第76話 師弟の対決


虎淵は、朝靄あさもやの立ち込める林の中へ走り込んだ。

辺りは白くかすみ、遠くまで見通す事が出来ない。

草を分け入り木の影に身を潜めると、息を殺し木に背中を押し当て、刺客の姿を探した。


矢の勢いと角度から考えると、刺客が潜んでいたのは、恐らくあの辺りであったろう。

虎淵はそっと身を乗り出し、目の前にそびええる大きな落葉樹を見上げた。


その時、上を見ている虎淵の背後に、もやの中から黒い影が浮かび上がり、静かに彼の背後へ近付いて来ている。

咄嗟に、虎淵はその気配を感じ取ったが、慌てて後ろを振り向かず、息を殺して目だけを横に動かした。

背筋を冷たい物が走る。


次の瞬間、鋭い突きが虎淵の背中を狙って放たれた。


剣先は激しい音を立てて幹に突き刺さり、虎淵の姿は草の上を転がった。

立ち上がろうとすると、再び剣が虎淵を狙って振り下ろされる。


虎淵は更に横に転がりながら、突き出される剣刃を避けた。

地面に素早く片手を突き、直ぐ様体を回転させながら立ち上がると、間髪を入れず振り下ろされる刺客のやいばを剣で弾き返す。


刺客は一度身を引き、剣を構えて虎淵に対峙たいじした。


漆黒の着物を身にまとった、長身の男である。

朝日がまぶしく逆光し、その顔を確認する事は出来ない。


男は再び、素早く剣を打ち出して来た。

虎淵は男の攻撃を数合に渡って弾き返したが、男の俊敏しゅんびんな動きに付いて行くのがやっとで、全く反撃をする隙が無い。


その素早さも、見事な剣捌けんさばきにも覚えがある。

虎淵は確信していた。


やがて虎淵の着物は、男の剣によって切り裂かれ、赤く血で染まって行く。

虎淵は切り裂かれた肩の傷口を押さえ、よろめいた。


「先生…!僕です、虎淵です…!」


虎淵は思わずそう叫んだが、男の耳には届いていないらしい。

男は容赦無く、彼の心臓を狙って剣を打ち出して来る。

虎淵は必死に男の攻撃をかわし、地面を転がる様に逃げ回った。


やがて山の斜面のきわまで追い詰められ、逃げ場を失った。

男は、激しく打ち出した剣で虎淵の手から剣を跳ね上げる。

虎淵は咄嗟に、落ちていた太い木の棒を手に取り、今度は振り下ろされた剣をそれで受け止めた。

両手で棒を支え、虎淵は肩の痛みをこらえながら、懸命に押し戻そうとする。


だが男の力は想像以上に強く、更に虎淵の腹に蹴りを繰り出す。

虎淵は思わず体勢を崩して、後方へ押し倒されてしまった。

剣刃が目前にまで迫って来る。


「先生!僕が、僕が分からないのですか?!」


虎淵は瞳に涙を浮かべながら、必死に抵抗した。

男は虎淵に馬乗りになり、棒に刺さった剣を抜き取ると、頭上に振りかざし、虎淵の眉間を狙って一気に振り下ろした。


万事休すか…!

