろしょくらの兵に追撃される事になった。


彼らは徒歩で、皇帝と陳留王を引きるようにして走ったが、やがて洛水らくすいのほとり、小平津しょうへいしん関の辺りまで来ると、遂に進退 きわまり、張譲と宦官の残党たちは皆、皇帝の前にひざまづいて涙を流しなげいた後、次々に洛水へ入水して命を断った。


まだ十二歳の幼い皇帝である。

その壮絶な光景に恐怖し、どうすれば良いか分からなかった。

かたわらには、座り込んで泣いている九歳の陳留王の姿がある。

皇帝は弟の手を引くと、裸足のままで洛水のほとりを彷徨さまよい歩いた。


靴は、張譲らに引っ張られて逃げる途中で失ってしまっていた。

泣きべそをかいて歩く陳留王の手を握る皇帝は、自分も泣き出したいのを必死にこらえながら、一刻も早く母の元へ帰りたい一心で歩いた。


二人は、周りの大人たちが反目し合っている事は知っていたが、彼ら自身が決して仲が悪かった訳では無い。

むしろ、皇帝は弟の劉恊をとても可愛がっていたし、劉恊は口数の少ない子であったが、兄には良く懐き、兄の前では笑顔を見せて話す事もあった。


やがて夕闇の中に、雒陽へ向かって進んで行く何処かの軍勢の姿が浮かび上がり、皇帝はこれで宮殿へ戻れると喜んで、陳留王の手を引っ張りながらそちらへ向かって走った。


「おい、何処の童子だ!あっちへ行け!」

駆け寄る皇帝と陳留王を見た兵士は、いぶかって二人を槍の柄で追い払おうとした。

二人は泥にまみれており、一見すると物乞ものごいか何かの様に見える。


「待て、そこの二人を連れて来い!」


軍勢の先頭を進んでいた男が野太い声を上げ、部下に命じる。

二人の童子は兵士に腕を掴まれると、先頭に立つ男の前へと連れて来られた。


皇帝は大きな馬にまたがったその大男を、恐る恐る見上げた。

屈強な体格のその大男は、鋭い眼光で二人を見下ろしている。

暫し黙して、まじまじと二人を見ていたが、やがて低い声を発して言った。


「そのお姿は、皇帝陛下とお見受けした。何故なにゆえ、この様な場所におられるのか?」


男はその少年を皇帝と認めながらも、沸き上がった疑問を不躾ぶしつけに投げ掛ける。

怯えた皇帝がまごついていると、そこへ、


「陛下!!」

と、叫びながらこちらへ走り寄って来る、一騎の騎馬がある。

馬から飛び降りた人物が走って皇帝の側へ行こうとするのを、馬上の大男が部下に止めさせた。


げきたずさえた兵士たちが、その人物の前を塞ごうと駆け寄る。

だが、彼は素早く腰の剣を抜き放ち、兵士たちの戈や戟を目にも止まらぬ速さで弾き飛ばした。

それには兵士たちも度肝を抜かれ、慌てて武器を構えると、数名で遠巻きに彼を取り囲む。


兵士たちに取り囲まれながらも、その男は馬上の大男を鋭く睨み付け、


「董仲穎殿、陛下の御前ごぜんで馬から降りぬとは、無礼であろう!?」


そう怒鳴り声を上げた。


生意気な…

そう思いながらも、仲穎はふてぶてしく跨がった赤兎馬から降りると、兵士に取り囲まれた人物に歩み寄った。


「誰かと思えば、曹孟徳殿ではないか…!わしは陛下を保護し、これから宮殿へお連れする積もりだったのだ…!」

仲穎はそう言って部下たちを下がらせながら、敵意が無い事を示そうとした。


「ならば、その役目は終わった。陛下は俺がお連れする。仲穎殿は、速やかに兵を率いて涼州へかえられよ…!」

だが、孟徳は仲穎を警戒している。

剣を構え、敵意をき出しにして彼を睨み付ける。


「わしは、大将軍に呼ばれて此処まで来たのだ。呼んでおいて還れとは、納得が行かぬ…!」

「大将軍は、宦官どもに騙し討ちをされ、命を落とされた。それに、宮殿内の宦官たちを袁本初が一掃し、雒陽は今混乱の坩堝るつぼと化している。今更行っても無駄である!」


孟徳は、何としても彼を雒陽へは入らせたく無いらしい。

だが、仲穎としては折角せっかく手に入れた皇帝を、みすみす手放したくは無い。


「では、尚更わしが必要であろう?天子はわしに助けを求めたのだ。今、天子を庇護ひごしているのは、このわしだ。歯向かうなら…そなたを逆臣として誅殺ちゅうさつせねば成らぬが…? 」


孟徳を見下ろしながら、仲穎は傲慢ごうまんさを漂わせ、ふんっと鼻を鳴らして笑った。


「………」


孟徳はそっと首を動かし、皇帝と陳留王に視線を送った。

二人は仲穎の兵士たちに囲まれ、怯えながら体を寄せ合っている。


止むを得ぬ…

強く唇を噛み締めた後、孟徳はまぶたを閉じながら、ゆっくりと剣を鞘へしまった。


「分かった…では、共に雒陽の宮殿までお供しよう…」 


そう言うと、乗って来た馬に跨がり、仲穎の部隊を先導するように先頭を進みはじめた。

仲穎は部隊の兵士に指示を出し、皇帝と陳留王を馬に乗せると、先導する孟徳の後を付いて行かせた。


一足遅かったか…!

あと一歩の所で、皇帝を保護する事が出来なかったばかりか、りに選って、最も会いたく無い相手に出会ってしまったものだ…

あと数歩でも早く辿り着いていれば、自分が皇帝と陳留王を保護出来ていた筈である。


だが、今更悔やんだ所でどうしようも無い。

皇帝は最早、董仲穎の手に握られてしまったのである。


すっかり闇に包まれ、僅かな星明かりの元、遠くにぼんやりとたたずんで見える雒陽の城壁を見上げながら、孟徳は馬上で悔しさを噛み締めた。

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