第85話 皇帝の崩御


病臥する皇帝はある時、夢の中で先帝の「かん帝」を見た。

桓帝は目をいからせて皇帝を見下ろすと、次の様に述べたという。


渤海ぼっかい劉悝りゅうかいは廃された上、一族もろとも殺害された。宋皇后に何の罪があって命を絶たせた…?!宋氏と劉悝は上天に訴え、天帝は激怒している…!」


桓帝は、後漢 光武帝こうぶていから数えて、第十一代目にあたる皇帝であり、渤海王劉悝は彼の弟にあたる。

桓帝には男子がいなかった為、帝位は一族の河間王かかんおうの系統である劉宏りゅうこう(現皇帝)に引き継がれた。


その為、皇帝になった劉宏は渤海王劉悝に対し、強い猜疑さいぎ心を抱いており、宦官 王甫おうほを使って調略により一族を皆殺しに追いやった。

劉悝の妃が宋皇后と同族であった為、報復を恐れた王甫が讒言ざんげんし、宋皇后は廃された上に無実の罪を着せられ暴室ぼうしつ送りとなり、三族皆殺しの刑に処された。

間もなく、宋皇后も失意の内に獄死したのである。


その夢に恐怖しおびえながら、遂に皇帝は崩御してしまった。


この、後漢第十二代目の皇帝の諡号しごうは、「霊帝れいてい」と言う。

"諡号"は、生前に成し遂げた事業、功績への評価に基づき決定され、死後に贈られる名前である。

諡号には様々な文字が当てられるが、「霊」「幽」「厲」「慇」等は、あまり良い意味とは言えない。


「霊」には、極めて悪いという訳では無いが、特に目立った功績が無い、といった程度のものであろうか。

彼の設立した"西園八校尉"は、前例の無い程完成度が高かったと言われるが、大将軍何進と宦官との反目は決定的なものとなり、皇帝崩御の後、間もなく分裂してしまった。

霊帝の抱いた夢は、彼の死によって雲散霧消うんさんむしょうしてしまったのである。


皇帝には、何皇后との間に生まれた、劉辯りゅうべん(弁)の他に、何皇后によって毒殺された王美人おうびじんの間に生まれた、劉恊りゅうきょうという二人の男子があったが、皇帝の崩御はあまりにも突然で、どちらが後継者になるか明確に決められていなかった。


何皇后は太后となり、兄の大将軍と共に、皇帝が崩御すると急いで劉弁を新皇帝として擁立ようりつしたが、劉恊を立てようと画策していた蹇碩けんせきと、母を亡くした劉恊を養育していた霊帝の生母、董太后とうたいごうらとの対立が激化した。


蹇碩は大将軍何進の誅殺を企てたが、逆に何進らの手に掛かって殺さてしまい、何進は更に弟の何苗かびょうらを使って董太后を雒陽から追放すると、驃騎ひょうき将軍で董太后の甥、董重とうちょうを自害させた。

その後、董太后も病を発し、憂悶ゆうもんの内に病死してしまうのである。


宦官の撲滅を目論んでいた袁本初は、今が好機と大将軍の元へ赴き、挙兵を促した。

実は、蹇碩を殺した時にも機は訪れた。だが、宦官たちが何太后に泣き付き命乞いをした為、計画は実行される事は無かった。


本初としては、今度こそこの機を逃したく無い。

しかし、何遂高は難しい顔を本初に向けた。


「宦官の数は多く、皆後宮に居る為手が出しづらい…後宮の事は、異母妹いもうとが取り仕切っている故、妹に相談せねば成るまい…」

そう言って渋る遂高に、


「悠長な事を言っていては、機を逃してしまいます!直ぐに諸将を呼び集め、挙兵しましょう!」

と、本初は険しい表情で迫ったが、彼は中々首を縦に振らない。


結局、遂高は再び妹の元へ向かい、相談を持ち掛けた。

彼女の目に映る宦官は皆、甲斐甲斐かいがいしく皇帝や自分に尽くしてくれている。彼女にとって、宦官は手足の様なものであり、それを排除するなど考えられない。

当然、何太后は宦官撲滅に異を唱えた。


本初は、完全に出鼻をくじかれている遂高の姿に歯噛みをしながら、大将軍のめいと偽って各地にげきを飛ばし、地方の諸将を呼び集めようとした。


こうなったら、京師けいしにいる同志たちに呼び掛け、強引にでも挙兵するしか無い…

そう考えた本初は、脳裏に浮かんだ人物の元を訪れる事にした。


「やはり、あの男に協力を依頼するか…」



夜半過ぎ、屋敷を密かに訪れた本初を迎え入れたのは、曹孟徳である。

居室へ入ると、本初は早速計画について、声を潜め口疾くちどに説明した。

孟徳が宦官蹇碩と不和であった事を知っていた本初は、彼を仲間に引き入れる自信があった。

だが、孟徳は暫し黙して本初の口元を見詰めていたが、やがて目を上げおもむろにこう切り出した。


「本初殿、宦官を甘く見ない方が良い。宦官撲滅は過去にも幾度と無く計画されたが、どれも失敗に終わっている…」


霊帝が即位した翌年、当時の大将軍で外戚の竇武とうぶ陳蕃ちんはんらにより宦官撲滅計画が企てられた事があった。

しかし計画は宦官側に露呈し、反撃を受けた竇武は急いで兵を率いて対抗したが、結局宦官側に敗れ、竇武は自害し陳蕃は捕らえられ、処刑された。


「いつの時代にも宦官は存在しており、それ自体に問題が有るのでは無く、皇帝が宦官を信任し過ぎ、政治能力の無い者に実権を握らせる事が間違っているのだ。宦官を皆殺しにした所で、根本的な問題解決とは成らぬであろう…それに、今、地方の諸将を集めると言うのは混乱を招くだけだ…止めた方が良い。」


孟徳は更にそう続け、同時に本初の危うさをいさめた。

憤然とした表情で、本初は険しい目を彼に向けている。


「やはり…宦官を祖父に持つそなたとしては、この計画には賛同出来ぬか…!」

多少の皮肉を口調ににじませながらそう言い返したが、孟徳は黙ったままである。


曹孟徳には気骨きこつが有ると聞いていたが、彼の目の前に座る小柄で色白な、まだ美少年と呼べるこの若者からは、頼りなさしか伝わって来ない。


以前、皇帝廃立の計画が持ち上がった事があり、その時も本初は彼の元を訪れている。

孟徳は慎重な態度を示し、


「皇帝廃立は天下の一大事であり、軽率に口にするのは大逆である…!」

そう言って、協力を断っていた。


この男には、時勢じせいというものが分からぬのか?!それとも、ただ勇気が無いだけなのか…?!

本初は、彼の態度に失望し苛立ちを覚え、思わず、


「お前には、本当にタマが付いているのか!?」

と怒鳴りたくなった。

しかし、そこはぐっとこらえ、本初は握った拳を更に固く握り締めると、


「そうか…分かった。」

と冷静な口調で答えながら、孟徳に向けた鋭い眼光を静かに閉じた。


「大将軍には、くれぐれ々も警戒を怠らぬようお伝え下さい。宮中を出入りするのは極力控える様にと…」

居室を出て行く本初を見送りながら、そう言って孟徳は愁眉を寄せる。

本初は振り返り小さく頷いたが、内心彼の臆病さを嘲笑あざわらっていた。


「曹孟徳は、取るに足らぬ人物よ…」


屋敷を出て、夜空に霞んで見える月をにがにが々しい思いで見上げながら、本初は小さく呟いた。


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