第72話 再会

広宗こうそう県での戦で、董卓軍が黄巾軍に敗れたと言う知らせを受けた皇帝は、八月に入り、豫州よしゅう平定後、兗州東郡えんしゅうとうぐんで黄巾軍の卜己ほくきを破った皇甫嵩こうほすうを、次は董卓に代わって冀州きしゅうに派遣するよう命を下した。


朝廷からの命を受けた皇甫嵩は、直ぐさま兵を率いて冀州へ向かい、中郎将ちゅうろうしょうを免職となった董卓から軍権を引き継ぎ、早速、広宗の県城攻略に取り掛かった。


しかし、勢いを盛り返した黄巾軍は手強く、皇甫嵩は張角ちょうかくの末弟であり、人公将軍、張梁ちょうりょうに戦いを挑んだが、簡単には打ち破る事が出来なかった。

その為一度軍を引いて立て直すと、今度は張梁軍に奇襲を仕掛け、見事にそれを破り、張梁を捕らえて斬首した。


再び優位に立った官軍は勢いを得、黄巾軍を散々に破って遂に広宗県を奪い返す事に成功したが、大賢良師、張角はこの時既に病により死亡しており、皇甫嵩は張角の墓を暴いてその首を斬り、雒陽らくようへ送らせた。


更に、董卓軍を苦しめた地公将軍、張宝を鉅鹿きょろく太守の郭典かくてんと共に攻め、冀州の北部、下曲陽かきょくようにて討ち果たした。

これによって有力な指導者を失った黄巾軍の勢いは急速に衰え、乱は収束へと向かったのである。


この時期、皇甫嵩を凌ぐ名声の持ち主は何処にもおらず、彼は漢王朝が誇る真の大英雄であった。



そんな皇甫嵩が冀州の平定を終え、雒陽へと引き揚げる準備を整えている所に、一人の若者が面会を求めにやって来た。


幕舎へ現れたその若者は、皇甫 義真ぎしんの前へ来ると丁寧に形良く拱手きょうしゅし、

「お忙しい所、突然お伺いして申し訳ありません。私は、劉玄徳と申す者でございます。」

と、澄んだ声色で淀み無く言った。


「おお、君が妖術を破って仲頴殿を助けたという、劉玄徳りゅうげんとく殿か…!」

その青年のたたずまいに好感を持った義真は、微笑を浮かべながら彼に礼を返す。


「それに、君の義弟おとうとたちは、群がる敵を前に一歩も引かぬ戦い振りであったと聞く。実に素晴らしい活躍だ。君たちの事は、皇帝に良く伝えておこう。」

義真はそう言って軽く玄徳の肩を叩くと、再び作業に取り掛かろうときびすを返した。


「いいえ、将軍。私の事より、お願いがございます…!」


そう言うと玄徳は、更に一歩前へ進み出て義真に迫った。


「実は、私の恩師である廬子幹ろしかん様が、宦官 左豊さほう讒言ざんげんにより、罪人として雒陽へ送還されました。死罪を賜るのは必至。どうか、皇甫将軍のお力で、先生を救って頂けないでしょうか?!」


それを聞いた義真は驚いた表情で振り返ると、玄徳の肩を強く掴んだ。


「何と、そうであったか…!わしには、その事は全く知らされていなかった。直ぐに皇帝の元へかい、必ず廬子幹殿を救うと約束しよう!」


義真は激しくうなずき、力強くそう答えると、急ぎ雒陽へと帰還のについた。



行き交う幾重いくえもの人波の中を、彼は一人走っていた。

擦れ違う人々に揉まれながら、ひたすらに前方に見え隠れする、見覚えのある後ろ姿を追って行く。


結った髪から垂れ下がる、長い後れ毛を肩に掛けたその人物は、体を引きる様にしながら歩いているが、追っても追っても、何故か一向に追い付く事が出来ない。


「待って、待って下さい…!師匠!」


彼は思わず大声たいせいで叫び、前を行くその人物を呼び止めようとした。


その声が届いたのかどうかは分からないが、その人は一瞬後方を振り返り、虚ろな眼差しで彼を見た後、再び目を背けて歩き去って行く。


やはり、間違いない!