虎淵は思わず両目を強く閉じた。


だが、剣刃は虎淵の眉間を貫く事は無く、虎淵はまぶたをゆっくりと開いた。

鋭い剣先は、彼の額の寸前で止まっている。



「虎淵…お前か…!?」



両手に剣を握り締めたまま、奉先は驚きの表情で瞠目どうもくし、虎淵の顔を見下ろしていた。


「先生……!」

虎淵は涙を流し、潤んだ瞳で奉先を見上げる。

その時視界に、後方からこちらへ向かって走りながら、弓に矢をつがえる文謙の姿が飛び込んで来た。


せ…!!」


虎淵が腕を伸ばして叫んだと同時に、矢は放たれ、その声で咄嗟に跳び退すさろうとした奉先の右脇腹辺りに突き立った。


「ぐあ…っ!」

奉先の体は、弾かれる様に地面の上をもんどり打って転がった。


「先生!!」


虎淵は叫んで跳び起きると、倒れた奉先に走り寄る。

矢は深くは刺さっていないが、やじりには毒が塗ってある。思い切って体から引き抜くと、傷口から血が噴き出した。

虎淵は急いで奉先の着物を引き裂き、傷口から血を吸い取って地面に吐き出す。


虎淵は溢れる涙をこらえながら自分の着物を破り、傷口に押し当てると、その上から余った布を巻き付けて、奉先の体をきつく締め付けた。


「うっ…ぐっ…ああ…!」

奉先は苦しげにのた打ち、体をけ反らせてうめき声を上げる。


「虎淵、何をやっている?!退け!俺がとどめを刺してやる!」


文謙がそう叫びながら腰の剣を抜き放ち、二人に走り寄った。

虎淵は頬を濡らしたまま文謙を振り返り、赤い目を向けて彼を強く睨む。


「この人は、僕の先生なんだ…!」


その瞬間、突然、奉先は目を開き、かたわらに落ちていた剣を掴み取ると同時に、それを斜めに一閃いっせんさせた。


「危ない!」

文謙は叫んで、素早く虎淵の着物の襟首辺りを掴み、彼の体を奉先から引き離す。

奉先の剣は、虎淵の右頬をかすめ、斬れた所から血が飛び散った。


奉先は蒼白になった顔で、ふらつきながらも立ち上がり、二人に切っ先を向けて威嚇いかくする。


「先生…!」

虎淵は素早く立ち上がり、奉先の方へ走り出そうとしたが、文謙が彼の体を強く掴んで放さない。


額に汗を浮かべ、傷口を右手で押さえながら立つ奉先の顔は、見る間に血の気が失せ、青白くなって行く。

「はぁ、はぁ…!」

肩で激しく息をしながら、奉先はふらふらと後退あとずさった。

後方の足元は斜面になっている。

遂に意識を失った奉先はその場へ崩れ落ち、そのまま斜面を滑って転がり落ちながら、立ち込めたもやの中へ姿を消した。


「放せ、文謙…!先生ーっ!!」


虎淵は悲痛な叫び声を上げて文謙の腕を振り払い、奉先が倒れた斜面へ向かって走った。

ひざまづいて斜面の下を覗き込んだが、彼の姿は既に見えなくなっていた。

そこに残っていたのは、奉先が握っていた、七色の輝きを放つ美しい宝剣だけである。


虎淵はその剣を拾い上げ、胸に抱いて嗚咽した。


「虎淵、もう行こう。あの傷では、どの道助からぬ…!」


文謙は、宝剣を抱いたままひざまづき、肩を震わせて泣いている虎淵を強引に立ち上がらせると、彼の腕を掴んでその場から離れた。



矢を受けた従者の一人は一命を取りめたが、廟の中で斬られた二人の従者と、裏口を見張っていた護衛の一人は、悲鳴を上げる間もなく一撃でたおされていた。


子要は生き残った者たちと共に死体を山に埋葬し、静かに彼らに冥福を祈った後、立ち上がって虎淵たちを振り返った。


「尊い犠牲を出してしまったが…君たちのお陰で助かった。刺客は斃され、もう危険は去ったであろう…私は暫く身を隠す事にする。君たちは雒陽へ戻りたまえ。」

憔悴しょうすいした様子で子要は彼らを見ると、それぞれの手に謝礼金の入った袋を握らせた。


虎淵は虚ろな眼差しでそれを見詰め、強く握り締めた。



夕刻が迫り、次第に沈み行く夕陽に、辺りの山々が赤く染まり始めている。

虎淵と文謙の二人は、奉先が落ちたと思われる山の斜面を下へり、手分けをして彼の姿を探した。


斜面の下には小川が流れており、流れは緩やかである。


やがて、河原沿いに点々と血の跡が残っているのを発見した虎淵は、文謙を呼び寄せた。

血の跡は川の方まで続いているが、奉先の姿はそこには無い。


「あの怪我で、自力で逃げたとは考え難いな。川に流されたのかも知れぬ…」

そう言って、文謙は川下かわしもの方を見詰めた。


「あの男を、殺したのは俺だ。お前の主にも、俺が本当の事を話してやるよ。お前が気にむ必要は無い…!」

河原に膝を抱えてうずくまる虎淵の肩を叩き、文謙は強く彼の肩を揺すった。


「いや…お前は間違って無い。刺客を斃すのが、僕たちの役目だったのだ…僕が、もっと早く先生の存在に気付いていれば…!」


虎淵は俯いたまま声を震わせ、そう呟きながら涙をこぼす。

既に日は落ち、辺りが暗闇に包まれると、穏やかに流れる小川のせせらぎだけが、いつまでも鳴り響いていた。

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