そう確信した彼は、人々を押し退け、必死に後を追った。


やがて大きな通りを抜け、狭い路地へと続く道の隅に、その人が苦しげに胸を押さえてうずくまっている姿が目に入った。

彼は背後からゆっくりと近付き、腰を落としてその背中をじっと見詰めた。


「師匠…何故です。何故、何もおっしゃらず私の前から姿を消したのですか?生きておられたのなら…」

「わしはもう…生きてはおらぬ…!」


その人は苦しそうにあえぎながら、彼の言葉を遮った。


「今、見てえいるのはただの…わしの幻影に過ぎぬ…」

「いいえ、師匠…!あなたはまだ、生きておられます!もう何処へも行かせません!」


彼は大きくかぶりを振って、瞳に大きな涙の滴を浮かべた。


「私は…もう愛する人を失うのは嫌なのです…!どうか、私を残して行かないで下さい…!」

目から大粒の涙が頬を伝い落ち、彼は胸に下げた翡翠ひすいの首飾りを、着物の上から強く握り締めていた。


孟徳もうとく殿…あなたは、わしとは違う世界に生きている。いつまでも、わしの事など考えていては成らぬ。今あなたが考えねば成らぬのは…」


うつむき喘いでいた男はそう言うと、突然顔を上げ、彼の肩に掴み掛かって来た。


「死に掛けている、漢王朝の事であろう…! 」


その顔を見た彼は、驚いて身を引き思わず息を呑んだ。

血の気を失った男の顔は青白く、それは既に腐乱が始まった、おぞましい死者のものであった。




閉じていたまぶたを上げた孟徳は、かっと目を見開いた。

自分の叫び声で目を覚ました気がしたが、辺りは静寂に包まれた闇である。


着物は汗でびっしょりと濡れ、呼吸がひどく乱れている。

孟徳はしょうの上で体を起こし、額の汗を拭うと、眉をひそめて自分の頭を両手で押さえた。


何か、酷く恐ろしい夢を見ていた様だが、内容は思い出せない。


最近、強い頭痛に襲われる事が度々あった。

医師の華佗かだに診察してもらった所、翠仙すいせんに飲まされた毒薬の影響ではないかと言う事であった。

その内、痛みは治まるだろうと言われたが、あれから三月みつき余りが経過している。


これはきっと、翠仙を身代わりに死なせた、自分への罰であろう…


そう考えた後、目を閉じて一度大きく息を吸い込み、今度は深く息を吐き出した。


「この痛みが一生続くなら、彼女の事を忘れる事も無い…」

その呟きは、漆黒の闇の中に溶け込んで行った。




その日の午後、雒陽へ帰還した皇甫義真は兵を引き連れ、城門の前までやって来ていた。


門の前に、彼の到着を待ち詫びていたかの様に佇んでいる、一人の若者の姿が見える。

義真は馬を降り、見覚えのあるその若者に歩み寄ると声を掛けた。


「曹孟徳殿ではないか…!えん攻略戦で、戦死したという噂を聞いたが、生きておったのか?!」


そう言うと、孟徳の肩を強く叩き、信じられないという表情で彼の顔を見詰めた。

孟徳は微笑を返して拱手すると、

「はい、見ての通り、無事に生きて帰る事が出来ました…」

そう答えた後、直ぐに笑顔を収めて義真を見詰め返す。


「何か、悪い知らせか?」

勘の鋭い義真は、孟徳の目に不穏な色が漂っているのを見逃さず、即座に問い返した。


「実は…王子師おうしし殿が、無実の罪を着せられ、投獄されました…!」


王允おういん子師ししは、皇帝の面前で黄巾党と密通していた宦官、張譲ちょうじょうの悪事を暴こうとしたが、張譲が皇帝に許された事で、今度は逆に宦官たちから無実の罪を着せられ、投獄されると、死罪を言い渡されてしまったのである。


「何という事か…王子師殿までもが…!」

義真は驚きの声で歎き、天を仰いだ。


「誠実な真の名士めいしを失えば、王朝は完全に死に絶えてしまうでしょう…!今この朝廷内で、皇帝の心を動かす事が出来るのは、皇甫将軍をいて他にはおりません!」

孟徳はそう言うと、再び義真に向かい拝手する。


「偶然にも広宗を去る際、君と同じ事をわしに頼んだ者が居た…彼は廬子幹殿の弟子で、罪人として送られた子幹殿を助けて欲しいと言ってな。」


「廬将軍も、投獄されておられたのですか…!」

孟徳は衝撃を受けた表情で顔を上げた。


「彼らを死なせては、漢王朝を殺す事となろう。彼らの助命を皇帝に嘆願し、何としても救い出さねば成らぬ…!」

「はい、皇甫将軍!出来る限りの有志を募り、皇帝の元へおもむきましょう!」


二人は固く手を握り合った後、直ぐに城内を駆け巡り、有力な名士たちの元を訪れ、彼らから力を借りる約束を得た。

夜までに数多くの有志を集めた義真は、彼らを伴って早速、皇帝の元へと向かった。

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